無くした銀貨

ルカによる福音書15章8〜10節

 ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が書かれています。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」です。今朝お読みいただいたのは、真ん中にあるたとえ話で、最も短いものです。この箇所はその前の「見失った羊のたとえ」の陰に隠れて、さっと読み過ごしている個所かもしれません。実はこれら二つの話は一対になっていて、同じ趣旨のことを語っていると考えられています。つまり同じ主題について事柄を変えて二回語ることによって内容が一層協調されるからです。

 この段落は大変短くて、実に単純な分かりやすい話です。あるところに十枚のドラクメ銀貨(ドラクメ銀貨というのはギリシアの貨幣で、当時はパレスチナ地方でも使われていたそうです。これはローマ貨幣の1デナリオンと同じで、一日の労働賃金にあたる額だったようです。)を持っている女の人がいて、そのうちの一枚を何かのひょうしに無くしてしまったというのです。それで、明かりをつけて家中を隅々まで徹底的に大掃除して捜しまわったあげくにやっと見つけたのです。もうとても嬉しくて、大喜びでそのことを親しい友達や近所の人に知らせて回り、一緒にそれを喜んだという極めてシンプルな話です。

 このたとえ話のきっかけとなったのは、イエスが行っていたことに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが不平を抱いていたこと(2節)です。イエスは「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た(1節)」ので「彼らを迎えて一緒に食事をしていた(2節)」のです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、律法を守らない罪人と一緒に食事をすることなど考えられません。そういう場面で語られたのがこれらのたとえ話です。

 さて、「無くした銀貨のたとえ」は、ある女の人について語っています。その前の「見失った羊のたとえ」では、羊飼いという男の人が出てきます。これで一対となっています。羊飼いは「百匹の羊を持っていた人」(4節)のですから特に貧しいというわけではありませんでしたが、羊飼いを雇うほどの金持ちではなかったようです。この女の人は明らかに貧しい暮らしをしていたようです。銀貨一枚のために家じゅうを大掃除して見つけるまで捜すというのです。

(8節)「ともし火をつけ」とあるのは、それが夜だったからではありません。貧しいパレスチナの家には窓がないのです。戸口から差し込む陽の光だけでは昼間でも室内が暗くて、無くした銀貨を見つけ出すのは容易なことではありません。ですから女の人はともし火をつけて、家じゅうを掃いて回ったというのです。おそらく棕櫚の木の枝を束ねて箒のようにしたものでしょう。隅の方から注意深く掃いて、銀貨がどこに隠れているかを捜すわけです。彼女は目だけでなく、手でさわり、そしてかすかな金属音を聞こうと必死で耳を傾けて、全身で銀貨を捜したのです。

 でも彼女はどうして銀貨一枚のためにそんなに一所懸命捜すのでしょうか。実はこの女の人にとってこの十枚の銀貨は、そのうちの一枚も欠けてはならないものだったのです。というのは、銀貨十枚そろって一つの物として彼女の貴重な宝だったからです。パレスチナ地方に住む女性の間では、金貨や銀貨をつなげて首飾りや頭飾りにして身に着ける風習があったそうですが、この十枚の銀貨はおそらく彼女が花嫁の時の飾りであったのでしょう。またそれは両親からいただいた持参金でもあったのではないでしょうか。この女性にとっては、もしも何か非常事態が起きた時にはそれを使うという緊急時の貯えでもあったと思います。いずれにしても、それは彼女自身の存在と密接に結びついた宝物であり、かけがえのない物だったわけです。ですから、彼女はそれを見つけるまでは注意深く丁寧に捜して、必ずや見つけ出さずにはおれなかったのです。

 そして、とうとう彼女はこの無くした銀貨を見つけ出しました。その時、彼女は友達や近所の女の人たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいとつつましい祝いの席を設けたというのです。自分の喜びを伝えて、共に喜んで欲しいと願うのは、彼女の喜びがどんなに大きかったかを表しています。この喜びの中には、大事な十枚のうちの一枚を無くした時のショックや悲しみの大きさと、家中を隈なく捜しまわった大変さと悲壮さが入り混じっています。だからこそ、それを見つけ出した時には、例えようもない大きな喜びがあったのです。

 ところで、「見失った羊のたとえ」の話に出てくる、迷い出た一匹の羊は動くことができたはずですが、羊飼いが探し回っている時、その声を聞いて声の方に近づこうとしたり、何か努力したということは書かれていません。羊飼いがただひたすら捜しまわって見つけ出したのです。「無くした銀貨のたとえ」では、もとより一枚の無機質な銀貨の方で何かできるわけでもありません。落ちたところでじっと捜し出されるのを待つだけです。このたとえ話では、もっぱら羊飼いや女の人の側からの捜し出そうという熱意、その愛の深さ、そして発見した時の喜びが語られているのです。

