戻って来た一人

ルカによる福音書 17章11〜19節

 アドベントのろうそくが二本灯り、私たちは今、救い主イエス様の御降誕を祝うクリスマスを待ち望みながら一日一日を過ごしています。ただ、今年は新型コロナウイルス感染拡大という思いもしない出来事が全世界を襲っていて、一年を越そうとする今なお、先が見通せない状況にあります。そういう中で、今私たちは師走という一年最後の月を過ごしています。今年の流行語は「三密」に決まりましたが、今年は新型コロナウイルス感染防止のため、それぞれの生活が制約され、特別な一年であったと思います。でもそのように厳しい日々でしたが、私たちは護られて今ここにいます。そのことを心から感謝したいと思います。今朝は感謝するためにイエスのところに戻って来た一人のサマリヤ人のお話を通して、御言葉から聞いていきたいと思います。

 イエスはエルサレムに上る途中で、サマリヤとガリラヤの間を通られました。そしてある村に入られた時、重い皮膚病(ハンセン病、らい病)を患っている十人の人が出迎えてくれたのです。出迎えたと言いますと何か美しい行為に聞こえますが、この十人はある時どこからか、イエスが近くに来られたというニュースを聞いたのでしょう。そのイエスはどんな病気の人でも癒す力があるといわれているのですからもうじっとしていられません。隠れて暮らしている所から皆一緒に出てきて、彼らの存在を示したという方が妥当かと思います。彼らは遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「(13節)イエスさま、先生、どうかわたしたちを憐れんでください。」と叫びました。

 当時、重い皮膚病にかかった人は、律法によって様々な制約を受けて暮らしていました(レビ記13章参照)。彼らはその人間性を否定され、神に呪われた者として家族からも社会からも排除されていたのです。人々と同じ町に住んで共同の生活をすることは許されず、生きながらにして人々の世界から遠ざけられ、人里離れたところで、同じような病気の人たちと暮らさざるを得なかったのです。しかし注目したいことは、通常のユダヤ社会ではあり得なかったことがここで起こっているということです。つまり、社会から排除され差別されて生きる人たちの中では、ユダヤ人とサマリヤ人とが共に暮らす生活集団が成り立っていたという事実です。バビロン捕囚期以後、ユダヤ人とサマリヤ人とは大変仲が悪くなっていて、自分たちは正当な神の民だと自認しているユダヤ人は、サマリヤ人を異邦人と見なして軽蔑し、彼らと交際することを拒んでいたのです。

 しかし、この出来事が起こった所はちょうど「サマリヤとガリラヤの間」でした。サマリヤ人とユダヤ人が生活している境界地域です。日頃は挨拶もしないし、憎みあっていたかもしれませんが、同じ病気に罹り、同じ不幸を味わい、それぞれが家族や社会から放り出されている、その不幸な境遇ゆえに、互いの民族的あるいは信仰的な対立を超えることができ、お互いに助け合うことができたのではないでしょうか。「遠くの方に立ち止まったまま」とあるのは、彼らはイエスの姿が見えても、傍に近づいていく事ができなかったのです。また、重い皮膚病の人がいる方角から健康な人の方に風が吹いている時には、少なくともおよそ50メートルほどは離れていなければならなかったといわれています。彼らが声の限りに「イエスさま、どうかわたしたちを憐れんでください。」と叫んでいる様子を想像していただきたいと思います。それは本当に生きるのに切羽詰まった人間のぎりぎりの姿です。

 日本でこの病気が薬で治るようになったのは戦後になってからで、それまでは家族からも社会からも引き離され、隔離された場所で生涯を過ごさなければなりませんでした。今では社会復帰されて私たちと同じところで生活できるようになり、大変嬉しいことです。しかし、この病気に限らず、社会の中にはいろいろな差別が起こっています。今年は、コロナ感染者やその家族に対する差別が生まれてきましたが、肌の色や人種が異なることへの差別や部落問題等人間には多くの差別の歴史があります。人間社会のこのような有様の中に、私たち人間の根源的な罪があることを見過ごしてはならないと思います。この十人の叫びは、人間存在の根幹に関わる要求です。ですからその叫びは、本当は私たち自身の叫びであるとも言えます。そしてそれがわかった時に、はじめてそこに共感が生まれ、その痛みを分かち合おうとする共生への道が開けていくのだと思います。

 イエスはこの十人の者たちの叫び声を決して聞きのがしませんでした。一緒にいた者たちがそれを無視したとしても、イエスはその叫び声を心深く受け留められたのです。しかしここでは、彼らに直接御手を触れることはできませんでした。イエスは彼らに「(14節)祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と命じられただけです。レビ記を読むとお分かりのように、重い皮膚病が癒されたかどうかの判定は祭司がいたしました。祭司の所に行って自分たちの病気が治ったことを確認してもらいなさい、と言われたのです。彼らはすぐにイエスのご命令に従いました。そして十人が一緒になって祭司の所に向かって歩き始めたのです。するとその途中で彼らの身体がきれいになって、病気が消えてしまったのです。「(14節続き)彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」実際この十人の者全員が癒されたのです。ここには救いということが、人間の側の一切の条件を超えた、神の絶対的な恵みであることを語る力強い響きがあります。また、その場で癒されるのではなく、祭司の所に行く行動を起こしたその途中で癒されたと語るこの場面は、大変深い意味を持っています。

 この十人はイエスのお言葉を聞いた時、それを信頼して、まだ実現していない癒しを信じているのです。必ず癒されると信じて祭司の所に向かっているのです。イエスの言葉に従うという、この応答行為の中で彼らは癒されたのです。このように信仰というのは、イエスの言葉を信頼して、まだ見ていない将来に向かって、希望と確信をもって生きていくことではないでしょうか。

