十人のおとめ

マタイによる福音書25章1〜13節

 お読みいただいたところには、イエスが語られた譬え話が書かれています。その始まりは(1節)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」という言葉です。「天の国」というのは、日本語では死んでから行く天国のようなところを連想しますが、ここではそういう意味はありません。マタイによる福音書は、しばしば「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。それはどうしてかと言いますと、マタイによる福音書はどちらかというとユダヤ人が読むことを想定して書かれているからです。ユダヤ人は神を畏れ、「神」という言葉を直接口にすることをはばかり、また直接書くことも避けていましたので、「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。

 天の国についての説明や天の国がどういうものであるかは、このマタイによる福音書の前の方、22章の最初のところで、イエスが結婚式の祝宴の譬えで説明していますし、黙示録19章5〜10節には神の国のことを同じように盛大な婚宴の譬えとして書いています。神の国というのは、信じる者が主と共にいる今のこの時のことでもありますが、ここではこの世が最終的に終わりをつげ、神が天と地を新しくされる時、信じる者達が迎え入れられる国のことを指しています。この婚宴の譬えでは花婿はイエスであり、花嫁とは、イエスを主と信じた者達、つまり私たちのことです。

 始めに、この譬え話の背景になっているユダヤの結婚式のならわしについて少しお話いたします。当時は結婚するにあたっては三段階の手続きが必要でした。第一は男女の双方の両親が子どもたちの結婚の約束を取り交わすものです。第二はそれから進んでユダヤ式の婚約となります。花婿の家で何人かの証人たちの前で、男女が夫婦になる契約をしました。この日から二人は法律上正式の夫婦となりますがまだ一緒には住みません。イエスの両親マリアとヨセフに天使が現れたのはちょうどこの時期です。その一年後くらいになってやっと結婚式があり、お祝いの宴が開かれるのです。

 結婚式は普通夜に行われました。まず夕方頃、身支度をした花婿と付添人たちは盛大な行列を作って、花嫁を花婿の父の家に連れて来るために、花嫁の家に迎えに行きます。この間に花婿の父の家では食事やおもてなしを整えて婚宴会場を準備します。一方、花嫁の家では、花嫁が美しく装って準備し、花嫁の付添人たち(この箇所に出てくる十人のおとめたち)は明るいうちに花嫁の家に集まってきて花婿の到着を待ちます。彼女たちは棒の端に布を巻き付けて油をひたして松明のようなものを作り、これを明かりとして準備していました。

 大概の場合、花婿の到着は遅れたそうです。これは結婚条件としての花嫁の家族への贈り物を決定するのに時間がかかるからです。贈り物が高価であるということは、花嫁の家族が花嫁を放したがらず、花嫁の価値を高くつけたことを意味します。長い時間がかかってようやく双方の条件がかみ合うと、やっと花婿の行列は花嫁のところに向かうわけです。その時の様子がこの譬え話の場面です。
ところで、このマタイによる福音書の25章は、24章からずっと「世の終わり」「終末」について語っています。終末と言いますと、この世の終わりの時の裁きの怖さを思ったり、この世が滅んでいくという切ない悲しさがあったり、あるいはそういう滅びを覚悟しなければいけないというあきらめの思想が入ってくることもあります。このような考えは平安時代にあった末法思想に似ています。しかしその教えにはこの世の終わりがあることを知らせていても、それに対して積極的に備える方法も手段もありませんでした。

 しかし、聖書が教える終わりは違います。確かに一方では滅びとして受け止めなければならないところがあるかもしれませんが、それだけではありません。聖書が教える世の終わりは、滅びではなくむしろ救いとして待つべきものです。それを教えているところがこの25章の三つのたとえ話です。特にこのところは、その「天の国」がやがて来る、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから(13節)。」とあるように、その到来を目を覚まして待っていなさい、その日に備えていなさいという、深い緊張感を覚える譬え話です。

「(5節)ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」無理もありません。花婿が来るのが遅すぎて、夜中になってしまったからです。ここでは寝てしまったこと自体は非難されていません。「(6節)真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。」花婿が到着したのは真夜中でした。おとめたちは皆起こされてともし火に火をともします。「(7節)そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」その時、愚かなおとめたちはともし火のための油がなくなりつつあるのを見て、他の五人のおとめたちに油を求めます。「(8節)愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』」花婿の家に行く行列の時だけでなく、花婿の父の家に着いてからも、ともし火を持っての踊りなどのために何度も油を注ぐ必要がありましたから、油がないのは致命的なことだったのです。

 しかし賢いおとめたちの返事はこうでした。「(9節)賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』」これはいじわるな返事のように聞こえるかもしれません。実際、ある人々はそのように解釈し、何と愛のないおとめたちかと嘆きました。しかし、はっきり足りないと分かっている時には、事実を伝える方が良心的な答えです。買いに行ってもらうより仕方がないのです。心の中にいくら同情心があっても、客観的には油を分ける余裕がないのですから、賢いおとめたちはありのままを答えただけです。そう言われた愚かなおとめたちの方は急いで買いに走ったでしょうが、夜中に店など開いているはずがありません。「(10節)愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」彼女たちは締め出される他ありませんでした。