 ではこのたとえ話の「無くした銀貨」というのは具体的にいったい誰を意味しているのでしょうか。この箇所では、イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちに語っているのですから、徴税人とか、律法を守れずに罪人だと決めつけられ、排除されている人たちもまた、神の民なのだというメッセージが込められていると思います。徴税人や罪人たちに特別な関心を寄せられたイエスの愛は、今やイスラエルの民を超えて、私たちの所にまで、地の果てにまで及んでいます。あらゆる時代、あらゆる地域を超えて、今も「見失った羊や無くした銀貨」のために、それらを捜し求める神のみ手が働いているのです。

 そして私たちがこれを読む時、「無くした銀貨」とは実に私たち一人ひとりだということに気づくように求められていると思います。これはひいては、バプテスマを受け、礼拝の交わりの中にあったけれども、今は群れの外にいて遠くに身を置いている人がいるということにも通じることです。私たちもかつてはそうであったかもしれませんし、時にはそのような信仰姿勢でいることもあり得るのです。私たちは、時には「無くした銀貨」であり、また時には「なお手元に残っている銀貨」でもあるということです。どちらの側にあろうと、神の救いの中にあることを忘れてはならないと思います。イエスの愛のまなざしは、今信じている者だけでなく、神のもとから失われている者、かつて神に近く歩んでいたのにそこから遠くに去ってしまった者にも向けられています。そしてそのような者にこそ、群れに留まっている者にまさって神の特別な関心が注がれており、神の愛の深さが示されるのだということです。

 このことは神の民の群れから離れ、失われている者の一人ひとりにとって大きな救いです。しかも同時にこのことは、なお神の群れに留まっている者たちにとっても大きな恵みです。群れの外にまで見失った羊を捜し求めていく羊飼いの愛、家中を大掃除して隈なく捜し出すという女の人の愛があればこそ、残りのすべての者もまた愛され、守られていることがわかるのです。しばしば「無くした銀貨」のような存在になる私たちではありますが、たとえ遠くに迷い出たとしても、その置かれた所にまで出向いて行って、必ず見つけ出し、赦し、受け入れてくださる神の愛があることを感謝したいと思います。

 しかし失われたものとしての人間は、自らの力で神を見出すことはできません。この人間の無力さがこのたとえでよくわかります。しかし、この無力な人間を探し求め、近づいて来られる神に見出された時、そこに悔い改めが起こるのです。このイエスのたとえ話の中心は、実は「罪」ということではないでしょうか。聖書が言う「罪」とは、神から離れている状態をいう言葉です。法律を犯したことなどないという人格的に社会的に立派な人であっても、もし神を知らず神から離れている状態にある時は、神の前に罪人であることに変わりありません。それに気づいて神の許に戻っていくことが「悔い改め」なのです。このことを納得した時はじめて、このイエスのたとえ話は自分のために語られているということがわかるようになるのです。

 この15章全体は、イエスがエルサレムに向かう旅の途上で語られたものです。エルサレムへの途上ということは、十字架へと進んでいかれるイエスの歩みと結びついています。この大事な道中に語った言葉は、イエスの生涯の働きを理解するカギとも言えます。「見失った羊」「無くした銀貨」を見つけ出して救うことが、十字架に向かわれるイエスの願いでありました。イエスを通して、神は今も私たち一人一人を捜し出し見つけ出そうと、必死で働いておられるのです。

 銀貨一枚は、それ自体では大した価値があるとは言えないかもしれません。しかしそれを無くした女の人の喪失の痛みや悲しみはとても大きかったのです。これらのたとえ話には、失われている小さな命に対する大きな価値が隠されています。一人の人間の価値というのは、それを失う神の喪失の痛みの大きさにつながっています。ですから、失われている者の価値は、ご自身の御子をさえも惜しまずにその贖いのために送ってくださる神の愛と同じくらいに(等価であるほどに)大きいのです。この神の愛こそが、人間の価値を決めているとも言えるのです。

 このたとえ話はいずれも「喜び」という結末に向かっています。それは(10節)「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」神の天使たちの間にと言っていますが、それは神ご自身の喜びです。親しい人を亡くした時、人は悲しみます。その悲しみは愛です。同様に失っていたものを見つけ出した時、人は喜びます。その喜びもまた愛です。愛がその目的を達成した時、喜びが生まれるのです。神の前から失われていた人の救いこそが神の愛の目的だからです。

 実に信仰というのは、私たち人間が自分の魂の故郷である神のもとに帰ることです。そして故郷に帰ってきた人間を神は喜んで迎えてくださるのです。イエスはこのたとえ話を通して神の喜びを教えてくださいました。見失った羊が羊飼いの肩に担がれて仲間のもとに戻り、無くした銀貨が女の人の手元に戻ったように、わたしたち人間は神に造られたものとして、神のもとに帰り、神を信じて生きることが最も神に喜ばれることであり、最も大切なことなのです。イエスが語られるたとえ話には神の愛があふれています。新しい週も、この神の愛に守られ導かれて、与えられた日々を歩んでいけますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)