思い煩うな

フィリピの信徒への手紙 4章2〜9節

 フィリピの信徒への手紙の最後の章です。フィリピの教会は、パウロがヨーロッパに渡って最初に作った教会であり、それも迫害の中で形成されたものでしたから、パウロにとってはかけがえのない教会でした。パウロはフィリピの信徒を深く愛していましたので「私の喜びであり、冠である愛する人たち」(1節)と呼びかけています。この冠は国王が冠る権威の象徴としての冠(ディアデーマ)ではなく、競技や競争で勝った勝利者に与えられる冠(ステファノス)です。パウロはフィリピの信徒たちを福音の戦いに勝利した者と見ていたのです。そして当時は主の福音に敵対する者が多くいましたので、彼らに対して「主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。ここには信仰に堅く立つ秘訣が示されています。それが「主によって」(主にあって)という言葉です。これはキリストを媒介としてという意味です。私たちは自分の力だけでしっかり信仰に立つことは難しいですが、キリストを信じ、その死と復活の命に与ることによって、力強く生きていくことができるのだということです。これは、コロナウイルス危機の中に生きる私たちの信仰への励ましでもあります。

 この後、パウロは、フィリピの信徒たちに互いに協力することを勧めています。(2節)「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」フィリピの信徒たちの間にはどうも不和と争いがあったようです。この二人の人物については、ある人はエポディアをパウロが初めてフィリピに行った時に入信した獄吏の妻ではないかと考えたり、ある人はこの二人のどちらかは、フィリピで最初に入信した婦人リディアではないかと考えたり、いろいろな説がありますが、いずれも憶測にすぎません。確かなことは、この二人がフィリピ教会の建設に力を尽くした積極的な女性であったということだけです。使徒言行録17章4節には「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人(パウロとシラス)に従った。」とあり、マケドニア地方の教会には女性信徒が多かったことがわかります。

 残念なことに、この二人は意見の相違からか性格の違いからか、互いに対立するようになっていったようです。それが個人的なレベルで留まっている間はまだよかったのですが、それぞれに支持者ができ、そのために教会が二つに分かれてしまったらしいのです。こういうことは今の教会でも時々起こることです。パウロはそのことを知ったものですから、「主において同じ思いを抱きなさい。」と、二人に和解と協力を勧めているのです。

 さらにパウロは(3節)「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」ともう一人に、この二人の女性の調停者になるようにと頼んでいます。この「真実の協力者」が誰であるかについてもいろいろな説があるようです。ある人はこれがあのリディアのことではないか、ある人はシラスのことではないか、いや医者ルカのことではないか等々、いろいろと推測されています。しかし、一部の学者たちはまったく新しい説を唱えました。それは「協力者」という原語「スンズゴス」を普通名詞ととらずに固有名詞として考えたのです。そうだとすれば、フィリピの教会にはエボディアとシンティケの他に、スンズゴスという信徒がいて、仲違いしている二人に忠告できるような立場にいたのかもしれません。名前にふさわしく、きっとパウロに協力した人であって、今もなお教会で大切な働きをしていたのでしょう。パウロはこの方に親しく語りかけ「お願いします」「支えてあげてください」と依頼しているのです。

 パウロは教会を分裂させているこの二人の女性に対して、彼女たちの責任を追及していません。むしろ彼女たちの過去の業績をほめています。(3節後半)「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」この「命の書に名を記されている」というのは、信仰のために命を捨てて今は天に帰った人を表しています。ですから、以前にフィリピの教会に激しい迫害が起こって、クレメンスと何人かの信徒たちが殉教の死を遂げた時、エボディアとシンティケも福音のために勇敢に戦い、活躍してくれたのだと語っているのです。そのような素晴らしい女性たちなのに、仲違いしているのは非常に残念であるから、はやく和解して欲しいというのがパウロの願いであり、愛の現れです。

 ここからパウロは今までに何回も繰り返して語ってきた喜びの勧めを語っています。(4節)「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ教会の問題はまだ解決していません。目の前の状況だけを見ているなら喜ぶことは不可能ですが、主にあるならばそういう状態であっても喜ぶことができるのだということです。さらにパウロは主にあって大きな心でいることを勧めます。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」これは信仰に基づく寛容です。好きな人や愛する人だけに示す寛容ではなく、嫌いな人や好意を感じない人に対しても同じように広い態度で接すること、そのようにどんな人に対しても変わらない信仰に根差した愛や寛容をすべての人に示しなさいと、パウロは語っています。そしてその理由を「主はすぐ近くにおられる」からだと言います。当時の信徒たちは苦難と迫害の中でキリストの再臨を待ち望んでいました。「主は近い」という信仰が信徒を支えていたのです。その期待が彼らの希望であり、忍耐や寛容な心の源泉となっていたのです。

 現代においても、キリストが再びこの世に来られるというのは、私たちの希望です。それが主を信じる者の力となっていることは疑いのないことです。しかし将来を待つまでもなく、キリストは今私たちと共におられるのです。「すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に、主は近いのです。」(口語訳聖書 詩編145:18)主なる神であるキリストが私たちと共におられることほど私たちにとって大きな祝福はありません。主が近くにおられることを信じる者は、どんな時も寛容な広い心を持つことができます。私たちが不寛容になってしまうのは主が近くにおられることを忘れた時です。

