すばらしい喜び

ペトロの手紙一 1章1〜12節

 このペトロの手紙は、困難にある人々を慰め、励ますために書かれたと言われていて、昔から多くの人に愛されてきました。はじめに少しこの手紙のことをご説明したいと思います。この手紙を書いたのは、1節に「イエス・キリストの使徒ペトロから」とあるように、ガリラヤの漁師からイエスの弟子となったペトロです。ペトロは兄弟アンデレと共にイエスの弟子となって、イエスに従っていきました。ペトロに関しては様々なエピソードがあり、聖書のあちこちにペトロの驚きや戸惑い、その行動が語られています。そのようにイエスの一番身近にいたペトロですが、イエスが十字架につけられた時には、イエスを捨てて逃げてしまいました。その後、復活のイエスに出会って、三度も私を愛するかと問われて、改めてイエスに対する愛を告白し、新たな思いでイエスに従っていったのです。その後は主の御霊に導かれて福音のためにすばらしい働きをしていきました。そして最後にペトロは殉教の死を遂げるのですが、イエスと同じでは申し訳ないと、自ら逆さはりつけを求めて死んだと言われています。

 そのように立派なペトロではありますが、ガリラヤ湖の漁師でアラム語を話していたペトロが本当にこれを書いたのだろうかと素朴な疑問が起こります。それはこの手紙がとても整った美しいギリシア語で書かれているからです。ペトロはそのことについて、この手紙の中ではっきり説明しています。5章12節に「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」と。ペトロと共に行動していたシルワノが、ペトロが語ったことを書き記して文書化したということです。このシルワノという人は、使徒言行録(15章参照)やパウロの手紙(Ⅱコリント1:19)に出てきます。彼はパウロの同労者でもありました。使徒言行録ではシラスという名前で出てきます。彼はとてもギリシア語が堪能であったのです。

 この手紙を書いた場所は、たぶんローマであろうと考えられます。「イエス・キリストの使徒ペトロ」というように語るペトロは、主に遣わされて各地を訪ね歩いて主の福音を語り、とうとうローマにまで赴いたのです。この手紙の最後の挨拶のところで(5:13)「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」と書いてありますが、「バビロンにいる人々」というのは、パレスチナから東方にあるバビロニアという国のことではなく、ヨハネの黙示録などにも使われているのですが、バビロンは当時の世界の中心地であったローマの都を指すと考えられています。

 では、この手紙が誰に宛てて書かれたかですが、これは1節に書かれています。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」宛先は一つの教会ではありません。ここに書かれている土地の名前をみるとかなり広い地域で、小アジア地方一帯、今のトルコ共和国の大部分です。この地方に散らばっていた諸教会の人たちに送られた手紙だということがわかります。当時は今のように便利ではありませんから、この手紙は廻し文のように、人によって持ち運ばれて届けられたのです。おそらく集会のたびに読まれたのでしょう。この手紙を受け取って読んだ人たちは、大いに慰められ、励まされ、喜んでまた次の集会の場所へと届けられていったのではないでしょうか。当時の旅は徒歩と野宿ですから、この手紙を配達する使者は、この手紙を携えて何日も何日もかかって次から次へとキリスト者の集会に届けたのです。たぶんここに書かれている順序で各教会を訪ねたのではないかと考えられています。

 この手紙を受け取った人たちは、迫害のために故郷パレスチナを離れて、これらの地方に避難民として流れてきた人たちが中心であったのでしょう。いわゆる「ディアスポラ」と言われる人たちです。しかし、ユダヤ人でない人、異邦人の中からもキリストへの信仰を持った人がたくさんいたと思われます。「ポントス、…に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」とあるのは、地上においては故郷を追われて避難民として異郷の地に住んだ人であり、また信仰においては「国籍を天に持ち、この世に仮住まい」している者たちであって神の民として選ばれた者であったからです。

 そのことは1章18〜19節に「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」とあるように、この人たちは、先祖から受け継いでいた古い偶像崇拝の生活様式から解放されていったのです。2章10節には「あなたがたは、かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり。」とあります。ですからペトロはこの人たちを、選ばれた人たちと呼んでいるのです。

