神はわが助け

詩編46編1〜12節

「神はわがやぐら」という讃美歌があります。(新生讃美歌538番、日本基督教団讃美歌267番)これは宗教改革者マルティン・ルターが詩編46編を基にして作ったものです。力強い神の約束が荘厳なメロディーと調和して、誠に重みのある讃美歌です。この曲は、ルターが1517年10月31日に95か条の提題を掲げて改革の火ぶたを切ってから10年くらいたった頃に作られました。当時の教会は罪が赦されると銘打って贖宥状を乱売していましたが、ルターは修道士として厳しい修業をしながら必死で神に祈り、徹底的に聖書を研究し、終に人が義とされるのは律法の行いではなく信仰によるのだ(ローマの信徒への手紙1:17、3:28)ということを見い出し、この提題を掲げたのです。それからのルターは、神が求められる本当の信仰、本当の教会を求めて苦闘していきます。しかし、その戦いはなかなか終わらないばかりか、ますます悪化していきました。ルターはこの間に重い病気にも見舞われ、その頃はヴィッテンベルク城の奥にかくまわれ、孤独な境遇の中にいたのです。そして何よりも、ドイツ皇帝(カール5世)とローマ教皇とが互いに提携してルターに対抗していました。彼の身の上には、大きな危険が迫っていた時期です。この曲が作られた背景にはそういう状況がありました。そのことを思いますと、歌詞の一つ一つがルターの神への信仰を歌っていることがわかります。この讃美歌は人生の深い淵から発せられた純真な信仰告白であり、神の栄光を歌う賛美です。

 この46編は詩編150編の中でも特に有名なものです。短いですが、創造から終末に至るまでのスケールの大きな詩で、神への信仰を堂々とした調子で歌っています。おそらく、伝統的なイスラエルの信仰を背後に持った優れた一人の信仰的詩人が、神の霊感によって歌ったものだろうと考えられています。きっとルターは深い悩みと苦しみの中で、この詩編46編から豊かな慰めを得たのでしょう。そこからこの詩編をベースにした讃美歌が生まれたのだと思います。
まず、1節に書かれている「アラモト調」というのは、楽器の種類、あるいは調子、あるいは声の種類、何かそういう音楽に関係することを示すものであろうと考えられていますが詳細は不明です。また4節、8節、12節の後にある「セラ」というのは、ここで楽器の伴奏が入るという意味ではないかと考えられています。

 この詩の形は三部からなっていることがわかります。第一部は2〜4節で、混沌から始まる創造の世界を歌っています。3節「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも」これは直接的には地震の様子を思わせますが、4節「海の水が騒ぎ、湧き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」とありますから、水が神に向かって高ぶってくる、つまり神の創った世界の秩序を乱すようなことが起こることを語っているようです。
 そういう恐ろしい時が来ても、(2節)「(神は)必ずそこにいまして助けてくださる。」というのです。「必ずそこにいまして」これはあちこち探さなくても、信じる者のすぐそばにおられるという約束です。どんな人であれ、人生に苦難はつきものです。どんなに平和な日々が続いていても、地震や洪水のように突如として苦難は襲って来ます。そして私たちの生活をその根底から覆してしまいます。そのような時でも、(2節)「神は私たちの避けどころ、私たちの砦」であると歌います。そういう苦難に遭った時、神を信じる者はすぐに神の避難所に逃げ込み、身を潜めることができる、そこで魂の平和を得るのだと歌っているのです。避けどころというのは、まさに避難所で、何か危険が迫ったら逃げ込む所ですし、砦というのは要塞ですから、重要な地点に造られた防御施設です。口語訳聖書では、2節は「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」となっていてとてもわかりやすい訳だと思います。

 第二部は5〜7節です。ここには神の都のことが書かれています。エルサレムは神の都と呼ばれていました。エルサレムは、かつてイザヤの時代にアッシリアの攻撃にあった時は破壊を免れましたが、その後バビロンによって破壊されてしまいました。しかし神の都エルサレムは、ユダヤ人の信仰心では強い象徴的意味を持ち続けていました。ですから、6節「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」という約束は敬虔なユダヤ人にとって大きな心の支えとなっていたのです。

 まず大河、大きな川のことですが、エジプトにはナイル川が流れ、アッシリアにはユーフラテス川がありますが、エルサレムには大きな川はありませんし、水に乏しいのです。川はエルサレムの憧れでした。5節「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。」ウガリット神話には、神の園には川が流れていて、神の都を喜ばせているのだという話があります。また創世記2章10節にも神の園から川が流れていることが書かれています。川というのは永遠を思わせますし、悩みや苦しみの時に川のほとりにたたずむなら、しばし心が静まり、魂の平安を得ることができます。川とか水というのは、聖霊の流れをも感じさせるものです。

 6節「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」この都は神がおられるがゆえに揺るがないのだと言います。そして夜明けとともに、神の助けが来ると歌います。これは、朝の光が創造者である神の恵みを表すものだからです。暗黒の夜が過ぎて迎える希望の朝は、一日のうちで最も素晴らしい力に満ちた時間です。朝は、私たちには何かしら厳かな霊の存在を感じさせる時ではないでしょうか。7節「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。」周りの国々や民族が動揺していても、神の都は動くことなく、ただ神が御声を発すると、その一声で周りの地は崩れると歌います。まことに真の神は敵にとっては恐ろしい存在であり、信じる者には頼もしい避け所であるのです。

