エフェソの信徒への手紙

平和の福音

エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節

 1945年に日本がポツダム宣言を受諾して戦争が終わってから。今年で75年が過ぎました。考えてみますと、20世紀という時代は、人間の歴史の中でも最も知識や技術が進歩した素晴らしい時代であるにもかかわらず、1914年オーストリアに始まった第一次世界大戦、1939年にドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦と、世界各国の人間同士が敵味方に分かれて殺し合った恐ろしい殺戮の世紀でもありました。様々な利権をめぐって国々が争いを繰り返し、数えきれない多くの人々がその犠牲となったのです。日本バプテスト女性連合が沖縄での地上戦が終結した6月23日を「命どう宝の日」(命こそ大切な宝)として覚えるのも、二度と戦争をしないという非戦を誓い、平和を祈り願っているからです。しかし、世界の各地では今なお国と国、民族と民族が争いを続けていますし、今も過去の戦争の後遺症を引きずって苦しんでおられる方がたくさんおられます。生きている人間誰もが平和な世の中を望んでいると思うのですが、どうして人間社会には争いが続くのでしょうか。

 人間は、自分や自分の国を守ろうとする防衛本能があるかぎり、敵を生み出します。私たちの心の中でも、自分を守ろうとする時、相手に対して敵意が生まれるのです。家族や夫婦や兄弟同士の中でも、学校や職場の中でも、国と国の間にも敵意が生まれます。そういう敵意を抱く状況の中にあってはとうてい真の平和を実現することはできません。

 今朝お読みいただいたエフェソの信徒への手紙2章の始めの部分で語られているのは、私たちが今どのような恵みの中にいるかということです。私たちは皆、以前は自分の過ちと罪のために死んでいました。私たちが神を知る前は、生まれながらに神の怒りを受け、滅ぶべき存在だったのです。しかし、そのような私たちを神はこの上なく愛してくださり、御子の十字架の救いに与からせてくださったのです。私たちがこのように主を信じる者に変えられたのは、恵みによって、御子イエスを信じる信仰の故です。このことは私たち自分自身の力によるのではなく、神の賜物です。ですから行いによるのではない、それはだれも誇ることが無いためなのだと書かれています(9節)。私たちは今やイエス・キリストにおいて造られた者となっている、そして神が前もって準備してくださった善い業を行って歩むようにしてくださったのだと語っているのです(10節)。

 さて、この手紙を読んでいるエフェソの信徒たちは主を信じる者と変えられたわけですが、それまではユダヤたちからは異邦人と呼ばれて差別されていました(11節)。私たちも以前はエフェソの信徒たち同様、神の救いから遠く離れた異邦人でした。この世で希望を持たず、真の神を知らず、何が罪であるか正しい道も知らず、死んだらすべてが終わりという世界に生きていました。「(13節)しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」異邦人は、神からもユダヤ人からも遠く離れた存在でしたが、キリストの贖いの御業によって神にもユダヤ人にも近いものとされたのです。これは、ユダヤ人と異邦人の間にある遠く隔たった関係を知る者にとっては奇跡のような出来事でした。
 ユダヤ人たちは、自分たちこそがアブラハムから続く神の民であり、自分達には神の約束があると信じていましたが、実際には神との契約を守らず、神のみ心に背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちが置かれている神の民としての立場を誇り、選民である自分達以外の民族を異邦人と呼び、汚れた民、救われるはずのない存在だとさげすんでいたのです。ですから、神の民であると自負するユダヤ人と異邦人の間には越え難い溝がありました。

 ユダヤ人はかつて神のみこころに従わなかった結果、バビロン捕囚という亡国の憂き目を見ました。そこから解放されて自分たちの国に戻ってからも異国の支配が続きましたが、そのプロセスの中でユダヤ人たちは次第に自分たちは他の国の人とは異なる聖なる民なのだという自己意識を強めていったのです。具体的には、自分たちが神を礼拝する神殿の中に、「異邦人の庭」(神殿の一番外側にある外庭)というものを作って、異邦人が入れるのはそこまでであり、それ以上中に入ることを禁じました。もしそこから中に入るならば殺すという仕切りの柵で囲っていたのです。これはユダヤ人が長い間、異民族支配によって搾取されてきた歴史の中で培われてきた自己防衛本能から作り出されたものと考えられます。「異邦人の庭」はユダヤ人と異邦人の間に存在する「敵意」の現れを象徴するものです。

 敵意というのは、怒りや憎悪、恨みとか恥、恐怖心や警戒心、復讐心等の感情と密接に結びついた感情です。敵意の反対語は好意(好感)ですが、相手が自分に好意を持っているか、または何らかの敵意を持っているか、これは意外と敏感にわかるものです。小さな子どもであっても、自分に好意的かそうでないかは直観的に識別できるそうです。ではどういう時に人間は敵意を抱くのでしょうか。それは自分の存在が脅かされる時です。また自分や自分の愛する者や大切にしているものが傷つけられ、奪われようとする時、あるいはそのような危険を感じた時です。そのような時、人は相手に対して強い敵意を抱くのです。それは逆に言えば、自分に襲い掛かってくる相手に対して、自分や自分の大事なものを守ろうとする本能的な感情とも言えます。人間が殺しあう戦争の歴史は、相手に敵意を持つことによって憎しみが憎しみを生み、力に対して力で制するという負の連鎖の積み重ねです。これは終わりのない復讐劇を繰り返すことであり、限りなく悲惨なことです。