 いったい、明るいうちから花嫁の家に集まっていたおとめたちの準備とはどういうことだったのでしょうか。「(3〜4節)愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」五人のおとめの賢さは、二つの点に現れています。一つは花嫁の付添人として花婿を迎えるには、明かりをともすことが絶対必要であること、それは油の有無にあると理解していた点です。二つ目は花婿がいつ来るかわからないので、壺に油を入れて用意したほどに、花婿が来ることに対して慎重な態度をとっていたことです。

 イエスは24章42節で「「だから、目を覚ましていなさい。」と言われました。そのことを44節では「だから、あなたがたも用意していなさい。」と言い換えています。25章10節では、「賢いおとめたち」のことが「用意ができている五人」と表現されています。「賢いおとめたち」の「賢さ」はこの世でいう頭の良さの賢さではないのです。神の前にいつも用意ができていること、何が起きても大丈夫という信仰です。それが油という具体的なもので表されているのです。

 それではともし火や油はいったい何を意味しているのでしょうか。明らかにともし火というのは花嫁の代理として花婿を出迎えるのに必要な資格を与えるものです。それが彼女たちを他のおとめたちから区別する目印です。では、神を信じる私たちを世の人から区別する印は何でしょうか。信仰告白をしてバプテスマを受け、主の聖餐に与り、礼拝に出席して主にある信仰生活を守っていることなど、目に見えるクリスチャン生活があります。そういうともし火を掲げる生活の根源的力である油というものは、言うまでもなくその人の内にあって、常に伴って歩んでいてくださるインマヌエルの神、主なる神の霊、聖書が語る聖霊です。

 つまり、賢いおとめたちは、主の再臨、天の国を待つ日々の生活において、まず、目に見える信仰生活を、目に見えない聖霊という心の最も奥深いところに宿る内なるものに直結して生きていることを象徴しているのだと考えられます。そしてさらに、いくら再臨が遅れても大丈夫なように、いつでもその日のために備えているということです。ちょうど、家の土台を主イエスという岩の上に置く人が、丈夫な家に住んでいるだけでなく、突然洪水が押し寄せても流されずにしっかり建っていられるように、日常のあらゆる生活をみ霊の油に浸している人だけが、真の力ある信仰生活を行えると同時に、いつまでも色あせない信仰生活を保ち得るのです。

 パウロがテサロニケの信徒への手紙一5章19節で「“霊”の火を消してはいけません。」と警告しているのはこのことです。み霊の火が消えていては、本来神から与えられている賜物のとしての神の愛の業や力や知恵を発揮できませんし、その信仰生活は長続きしません。み霊の油が切れていますと、外側だけは信仰の形を保つことができるでしょうが、その心の内側は乾いてからからですから、そこに神の愛が留まることはできません。

 五人の愚かなおとめたちは賢いおとめたちに「油を分けてください。私たちのともし火は消えそうです。」と頼みましたが、残念ながらそれはできませんでした。み霊の油は人から人に分け与えられるものではないのです。使徒言行録8章に魔術師シモンという人が出てきます。彼は、イエスの弟子たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見て、お金を持って来て、「私が手を置けば誰でも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。」と頼みました。それに対してペトロはシモンに言いました。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。」(使徒8:20)このように神の賜物はお金で買うことはできませんし、神を信じる者同士でやりとりすることもできません。直接、神に祈り求めることによってだけ、恵みによって与えられるものです。

 そしてもう既に、私たち一人ひとりには、神が聖霊の賜物を与えておられます。神を信じる者とされていることがその証拠です。言い換えれば、一人ひとりが神からいただいている油はその人自身になくてはならないもので余分はないということに他なりません。聖霊の油は信じる者一人ひとりが大事に培い養って貯えておかなくてはならないものです。クリスチャンの信仰は徹底的に個人的なものなのです。たとえどんなに仲良しでずっと信仰生活を一緒に送って来た仲間であろうと、信仰を持ったきっかけや時期が同じであろうと、主を迎える備えにおいては、一緒に行動することはできません。一人ひとりが自分自身の信仰を確かめながら進んで行かねばならないのです。

 愚かなおとめたちは油の不足を忘れていて、それを求めるのが遅すぎたのです。「花婿だ、迎えに出なさい」と言う声はいつどこから聞こえるかわかりません。私たちはいつでも主の呼びかけに応える準備をしていなければならないのです。終末には確かにいろんな前兆や前触れがありますが、前触れがあってから何とかしようと思っているのでは間に合いません。店の閉まらないうちに油を買い求めておくべきです。昼間の内に油が買える店、それはみ言葉と祈りのある教会です。私たちは今日という日に御霊の油を買い求めなければいけないのです。

 神は天に素晴らしい婚宴の席を用意して私たちを招いておられます。私たちに求められるのは真の神を知ること、そしてその生ける神を信じ続けることです。主を信じる者は神の御心にそって成長していくことができます。古い自分を少しずつ捨てて神が喜ばれる者へと変えられていくのが御霊のなせる業なのです。新しい週も主の御霊に導かれ、主にある人生がどんなに豊かで素晴らしいものであるかを味わうことができますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)