 さらに、異教社会の中でいろんな問題に直面していて、ややもすると思い煩いに陥り易いフィリピの信徒に対して、パウロはそれに打ち勝つ秘訣を教えています。(6節)「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」人間は思い煩う者です。人間は事実をありのままに受け取らず、それ以上にいろいろと想像をめぐらし、心配し、恐れ、取り越し苦労をしがちなのです。病気になった場合でも、病気そのものを心配するだけでなく、もっと悪くなりはしないか、ひどくなって死にはしないか、死んだら家族が困りはしないかなど、先々のことまであれこれと想像して心配してしまいます。そしていたずらに心を苦しめてしまうのです。今コロナウイルス感染危機にある私たちは、いかに思い煩うことが多いことでしょうか。

 いったいこのような思い煩いはどこから生じるのでしょうか。ペトロは舟から一歩湖へと踏み出しましたが、風と波に気を取られ、主から目を離した瞬間、水の中に沈みかけました(マタイ14章参照)。この世の荒波や強風に心を奪われて神が共におられることを忘れ、神から目を離す時、誰でも思い煩いに沈み込んでいくのです。
 このことはフィリピという異教の町で暮らしていた信徒たちにはなおさらのことでした。どこを向いても冷たい目や批判的な態度の人が多ければ、心が穏やかでなくなり、被害妄想的な思いになってしまうのも当然かもしれません。それは今でも同じではないでしょうか。私たちは日々生じる問題に対していろいろなことを思い悩みます。このような思い煩いから逃れるにはどうしたら良いのでしょうか。パウロはその道を示します。(6節後半)「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」これは言い換えると、自分一人でくよくよ考えて、物事を処理しようとするのでなく、すべてを神に打ち明け、神と語り合うことによって思い煩いを祈りに変えなさいということです。

 ここで大事なことは「何事につけ」という言葉です。人間の経験していることで、どんなことであっても祈りに変えられないものはありません。信仰上の問題、家族の問題、仕事の問題、何でも神の前に持ち出しさえすれば、すべて祈りになるのです。祈りには何の制限もありません。大きいことから小さいことまで、どんなことでも神に祈って良いのです。神の慈愛の心にあっては、どんな問題であろうと、大きすぎることも小さすぎることもありません。

 「感謝を込めて祈りと願いをささげ」とありますが、祈りが二種類あるのではなく、祈りを総括しているのです。あらゆる祈りを感謝をもってささげなさいと勧めています。私たちの生活は感謝どころか不平不満になるような事柄で満ちていますから、感謝をもって祈れというのは無理な注文に聞こえるかもしれません。確かに感謝しづらい状況に置かれている時もあるでしょう。しかし、イエス・キリストに現れた神の恵みに目を留めるならば、どんなことでも感謝することができるはずなのです。私たちを取り巻いている状況がどうであろうと、キリストが私たちのために救いを全うされたという事実は変わらないからです。そこからは常に感謝の念が沸いてきます。

 ある人は感謝は祈りの翼であると言いました。感謝という翼に運ばれて祈りは神のみもとに上っていくのです。旧約聖書の詩編には苦しみの中から神に呼ばわるものがたくさんありますが、苦しみを訴えている叫びであっても、そこには感謝と賛美が伴っています。実際、感謝の気持ちのない人は祈ることができないのです。これは真理です。今の私たちが置かれているコロナウイルス感染危機という事態でも同じことです。亡くなっていく方が増え、悲しみや苦しみの中にあって、それでもなお私たちは訴え得る神の存在を感謝して、心の叫びを救いの神に申し上げるのです。
 「求めているものを神に打ち明けなさい。」祈りが祈りとなるのは、求めていることを神に申し上げることです。私たちの祈りは人に語ることではありません。祈りは神に打ち明けることなのです。どんなにたどたどしくても、神に申し上げることで祈りは成立します。思い煩いに打ち勝つ秘訣は、あらゆる問題を祈りに変えていくことにあるのです。そして、祈りによって思い煩いに打ち勝った人には深い平安が与えられます。それをパウロは「あらゆる人知を超える神の平和」と呼んでいます。神の平和はこの世の平安や人間の平安とは性質が違います。それは人間の予測や想像や理解力を超えたものです。財産ができたり、良い学校や職場に入ることができたりするようなことではありません。それらはすべて外部の条件に依存しています。しかし神の平和は、静かに神に語り、み言葉に触れ、聖霊の交わりに与った時に実感します。すなわちそれは心の奥から湧き上がってくる平和であって、神の愛に対する信頼に基づいているのです。

 そういう平和が私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守ってくださるというのです。当時のフィリピの町はローマの軍隊によって守られていましたが、神を信じる者の心は神が守っていてくださるという約束です。イエスは十字架にかかられる前の晩、弟子たちに言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)

 キリストを信じるということは、この神の平和の中に生きることです。あらゆる問題を祈りに変えていくならば、思い煩いに打ち勝つだけでなく、どんな時にも神の平和が与えられます。これはこの世で信仰をもって生きていく上で大切な心だと思います。神は私たちの不安や恐れを平和に変えてくださるお方なのです。今、コロナウイルス感染による世界の危機を生きている私たちですが、すべての人を愛して死をも厭わなかったお方の助けと導きを信じて、神にある平和の中を生きていきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)