幼子を抱いて

ルカによる福音書2章22〜38節

 生まれたばかりの赤ちゃんがもつその柔らさと愛おしさは心底感動するものです。小さな命はそっと扱わなければ今にも壊れてしまいそうな弱さを持っています。御子イエスはそのような小さな肉体を持ってこの世に来てくださいました。それは人間として生きるすべてを体験されたということです。御子イエスは、当時の子どもたちと同じ道をたどられました。律法を守り、八日目に割礼を受け、イエスと命名されました。そしてモーセの律法に定められた清めの期間が過ぎた時、最初に生まれた男の子として神に聖別されるために、エルサレムの神殿に連れて来られたのです。

 さて、(25節)「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」イエスが両親に連れられて神殿に入っていった時、このシメオンもまた御霊に感じて宮に入って行きました。そして幼子イエスを抱いたシメオンは、感謝と喜びで胸がいっぱいになり、その満ちてくる思いを賛美しました(29〜32節)。これは「シメオンの讃歌」と呼ばれ、ラテン語の最初の歌詞「ヌンク・ディミトゥス」(今こそ、去らせてくださいますという意味)がこの題名になっています。「もう私は思い残すことはない、いつ死んで良い。」ということです。これは命そのものであられるイエスに出会って、もう死を恐れなくなった人の賛美です。今まで生きてきたシメオンの人生の意味が十分に満たされたという満足感と安らかな思いがあります。

 神殿にはもう一人、夫を失って84歳になったアンナというやもめの女性がいました。シメオンもアンナも、多くの人の願いを背負っているかのようにひたすら祈り続けていました。シメオンは(25節)「イスラエルの慰められるのを待ち望んで」いましたし、アンナも(38節)「エルサレムの救いを待ち望んでいた」のです。シメオンもアンナも、神の民の救いのために祈り続け、求め続け、神の御業を信じて、絶えず神の宮にいて希望を抱いて生きていたのです。

 ですから、救い主が来られるということの本当の喜びを知っていたのはこのシメオンであり、アンナではなかったでしょうか。生まれてまだ1か月そこそこの小さな命に過ぎない幼子イエスを抱いたその手はどんなにずっしりと恵みの重さを感じたことでしょう。御子イエスがまず最初に会われたのは貧しい羊飼いでしたが、老いていくこの二人にもお会いくださったのです。

 老いることへの恐れの究極は、死に至ることへの恐れです。しかしここで、シメオンもアンナも自分の死を見つめています。シメオンは「今こそ、安らかに去らせてくださいます」とその死を受け入れています。それは死ぬべき人間の世界に神の御子イエスが来てくださったからです。シメオンは自分の死を見つめているだけでなく、生まれたばかりの幼子イエスの中に死を見ています(34〜35節)。そうであればこそ、自分の死が安らかに受け入れられたのです。イエスのこの世での歩みのスタート地点から、私たち人間の死との深い関わりが始まっていたことをしっかり覚えたいと思います。

(牧師 常廣澄子)