天を仰いで生きる

使徒言行録 1章1〜11節

 ここには、二千年前、目に見える人間の姿をとって生きておられた神の御子イエス様が、地上での働きをすべて終えられて、ペトロたち弟子の目の前で天の父のもとに帰って行かれた時の様子が書かれています。ある意味で、これは新約聖書の中で最も大切な記事かもしれません。(9節)「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」雲は神のご臨在を表わす時に用いられます。イエス様は神に迎えられ、神の栄光の中で地上から去って行かれたのです。

 これはイエス様ご自身が、身を持って天につながる道を開いてくださったということではないでしょうか。私たち人間に対して、天というところがあるということを示してくださったのです。私たちは人が死んだ時、今は天にいるのだと思って安心しますが、いったい天はどこにあるのでしょうか。それは特定の場所ではなく、死から甦られ、天に上られたイエス様が今生きておられる所です。私たちは自分たちが死んだら確実に行くことができる所として天を知っているのではなく、私たちに先立って、イエス様が私たちの死を死んでくださり、甦って先に行かれた所として天を知っているのです。その確かさ故に、私たちもまた安心して死ぬことができます。イエス様が今おられる場所としての天、そこにつながり、そこに向かって導かれている道を私たちは今生き始めているのです。それが主を信じる信仰です。

 イエス様が天に上げられたのは、終わりではなくすべてのことの始まりです。ここに私たちの信仰と教会の始まりがあるのです。天使は告げました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」イエス様は天に上げられたのと同じ姿でまた戻ってこられるというのです。私たちの生活もまたこの世の目に見えるところだけで終わるものではありません。天とのつながりを知った上でこそ、地上での生活が本物になるのです。

 イエス様は復活されてから40日もの間、弟子たちの間に現われ、神の国について語られました。
 この地上に生きる私たちが、イエス様を通して、神がこの世界の支配者であることを知って生きること、そこに神の国があります。神の国とは私たちが永遠に神から離れることがない祝福された状態です。イエス様がこの世でのなすべきことを終えられて、天に上げられたということは、本当に素晴らしい神の御業です。私たちはイエス様を通して、生ける真の神の存在と力を知ることになりました。私たちが天を思い、天を知って生きる時、この地上の生活は天につながっているのです。すなわちイエス様を通して神につながっているのです。私たち地上に生きる人間の希望の根拠は、イエス様を通して示された神の御業にあります。今も天でイエス様のとりなしが続けられています。天のみくにを思い、天を仰ぎながら、与えられた日々を歩んでまいりたいと思います。

(牧師 常廣澄子)