隣人愛

ローマの信徒への手紙 13章8〜14節

 コロナウイルス禍が長く続き、さらにまた、豪雨による大きな災害が九州地方はじめ、全国を襲っております。斯様な状況から、本日箇所に出て参ります「あなたがたは、今がどんな時であるかを知っています。」の聖句(13章11節)は、より身近に感じられます。

 二年余り続いておりますローマ書からの説教、現在は「実践生活についての教え」である、12章以降に入っておりまして、本日は13章8節からです。何時ものように、直近の前の部分を確認しながら、先へと進みたいと思います。12章では、この世における実践生活、そのものが“霊的礼拝”、また“理に適った礼拝”である。それは、すでに主イエスさまが、ご自身の十字架の贖いによって、わたしたちを生かしていてくださいますからです。よってわたしたちは、日々“霊的礼拝としての実生活”を送っていくことができます。その礼拝たる実生活においては、「愛に偽りがあってはならない」、「兄弟愛をもって互いに愛し合うように」、との勧めをいただくのです。
 13章に入りますと、主にあっての具体的な対人関係、その生き方が示されております。1~7節では、組織の上に立つ者を、わたしたちはどのように理解し、その人たちと共にどう生きるのか、の勧めがありました。聖書の表現にしたがいますと、上に立つ権威(その役割に就いている人)も、わたしたちと同じく、神に仕える者である。よって、その人たちのために祈り、支えるべきである。そして、その人たちも、時には道から外れることがあるので、そのときは、忠告してあげるべきである、この最後の部分は、ジャン・カルヴァンの言葉でした。

 以上に続いて本日箇所です。ここは、新共同訳聖書では、「隣人愛」と「救いは近づいている」の二つの段落に分けていますが、内容的には大きな一つの段落と捉えることができます。その大きな意味は「今がどんな時であるかを弁(わきま)えながらか、隣人愛をもって生きるように」これが勧めの言葉です。因みに岩波版聖書では、13章8節以降全体に「律法を満たす愛」の見出しを付けています。

 では詳しく見て参りましょう。8節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」と記されています。この言葉は内容的に、さらに二つのテーマに分けることができます。初めのテーマは、「借りを持つことと、互いに愛し合うことの関係」、二つ目は「人を愛することと、律法の関係」です。先ず初めのテーマ、借りを持つことと、互いに愛し合うこととの関係について、です。
 この箇所は、原語のギリシア語聖書で次のように表現されています。「誰にも、何も、借りてはならない。ただし、お互いを愛することだけは別です。」とです。因みに新改訳聖書では、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」と、原語に忠実な訳をとっております。すなわち、“人(他人)に対しては何も借りを持たないように”との強調が先にあり、しかし、互いに愛し合うことは別ですよ、と言っているのです。
 では、“借りを持たないように”とは、どういうことでしょうか。それは、単なる経済的な“貸し借り”のことではありません。そうではなく、他者に対しての“果たすべき責任”のことです。因みに直前の段落でも、「貢」あるいは「税」のこと(13章7節)が記されておりました。

 当時のギリシア、ローマ世界に在っては、いかなる負債も負っていない人が尊ばれ、尊敬の対象であったといわれます。あるローマ人の墓石に「善く生き、誰にも、何物をも借りを持たなかった」と刻まれていた、ということを、ある説教者は紹介しております。それは、「キリスト者が、世にあっては、社会人としての義務をきちっと果たすように」という意味の勧めです。
 さらに遡って、旧約聖書、詩編37篇21節に「主に逆らう者は、借りたものを返さない。主に従う人は憐れんで施す。」とあります。

