生きた石

ペトロの手紙一 2章1〜10節

 ペトロの手紙2章のみ言葉から、神の教えを聞いていきましょう。まず1節は、「だから」という接続語で始まっています。これは1章23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」を受けています。神を信じる者は新しく生まれたのだから、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」と言っているのです。神を信じるとは、神の家族の中に子どもとして生を受けたということですから、神の愛の中に生かされています。ですから神の愛に裏付けされる隣人愛や兄弟愛に反するような思いを捨てさるのは当然のことです。キリスト者として成長するためにはまず悪いものを捨てなくてはなりません。

 はじめにあるのは「悪意」これは悪の総称です。すべての悪い生活、悪い生き方をいいます。第二は「偽り」これはだますこと。自分の目的を果たすために他人にうそを言うこと、不純な動機での悪です。次は「偽善」もともとは俳優を指す言葉でしたが、悪い意味に使われるようになってしまいました。自分の本当の心や動機を隠して、まったく違った態度や言葉で人と接することです。第四は「ねたみ」これは交わりを破壊し、人間関係をだいなしにしてしまうものです。イエスの十字架刑を前にして弟子たちの間に争いがあったのはこのねたみのゆえでした。第五は「悪口」人を中傷する陰口です。これは心のねたみが引き起こすといわれますが、悪口こそがあらゆる問題を引き起こし、人間の一致を妨げるものです。私たちは断固としてこういう悪から離れなければなりません。

 これらを捨てた後、心に留めることは、「(2節)生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」赤ちゃんはお母さんのお乳を飲んで大きくなっていきます。ペトロの手紙を読んでいる人たちの多くは、明らかに最近回心して神を信じた人々です。ですからペトロは彼らを「今生まれたばかりの乳飲み子」と形容しているのです。

 さて赤ちゃんがお乳を飲むのはわかりますが、ここで言われる「混じりけのない霊の乳」とは何のことでしょうか。「霊の」というのはもともとはロゴスという言葉に由来します。ロゴスとは言葉、それも神の言葉ですから、「み言葉の乳」と訳してもよいところです。信じた人々は神のみ言葉に養われて大きく成長していくと語っているのです。それが救いです。「混じりけがない」というのは、そのみ言葉に偏見という異物や誤った解釈が入らないようにということでしょう。このもともとの意味は穀物の中に異物が混じらないことを指していました。おいしいご飯を食べている時に、ジャリッと何かを噛んでしまうと、文字通り砂を噛む思いになります。以前、ブラジルで伝道されていた戸上信義先生ご一家の生活が書かれた「赤い土を踏んで」という本を読んだ時に、ご飯を炊く時は、まず砂交じりのお米から、砂を取り出してからでないと炊くことができなかったと書いてありましたが、余計なものが混じっていると大変です。ここでは信仰生活に入ったばかりの人が霊的に成長するためには、混じりけのない純粋な神のみ言葉が必要であることを強調しているのです。信仰生活が長くても短くても、神を信じて生きる者は、神のみ言葉によって養われることを熱心に求めなければなりません。

 み言葉に養われていく時、私たちの人生は絶えず主の恵みに結びついていることがわかってきます。「(3節)あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」ここでは「味わいました」というように、まるで食べ物を食べて元気が出たかのような表現をしています。実際にこの「恵み深い」という言葉は「クレーストス」といって、「私に役に立つ」という意味の言葉です。自分にとって大変有用なものを指しているのです。主の恵みによって信仰はさらに成長していくのです。

「(4節)この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」ここにある「生きた石」という言葉は旧約聖書にその源があります。イエスご自身もマタイによる福音書(21:42)で引用しておられる言葉です。「イエスは言われた。聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」これは詩編118:22「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。」の引用です。

 また、ペトロは「(4節)主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」と語ることによって、当時の教会が持っていたメシア証言をはっきりとイエスに当てはめています。「生きた石」の「生きた」というのは、神の御子イエスが人格的存在であったからだけでなく、イエスは死からよみがえってもはや死ぬことがないこと、(ローマの信徒への手紙6:9「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがないと知っています。死はもはやキリストを支配しません。」)また、信じる者たちに命を与えるお方だからです。主を信じる者が「生きた石」であるのは、生きているキリストにつながっているからです。

 続いて「(5節)あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」キリストが「生きた石」であるということが、今度はキリストを信じる者たちに当てはめられています。生きた石であるキリストを基礎として、信じる者一人一人もまた生きた石となって「霊的な家」を建て上げるようにと勧めているのです。今、日本各地のお城を訪ねたり、お城の研究をしたり、城好きな方が増えていますが、お城の石垣に使われている石の一つひとつは、そこにしっかりはめ込まれていてこそ何百年も崩れない生きた働きをしています。