 さて、今までずっと行動を共にしてきた彼ら十人でしたが、病気が癒されたことを知った時、彼らは二つに分かれてしまいました。九人はそのまま祭司の所に行ったようです。ところが一人は、自分が癒されたと知った時、「(15〜16節)その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。」彼は踵を返してイエスの元に戻ってきたのです。そして心からの感謝を表しています。「自分を癒してくださったのは、あのお方をここにお遣わしくださった神様だ、あのイエスというお方が教えておられる神様だ。」と気づいて神を賛美し、感謝したのです。これは神の救いに与かった者がだれでも表す歓喜の姿です。彼はまさしく礼拝者としてイエスの前にぬかずいているのです。彼はこの癒しの御業の中で、神の深い恵みと憐れみを実感しています。彼は自分が決して神に呪われた存在ではなく、はかりしれない神の祝福の中にあることをその全身で感じ取っていたのです。

 しかし、なぜ彼一人がイエスのもとに戻ってきたのでしょう。残りの九人はどうしてイエスのところへ戻らなかったのでしょう。この謎を解くカギは「(16節)この人はサマリヤ人だった。」という短い言葉の中にあります。考えてみれば、サマリヤ人の彼がどうしてユダヤ人の祭司の所に行くことができたでしょうか。彼はユダヤ人からは異邦人と見なされ、汚れた者として排除されているのです。ユダヤ人である九人の者は、途中で癒されたと知った時、それこそ胸を張って祭司の所にはせ参じることができたでしょう。そして祭司に「この者は清い」と宣言してもらって、重い皮膚病が癒されたことを証明してもらえば、彼らは直ちに神の民としてイスラエル共同体に復帰することができたのです。

 しかし、このサマリヤ人の場合は事情が違っています。道の途中で彼の身体が癒されたことを感じても、他の九人のユダヤ人とは違って、彼には祭司に証明してもらう道が閉ざされていたのです。ここに九人のユダヤ人とこのサマリヤ人との間の決定的な違いがあります。このように九人の者は去り、一人のサマリヤ人がイエスの元に戻って来ました。彼ら十人皆が重い皮膚病であった時には、その生活は固いきずなで結ばれていましたが、ひとたびその病が癒されると、その結びつきが壊れていきました。そしてユダヤ人とサマリヤ人の壁が再び現れたのです。彼らの苦しみの根源が取り除かれた時に、本当の意味で、あの苦しみの中で助け合った絆の中身が問われる結果になりました。ここには人間社会の縮図があるような気がします。

 サマリヤ人はこのように一人だけでイエスの元に戻ってきました。しかし、彼の様子は明るく輝いていて決して孤独ではありません。他の九人から引き離されてしまった孤独な思いをはるかに超える大きな喜びを、イエスによって与えられたからです。むしろ彼の態度にはイエスに出会うために、決然と九人の友だちと別れてきたかのような強さと確信があります。彼はただ身体の癒しを喜んでいるだけではなく、心から神を仰いで礼拝しているのです。

 その様子をご覧になりながら、イエスは言われました。「(17〜18節)清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」戻ってきたこの一人に対して、このイエスの言葉はちょっと責めておられるように聞こえるかもしれませんが、これは彼を責めるというより、戻って来なかった九人の者への深い悲しみを表しているのではないでしょうか。あるいはかつての十人の仲間の絆が、癒しと共に崩壊してしまったことへの嘆きが込められているのかもしれません。

 しかしここで、一人のサマリヤ人が戻って来て、神を賛美していることの意義ははかり知ることができないほど大きいものがあります。ユダヤ人たちから疎外されていた異邦人の彼が、イエスを祭司として受け入れ、このイエスから、病いの癒し、つまり罪の赦しの証明を得ているのです。律法の枠に縛られていた九人にはそれができませんでした。ですから九人は祭司の元へと向かい、イエスとの絆は断たれてしまったのです。しかしこの時、イエスの福音が持つ、民族を突き破った世界性、普遍性が力強く高らかに語られています。私たちはこのイエスの福音が持つ世界的な広がり、普遍性をしっかり受け止めなければいけないと思います。絶えず囲いを設け、壁を築いて、人間をふるい分けして、自らの安全を守ろうとする罪の壁を、イエスの福音によって打ち破り、乗り越えて、真に神の前にある人間の共生の道を探り求める勇気を与えられたいと心から願います。

 それからイエスはその人に言われました。「(19節)立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」これは、たった一人で戻って来て、心から神を賛美するサマリヤ人に対して、イエスの祝福に溢れた励ましの言葉です。イエスは彼のうちに溢れる信仰を見て、彼に祝福を与えて、生の現場へと送り出されました。しかしイエスに癒されてすべてがめでたしめでたしとなるわけではないと思います。この後、彼の進んでいく道にはきっと厳しいこの世の現実があることでしょう。かつて彼が恐ろしい皮膚病であったことに対する偏見や差別が相変わらずあるかもしれません。

 しかし、今の彼は決して孤独ではありません。彼の叫びを聞き、彼を癒されたイエスがいつも共にいてくださり、支えていてくださることを信じているからです。彼はイエスをその人生の真の救い主として生き抜いていくことでしょう。ここにキリストと出会った者の新しい生き方があります。「あなたの信仰があなたを救った。」これは彼に対するイエスの励ましの言葉ですが、イエスの喜びが込められています。イエスは真の神のところに戻ってきた彼を心から喜んでおられるのです。

 私たちはしばしば神に感謝することをおろそかにします。何か問題が起こり、苦難の時には必死で祈りますが、それが過ぎると、感謝することもせず神を遠くに追いやってしまうことはないでしょうか。このアドベントの時、その独り子さえも惜しまずに我たちのためにこの世に送ってくださった神の大きな愛を覚えて、心から感謝して過ごしたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)