 さらに進みまして、“借り”を“負い目”ととりますと、マタイ福音書6章12節(“主の祈り”の箇所)で「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」とあります。わたしたちの罪を、イエスさまは十字架の贖いによって、取り除いていてくださり、そのことによって、わたしたちは、自由の身として、お互いに他者を愛する、相互愛への生活へと導かれているのです。
 だいぶ長くなりましたが、先に挙げました、二つ目のテーマ、「互いの愛し合うことと、律法の関係」です。旧約聖書には、律法の中でも代表的な「十戒」(出エジプト記20章)で、前半は“神と人との関係に関する戒め”があり、続いて、人と人に関する戒め、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、等々があります。
 そしてイエスさまは仰いました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ福音書5勝17節)。さらにイエスさまは折に触れて言われました。「あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節ほか)、このことが律法を全うすることになります、とです。

 次は11節からの段落に入ります。11節「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」、とあります。
 使徒パウロは、このローマ書を55年頃にローマの人々あてに書いておりますが、その頃すでに、イエスさまの十字架の死と復活から20数年が経っております。しかし当時の人々は、なおも“主の再臨近し”という信仰をもちつつ、緊迫感をもって過ごしておりました(なお、その緊迫感も、80年代90年代になりますと、次第に薄れていって、“じっくりした再臨待望”へと変わっていったのです)。

 本日の聖書箇所には、主の再臨待望の緊迫感、そして、再臨を待つ人の心構えがどうあるべきか、が滲(にじ)み出ております。さらに、これらの言葉の陰にある、もう一つのこと、すなわち、当時の時代背景を、わたしたちは読み解かなければいけません。
 当時のイスラエルの国は、ローマの支配下にありました。またそのローマは、さらに、多くの国々をその支配下に置いておりました。そしてこの時代から間もなく、クラウデイス帝によるユダヤ人の迫害があり、その緊迫した関係は70年まで続き、エルサレムの陥落へとつながります。
 このような、“世界の政治の動き”に対してパウロは緊迫感をもちながら、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と、本日箇所を認(したた)めていたことでしょう。

 今日のわたしたちの時代、世界状況に目を転じますと、“新型コロナウイルスによる禍”の恐怖と試練、さらには、“国際間の政治的対立や、争い、いがみ合い”などが絶えることがなく、大きな課題となっております。
 今もわたしたちは、「今がどんな時か、弁(わきま)えているでしょう」と問いかけられているような気がいたします。

 11節に戻ります。ここには、“今がどんな時か、そして人々がいま何をすべきときなのか”と、ここは、二つの「時」が使い分けられているのです。先ず初めの「時」、“今どんな時”かに対しては、「カイロス」という言葉が使われています。わたしたちも使います、“時を知る”とか、“風を読む”などというような言い方は、「時代」、「丁度よい時期」という意味の言葉です。
 旧約聖書、コヘレトの言葉の3章1~8節には「何事にも時があり 天(てん)の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、云々」と続きます。さらに、新約聖書、マルコによる福音書1章15節、のイエスさまが伝道を始められたとき言われた言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」など、「カイロス」に相当する言葉です。
 さらにもう一つ、後に出てきます“とき”は、具体的に何かをする“とき”であり、朝起きる時、寝る時、などです。これには「ホウラ」という言葉を使っています。

 12節以降に入ります、「夜は更け、日は近づいた。だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」。「日」、「光」、「昼」は、神の支配が及ぶ時間であり、場所を象徴的に表現しております。そして、「夜」、「闇」、「暗闇」は、その逆に、神の支配が及ばない世界です。そしてそこには悪事が蔓延(はびこ)りやすいので、“光の武具”を身に着ける必要があります。

 エフェソの信徒への手紙、6章11節に「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。」ローマ書と同様の勧めがあります。ローマ書に戻りまして、「光の武具」、ないし「神の武具」は、なにも武装することではありません。そうではなく、そこに立つ人々の心構え、品位、であり、そして行いのことです。
 さらに(ローマ書)13節b、14節には「酒宴、酩酊、等々を捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。」とあります。“キリストを着る”はパウロが好んで用いる言葉のようです。ガラテヤの信徒への手紙3章26節27節に「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とあります。
 わたしたちは、これからも、「光の子」として、神の武具を身に着け、イエス・キリストを身にまといながら、この困難な時代を、力強く乗り越えて、日々を生きて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)