 ところが、ここにすばらしい出来事が起こったのです。(14節)「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」エフェソの人たちも私たち異邦人も、もとは神からもユダヤ人からも遠く離れた存在だったのですが、キリストの贖いの御業によって神にもユダヤ人にも近いものとされた。この奇跡のような出来事がどうして起こったのかというと、それはキリストが平和であったからだというのです。キリストが救いである、あるいは恵みであるというのなら誰でもわかりますが、キリストが平和であるというのは、理解しにくいかもしれません。しかし、平和というのは平安があるということで神との関係を言っているのです。ローマ人への手紙5章1節でパウロが「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。」と語ったのはこのことです。だからこそ「キリストは私たちの平和である。」と言えるのです。神に対して平和を得ていなければ、人と人の間に平和は作れません。誰かが平和を作ってくれるのではなく、その人自身が平和でなければ平和は生まれて来ないのです。
 ではこの平和を妨げているものは何でしょうか。「(14節続き)二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」とあります。平和は二つに分かれているものを一つにするのです。異邦人を軽蔑しているユダヤ人にも、軽蔑されている異邦人にも敵意があったことは明らかですから、ユダヤ人と異邦人を一つにするには敵意という隔ての壁を取り除かなくてはなりません。この隔ての壁の中身は何かと言えば「(15節)規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」とあるように律法です。律法自体は神から与えられた良いものですが、罪ある人間はそれを行うことができず、人と神の間を取り持つはずの律法が、反対に人が神に近づくのを妨げてしまい、律法を守る人と守れない人の間に分断を起こしてしまったのです。しかしキリストが来られ、キリストの贖いを信じることだけで救いが完成しましたから、その戒めの一切は廃棄されました。もう戒律ずくめの律法を守る意味がなくなってしまったのです。つまりユダヤ人と異邦人とを隔てる壁が崩れてしまったのです。ここに「キリストこそ私たちの平和です」という宣言が確立したわけです。

「(15〜16節)こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」キリストがご自分の死によって敵意という「隔ての壁」を打ち破ってくださり、規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったというのです。キリストは、ユダヤ人と異邦人の両方を、ご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現してくださったのです。ここでの「平和」は、戦争のない状態をいうよりも、神と人、人と人との関係が平和であることを語っている語です。ユダヤ人と異邦人、この偏見と高ぶりに満ちた両者を一つの体とするために支払われた代価は神の御子イエスの十字架の死です。イエスの贖いの血によって、神と人間の間に和解が成立し、人と人の間にも平和が確立するようになったのです。その結果、今やキリストにあるならばユダヤ人も異邦人もありません。あるのはただ「一人の新しい人」です。

 この「一人の新しい人」というのは、分断されていた二つの者が仲直りして一つになったということではありません。まったく新しいもの、まったく新しい人が創造されたということです。それはキリストの体である教会を指しています。キリストはこの世においでになり、遠く離れている異邦人にもまた近くにいるユダヤ人にも平和の福音を告げ知らせました。それでユダヤ人も異邦人も、キリストによって神の民という一つの国民となり、一つの霊に結ばれて御父に近づくことができ、神の家族とされていくのです。これが「一人の新しい人」です。神の家族の長は父なる神であり、御子イエスは長子です。「(19節)従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」とあるとおりです。

 ここでは神を信じる者の群れを建物にたとえています。このたとえによってパウロが明らかにしようとしていることは、教会が地上における神の住まい(神の神殿)となるということです。また、この建物は、使徒と預言者を土台にし、信徒の一人一人が素材として組み合わされています。キリスト・イエスご自身はそのかなめ石です。私たち一人ひとりは教会という建物全体の中の部分として組み合わされ、神の栄光を表す役割を果たさなければなりません。それぞれが生きた石であるように積み上げられることによって建物全体が成長していくのです。
「(18節)それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」御父に近づくというのは、言うまでもなく礼拝です。平和の福音は新しい一人の人、つまり新しい神殿(教会)を作りあげ、そこでは、神との平和だけでなく、人と人との平和が作られていくのです。コロナ禍の中で、今朝こうして平和礼拝が捧げられることを心から感謝いたします。

 私はこの聖書箇所を読んでいる時、岡村正二先生が以前語られたことを思い出して、心が熱くなりました。先生がフィリピンや韓国の教会を訪問された時(1965〜1966年)のことを話されたことがありましたが、肉親や身内の方が何人も日本軍によって虐殺され、残虐な行為でひどい目にあったにもかかわらず、日本から来た岡村先生やメンバーの方々を主にある兄弟だといって愛して受け入れてくださり、過去のすべてを赦すと共に大変な歓迎を受けたというお証でした。今も生きて働かれる主の御霊が満ち溢れているなら、どんなに分断された世界であってもそこに赦しと愛があり、新しく一つになっていけるのです。私たちもキリストにある平和と希望を求めながら生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)