 第三部は最後の段落9〜11節です。ここは歴史の完成、終末のことを歌っています。終末には完全な神の支配の時が訪れます。この地球上には、今なお各地で、国と国、民族と民族の争いや戦争が続いていますが、どうすればこの争いが止むのでしょうか。それはただ神の前に静まることです。神の前に静まれば戦争は必ず止みます。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ書30:15)人間が互いに我意を通し、損得を考え、責任を回避している間は、戦争が止むはずはありません。争っている者は、まず自分の考えや政策以外にも、良き方策や正しい道があることを知るべきだと思います。我意を主張しているだけなら、戦争が止む道がすぐそばにあってもこれを見ることができません。神は人々を助けるために多くの道を用意しておられるにも関わらず、ただ人間の傲慢がその収拾を妨げているのです。人が苦しい状況を脱出するのも同じで、まず神の前に静まって神を仰ぐことです。その時、なすべき道が見えて来るのです。

(9節)「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。」今、互いに自国の権利を主張しているアメリカと中国の関係や、世界の各地で争っている多くの国々のことを思いますが、この「主の成し遂げられること」というのは、全世界の完全な平和です。このことをこの詩人は世界の歴史が完成した姿として確信しています。神の力は全地の騒ぎを鎮め、永遠の平和をもたらすのです。平和というのは確固として動かない神の力に満たされることです。本当の平和への道は、まず神を知ることから出発しなけらばならないのだと思います。そうすることによって、(10節)「地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」神を知らなかった諸国の人々も真の神を知って武器を捨てて戦いを止め、神を崇めるようになるというのです。(11節)「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」この呼びかけは、イスラエルだけでなく諸国の民に向けられています。そういう偉大な幻を、詩人は「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」という折り返し句によって、信仰のよりどころとして歌っているのです。

 この「折り返し句」は、8節と12節、各部の末尾にあります。たぶん第一部の4節の後にもあったはずですが、書き写す作業の段階で脱落してしまったようです。折り返し句の「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」という信仰告白が、この詩編46編の中心主題ではないでしょうか。預言者イザヤは、何度もエルサレムに襲いかかった敵の攻撃に対して、常に「神われらと共にいます」という信仰によって、ただ静かに神の約束を信頼して立つ以外に救いの道はないことを説いています。

 さてこのような詩編46編をもとに、ルターは先ほどの讃美歌を作ったわけですが、ある牧師は、この讃美歌は人間に絶望しきった時の歌だと言われました。ルターはこの時、ただ大いなる神の力にのみ信頼を置き、自分の力やまして人の力などは頼みとしていなかったのです。2節「いかに強くとも、いかでか頼まん、やがては朽つべき人の力を」この信仰は、四面楚歌、疾風沐雨の辛い戦いの時、あるいは立ち上がれないくらい落ち込んだ罪の真っただ中にある人の叫びです。また、ある方は、この歌は自分に絶望した人が、神の大いなる力を得て立ち上り、進軍ラッパの音と共に行進する歌だと言いました。おそらく世界中の多くのクリスチャン、あるいは世にある多くの教会がこの歌を賛美しながら苦しい状況から立ち上がっていった体験があるのではないでしょうか。

 今、私たちの人間社会を恐怖と混乱に陥れているのは、新型コロナウイルスという小さな微生物ですが、見えない敵として、人間社会に戦いを挑んでいるようにも思えます。しかしある意味では人間に対して、いったん立ち止まって人類の行く先をしっかり考えなさいというメッセージを出しているのかもしれません。人間はこの苦しい戦いに何をもって勝利できるのでしょうか。医師は全力をあげて新型コロナウイルス感染者の治療にあたっていますし、世界中の科学者はワクチン開発の研究にあたって、一日もはやく製造にこぎつけようと努力しています。人々は感染して死に至らないようにと、必死で防御体制を強化しています。外出自粛も教会での礼拝を休止したことも感染防止のためでした。

 たしかに私たちは今、とても困難な事態に置かれています。けれども困難であるからこそ、どこを見ても恐れや不安に満ちた苦しい状況だからこそ、全世界をみ手に治めておられる神が私たちの助けであり、力である、ということをこの詩編から学びたいと思います。神は私たちの創り主です。しかし聖なる天上の世界に鎮座まします神ではなく、私たちを助けるために、神ご自身が人間世界に降って来られた愛の神なのです。そして私たちの重荷を担い私たちの罪を贖い、私たちを助けてくださいます。神は勝利者です。イエス・キリストの父なる神が私たちの避け所であり力なのです。

 私たち人間はすべての物を神から与えられて生かされています。何もかも自分の力でできるかのように思っているかもしれませんが、いったん問題が起こり、危険にさらされ、苦しみが襲う時、人間は自分自身には何の頼るところもないことに気づきます。人間は本当に小さくて無力な者にすぎないのです。真の神に信頼する者こそが、行き場のわからない暗闇の中にあっても、不幸と逆境の涙の中にあっても、堅い砦に守られるのです。主なるキリストを私たちに与えられた真の神は常に我らと共にいますということを、今こそしっかりと信じたいと思います。「神はわがやぐら」と歌ったルターの信仰を思い、真の神への信頼をもって生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)