魂の沈黙

詩編 131編1〜3節

 詩編は神への賛美であり、神殿の礼拝で歌われた讃美歌でもありました。もちろん150編もある詩編の中には、賛美だけでなく感謝や祈り、嘆願、そして悔い改めや懴悔などがあります。多くのキリスト者がこれらの詩編の御言葉から慰めを受けたり、励まされたりしてきました。今朝お読みした詩編131編の表題は1節に「都に上る歌。ダビデの詩。」となっていて、詩人でもあるダビデ王の名がつけられています。「都に上る歌」というのは、120編から134編のすべて詩編の表題になっています。これは過越祭などでエルサレム神殿に巡礼する時、つまり都に上る時にみんなで歌ったものだと考えられています。けれども実際は、そういう巡礼の時だけでなく、いつでもどこでも歌われた信仰の歌だといってもよいのではないかと思います。詩編131編は3節しかない大変短い詩です。
「(1〜3節)都に上る歌。ダビデの詩。主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」

 大いなる神の都エルサレムにやってきて、神殿の宿坊でくつろいでいた人たちは、今、自分たちの目の前にある壮大で見事な神殿に見とれ、心底感動していたと思います。そして、神殿の壮麗さと同時に、神の荘厳さが伝わってきて、自分がなんと小さなものかと思えてきたに違いありません。この詩人は、ふと自分の普段の生活を振り返ってみて、日常生活での一コマ一コマが思い出され、自分は何と必死で生きてきたのだろうと思ったのでしょう。何をするにも自分の力に頼って、ひたすら一所懸命に、困難を解決しようと肩に力が入りすぎている姿に気づかされたのです。そうだ、そのような自分の力に過信している傲慢な思いを捨て、もっと心を神に向けて、神の力に委ねて生きていこうと思ったのではないでしょうか。この詩編131編はそのような巡礼者の謙虚な告白であり、祈りであると思います。

 詩人は1節で「わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」と、自分が神の前に謙遜になっていることを告白しています。人間は心が驕り高ぶっている時には、人を裁き、差別するようになります。また自分の力を過信して大言壮語し、人を見下げるような物の言い方や振る舞いをしてしまうのです。しかしこの詩人は「自分は高いところを見ていないし、大き過ぎることも、自分の力が及ばないことも追い求めていません」と語ります。ありのままの自分を肯定しているのです。

 2節は1節の真意を別の表現で言い表したものです。すなわち「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」と語っています。私たち人間は誰もが自己中心的な生き物ですから、言葉だけでなく心の中でも、いつも自分のことがその中心にあります。そのような人間であるこの詩人が、自分の魂を沈黙させますとか、幼子のようにしますと言い切っています。自分の中にある自己中心の思いを黙らせますと言っているのです。これは言葉だけ聞くと易しいことのように思われますが、実行するのはなかなか難しいことです。

 以前に詩編46編で「汝ら静まりて われの神たるを知れ」という御言葉を読みました。新共同訳聖書では(詩編46:11)「力を捨てよ。知れ、わたしは神」となっているところです。これは自分の力に頼らずに何も持たず、無一物になって神のもとに来なさいという呼びかけです。恵みの神に近づくには、人間の力や言葉がかえって妨げとなることがあるのです。この詩編で「わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」と言っているのは、私は神に造られた時のまま、何も持たずにあなたの前に出ています、という信仰告白です。母親の胸に抱かれている幼子というのは人間の全く無力なあり方を示しています。

 私には可愛い孫が三人いまして、一番小さな孫はやっと生後半年になるところですが、お乳を飲ませてもらい、おしめを替えてもらい、お風呂に入れてもらい、すべてに母親か誰かのお世話が必要です。赤ちゃんは話せませんからお腹がすけば泣いて知らせるだけです。ハイハイもまだできないので、自分ではどこにも動いていくことはできません。置かれたところにじっとしているだけです。でもあやすと天使のようににっこり笑います。そのような幼子を見ていると、幼子にあるのはただ母親に対する全き信頼だけです。信仰者が神の前にあるのは、この幼子の姿とまったく同様であることを詩人は悟ったのです。

 新約聖書にはイエスが幼子や子どもについて語られたところ、あるいはそれを連想するようなところが何か所かあります。まずヨハネによる福音書3章には、ファリサイ派に属する議員ニコデモがイエスを訪ねて来て語り合う場面がありますが、その時イエスは言いました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)イエスの言葉にニコデモは驚いて「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。」と問い返しています。ここでイエスは、人間は自分の力を捨て、自分の知識を放棄し、幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできないのだと教えられたのです。(神の国に入る、というのは、神を信じて神と伴なる生活をするということです。)

 また、マタイによる福音書18章には、弟子たちが天の国では誰が一番偉いのでしょうかと質問した時のことが書かれています。その時イエスは、一人の子どもを彼らの真ん中に立たせて言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18:3)この時、弟子たちは現実社会での問題意識を、そのまま天の国でも通用するものとして質問し、天の国を現実社会と同じレベルで考えているのです。それに対してイエスは、天の国で一番になるとかならないとか考える前に、まず心を入れ替えて子どものようにならないと、天の国にさえ入れないのだとお答えになりました。