 2節「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」
 このような信仰表現は、パウロの手紙にもよく見られます(エフェソ1:4)。私たちはすべて、神様に以前から知られている者だということ、ただ主の“霊”によってのみ聖なる者とされるという信仰を、当時の人たちはしっかり教えられ受け止めていたのでしょう。

 このペトロの手紙は、最初と最後のあいさつのところはまさに手紙形式なのですが、書かれている中心部分は、当時の礼拝の中から生み出されてきたものではないかと言われています。3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」この後半部分は、洗礼式の時の言葉ではないかとも言われています。少なくとも信仰をもって洗礼に与かるという具体的な体験がないと理解できないことでしょう。

 ここには「生き生きとした希望を与え」とありますが、今、新型コロナウイルス感染のことで、世界中が混乱している中に生きる私たちは、はたして望みを持って生きているでしょうか。3節を繰り返しますが、「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくれる」のです。イエス・キリストが甦られたことによって、私たちには「生き生きとした希望」つまり救いの望みがあるのです。
 続く4節から6節は一言一言が慰めと励ましに満ちています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」

 この6節「心から喜んでいるのです」というのは、5節「終わりの時」のことを受けています。この「終わりの時」というのは、もうこれが最後かもしれないというような危機的な終わりの時で、そのような試練や悩みの中で大いに喜ぶというのです。ペトロは、自分と彼らには共通の喜びがあり、それがそれぞれの信仰の試練の中にあっても守られているのだと語っているのです。ここには私たちが受け継ぐべきものが表されています。それは終わりの時に明らかになる「救い」です。

 もちろん私たちは日々「救い」の中にいますし、どんな時にも私たちは神の恵みと憐れみの中に守られていますが、その神の憐れみ、本当の救いは「終わりの時」にはっきり明らかになります。その終わりの時の喜びを、まるで今がもうその終わりの時であるかのように、私たちは知っているのだと言っているのです。なぜそのようなことが言えるのかといえば、5節「神の力により、信仰によって守られているからです。」これは本当にすばらしい喜びです。

 ペトロがこの手紙を書いたのは、おそらく自分に対しても迫害の危機が迫っている時だったと思います。その困難な状況にあったペトロも、この手紙を受け取った人たちも、共に同じ喜びで生きているのです。ペトロはこの手紙を送る信徒たちの中にその同じ喜びがあることに、大きな満足感、幸福感を感じているのです。

 8節「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」この手紙を書いたペトロは、イエスと共に生活していましたからイエスを見て、その言葉を聞いていました。しかし、この人たちはイエスを見たことがないのに、イエスを愛し命をかけて生きています。今やひたすらイエスへの愛によって生きているペトロは、この人たちのイエスを思う愛に自分の愛を重ねて、ただただ感動しているのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスのことだけではありません。私たちの日常には様々な試練があり、様々な悩みがあります。大きな地震や津波が来て、もうこの世は終わりだと思うような状況にも遭遇します。しかし私たちが世界を終わりにするのではありません。神が必ず栄光に満ちた世の終わりをもたらしてくださいます。その根拠は、御子イエスを死人の中から甦らせて私たちの救いを完成してくださったという神の憐れみです。それが望み見えるからこそ、イエスを見たことはないけれども愛することができるのです。

 イエスを信じて生きるとはどういうことでしょうか。神が歴史の支配者であり、私たちの救いは神が与えてくださるもの、私たちの救いは天にあると知って生きることです。11節に書かれていますが、昔の預言者たちは、キリストの苦難とそれに続く栄光についての神の言葉を託された時、それが誰を指し、あるいはそれがどの時期に起こるのかを調べました。そして彼らは、イエスがどんなに立派な教えを語られるかではなく、イエスが受ける苦難とそれに続く栄光を預言したのです。それこそが今私たちに与えられている真の神を信じる信仰であり、イエスによる救いの出来事です。12節「天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」天使というのは、神のことを最もよく知る存在です。そういう天使たちが私たちが神を信じている様子(礼拝)を見て確かめたがっている、のぞきたがっているというのです。それは私たち主を信じる者の礼拝には神の霊が豊かに満ちあふれて、喜びの賛美があふれているからです。そのような心で、今週も主と共に歩んでいきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)