 ここで「霊的な家」といっているのは神殿を指していると解釈できます。神殿は神の臨在の満ちあふれている所です。ここでは神の臨在の場所としての教会を指しています。また家という言葉によって、共同体としての教会の姿を描き出しています。主を信じる者は教会という共同体を作り上げていくのです。神は建物としての神殿の中でなく、今の時代は神の民を神殿として、そこに臨在されるのです。私たちは共に主を礼拝するということによって、一つの家を造るようにしっかり組み合わされていくことが大切です。

「(5節続き)そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」神を信じる者は祭司の働きをするものとして描かれています。家が教会の性格を表すとするなら、祭司というのは神を信じる者たちの働きを示していると考えられます。ユダヤ教では祭司の仕事はある特定の人々に与えられた特権でしたが、今はすべてのキリスト者が祭司とされています。これは宗教改革者たちが主張したことでした。キリストを信じる者ならば、誰であれ、神の祭司なのです。祭司は聖なる者です。また神に近い者です。その仕事は、世の人々に神を示すこと、世の人々がまだ神を礼拝できない時に、その人の代わりを務め、人々が神のもとに行くための橋を架ける人です。

 それから、祭司の働きは神にささげものをする人です。ここには「神に喜ばれる霊的ないけにえを献げなさい。」と書かれています。霊的ないけにえですから、もはやエルサレム神殿で献げられていたような動物のいけにえではありません。「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」これらの供え物はイエスキリストを通して献げられる時に受け入れられます。そして、最も喜ばれるいけにえは最善のものを神に献げることです。それは自分自身を神に献げることです。(ローマの信徒への手紙12章1節「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。」そして神が何より喜ばれ、望んでおられるのは、心からの愛をもって神に仕えて生きる私たちの生活全般にわたる奉仕です。

(6節)「聖書にこう書いてあるからです。『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』」これはイザヤ書28章16節からの引用です。(7〜8 節)「従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。」このように聖書が預言しているように、この石は神に逆らう人にとっては躓きの石であったのです。

 4節ではこの石が人に捨てられたとありますが、これは単に誤解されて捨てられたという意味ではなくて、いろいろ調べた上で拒絶されたという意味です。家を建てる者が、材料として用意した石を吟味した結果、それが適していないとみるとばっさり捨ててしまうことを言うのです。ペトロはこのような言葉を用いて、ユダヤ人と神との強い対立関係を描いています。躓きの石というのは、それにより頼んでいない、つまり信じていない人にとっては躓きでしかありません。イエスを殺したのは、イエスを信じないユダヤ人でした。しかし、ユダヤ人のみならず、イエスが躓きの石となることは神を信じないすべての人々に当てはまります。神に従う者にとって神は救いですが、そうでない者には躓きや妨げの岩となります。

「(9節)しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」「生きた石」であるキリストによって、信じる者もまた「生きた石」とされ、「霊的な家」に築き上げられるのですが、さらには神の民とされる光栄が与えられます。9節にある四つの呼び名(選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民)がその内実と共にキリスト者に与えられるということは大きな特権です。これらはすべて、神を父とし、キリストを頭とする新しい人間のことです。このような四つの呼び方を与えられたキリスト者は大切な義務と責任を持っています。それは私たちを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、広く宣べ伝えることです。

「(10節)あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」何と有り難く感謝なみ言葉でしょうか。ここにはホセア書の思想が色濃く出ています。ホセア書には、全編を通じて神の大きな愛と赦しが描かれているのです。神は自分の民でない人々をも神の民とされたこと、憐みを受けない者であったが、今は憐みを受けていること、神の約束に関係ない者であったが、今はアブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者となっていることなど、神の救いに与かる者の祝福が約束されています。

 ペトロの手紙のこの個所は、本当に美しい言葉で、キリストの教会についてみごとに書いています。ペトロの手紙が愛される理由かもしれません。ある言い伝えでは、この個所はペトロが聞いた主を賛美する詩の1節をこの手紙に挿入したのではないかとも言われています。
 今朝はペトロの手紙をお読みしましたが、私たちは聖書のみ言葉を通して、少しずつ神の愛が分かってきます。神を知る知識の光はイエスにあります。人はイエスを知った時、本当の愛と喜びについて知るようになります。また、すべての行為の動機となる基準をイエスの中に見出すようになるのです。人生はもはや導き手のない困難な道ではありません。どこに行ったらよいのか、何をなすべきかわからない迷路ではないのです。イエスにあって生きるならば、人が生きる道は整えられていきます。イエスを信じることは力と平安を得ることです。新しい週も、憐れみ深く恵み深い主に導かれて、一歩一歩主と共に歩んでいきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)