 イエスはこの時、単に「子どものようにならなければ」と言われたのではなく、「心を入れ替えて子どものようにならなければ」と言っておられます。子どものように謙遜であれとか、素直になれとか、無邪気になれとか、そういう心の持ちようを変えるような些末なことではなく、もっと根本的なこと、心をまるごと入れ替えることがここで問題にされているのです。ここでの子どもは、その心の入れ替えを示すために真ん中に連れ出されたのであって、お手本として登場しているのではないのです。

 ところで、人が偉いとか偉くないとかを決める基準は何でしょうか。高い地位にあること、権力を持っていること、高い学力や能力を持っていること、立派な肩書や名誉を持っていること等いろいろ考えられますが、要するに私たちは何かを持っている人が何となく偉いと考えています。ではお金をたくさん持っている人も偉い人と言えるのでしょうか。また一方、大きな仕事をする人も偉いですし、人を助けたり、社会のお役に立つことも偉いことです。すると、要するに何かをすることもまた偉いと考えられます。つまり偉い人は何かを持っていたり、何かをする人なのです。弟子たちが「いったい天の国で一番偉いのは誰でしょうか。」と質問した時には、自分も他の弟子より熱心な信仰を持って、一所懸命何か役に立つ仕事をすれば偉いと評価してもらえると思っていたのかもしれません。

 何かを持っている、また何かができる、これが現実社会での人間評価の基準です。しかし天の国ではそういう基準は通用しないのです。この世の基準をそのまま持ち込めないのです。それに気づかせようとして、イエスは「心を入れ替えて」と言われたのであり、そのことを具体的にわかりやすく示すために子どもを彼らの真ん中に立たせられたのでしょう。なぜなら、子どもは誇るべき何物をも持っていません。また誇るべき何事もすることができないからです。「何かを持つ、何かをする」という点に価値を置くならば、子供は一番無価値であり、一番偉くないものだからです。

 当時、女性や子どもは人間の数にも入らない存在でした。子どもは単にそこにいるだけのものだったのです。ただそこに存在するだけの子どもを真ん中に立たせて、イエスは「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」と言われたのです。ですからイエスが言われたことは明らかです。天の国に生きるためには、心を入れ替え、生き方の根本的な価値基準を替えなさい、ということです。現実社会で通用する「何かを持つ、何かをする」と言う視点から離れて、「そこにいる、そこにある」という基準が大事だということです。子どもは「ある」という以外には何も持たない者です。しかし「ある」という基準で考えれば子どもも幼子も等しく最高に素晴らしい存在です。

 しかし悲しいことに、現実社会は「持つ、する、できる」に価値を置く社会です。相模原市の津久井やまゆり園で起きた障がい者殺傷事件も根底にその考えがあります。今は世界はあまりにも打算的で功利的な社会になっています。何か成果が上がっているとか評価されることがないなら、ただそこに「ある」だけのものに関心を寄せることがなくなっています。「今生かされている命」に対する根源的な尊敬の念が失われ、麻痺しています。神から与えられ、生かされ、そしてやがて天に迎え入れられる命そのもの、そこに「いる」「ある」という存在にもっと尊厳の心を持って接し、お互いに感謝を持って生きていきたいと思います。
詩編の御言葉にもどりますと、「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」と言っているのは、「持つ」ことを離れ、「する」ことを離れ、ただ「ある」という事実に感謝し、それを認識して生きることです。今ある自分の命、自分の存在、生かされている命に目覚めて感謝して生きることです。これが神を信じて生きる者の生き方です。そして「わたしの魂を沈黙させます」この心が何より大切です。遠藤周作が書いた「沈黙」という小説では、神の沈黙について考えさせられましたが、私たちが自分の魂を沈黙させるのは、神を信頼し、神がなさることに対する従順な心のあらわれです。神の約束を信じて待ち望むためには沈黙の心、忍耐が必要だからです。

 この詩人が「わたしは魂を沈黙させます。」と宣言しているのは、人間の心に沸き起こってくる思いを言葉にしていたらきりがないことを知っていたからでしょう。自分が話している間は、誰からの声も言葉も聞こえて来ないことに気づきたいものです。沈黙して神からの言葉を待ち望む所にこそ、光と希望があるのです。幼子のように心を空しくしている時に、魂の指導者である神からのさやけき御声が聞こえて来るのです。そのことを踏まえて、この詩人は自分を含めた同胞に「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」つまり「沈黙して主を待ち望みなさい、主の約束を待ち望みなさい。」と勧めているのです。「今も、そしてとこしえに」ここに大きな慰めが込められています。この詩人が生きていた時代から延々と時が移り、今私たちは21世紀に生きています。いつの時代にあっても私たち人間は、自分の魂を沈黙させ、生ける神の言葉に期待して生きていきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)