自分の民を救われる方

マタイによる福音書1章18〜25節

 クリスマスおめでとうございます。
 皆さんとご一緒に2020年のクリスマスをお祝いできますことを心から感謝いたします。
 今年一年は、新型コロナウイルス感染拡大によって、世界中の人が大変苦しい生活を余儀なくされました。そして一年を過ぎようとしている今なお、先が見通せずに厳しい状況が続いています。しかし世の中がどのように変化しようとも、神様が私たち人間に注いでいてくださる愛に変わりはありません。それはご自分の独り子さえも惜しまずに私たち人間のためにこの世にお降しくださったことからも明らかなことです。

 ご存じのように神の御子は、母マリアと父ヨセフの子どもとしてこの世にお生まれになりました。
 ここには「(18節)イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と書いてあります。私たちはイエスがどのようにしてこの世界にお生まれになったのだろうと期待してここを読んでいくわけですが、実はここを読んでみてもイエスが誕生されたことについての詳細は何も書かれていません。最後の25節に「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。」とありますので、ここでイエスが誕生されたことがわかるだけです。

 読んでいただきましたように「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」に続いて書かれているのは、生まれてくるイエスのことでも母マリアのことでもなく、大部分がその夫ヨセフのことです。古い昔からクリスマスの風景と言えば、イエスが飼い葉おけで眠っておられ、母マリアがそれを見守り、その傍にそっと立っているのがヨセフです。いろんな絵画を見ても、イエスやマリアの前には、お祝いに駆け付けた博士たちや羊飼いたちが跪いている姿が描かれていますが、ヨセフは脇にいるだけの存在でしかありません。しかし、この聖書箇所ではヨセフに焦点が当てられています。ここに書かれているのは、ヨセフがどんなに悩み苦しんだかということ、また、その煩悶するヨセフに対して、神がどのような言葉を語られたかということです。

 ヨセフは婚約はしていましたが、まだマリアと結婚していませんでした。当時は婚約は結婚と同じくらいの重い意味を持っていました。もし、既に婚約している女性が、他の男性と性的な関係を持ったとわかれば、姦淫の罪とみなされて石で打ち殺されたのです(申命記22章参照)。そのような律法を知り、自分もまた誠実に神の前に生きていたヨセフが、マリアから思いもしないことを聞かされたわけです。「(18節)母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアが自分の身体に起こったことをヨセフにどのように伝えたのか、ここでは何もわかりませんが、とにかく婚約者のマリアから身ごもっていると知らされたわけですから、ヨセフとしてはどんなに驚いたことでしょうか。しかも、マリアはヨセフ以外の男性と関係したのではなく、聖霊によって身ごもっているのだというのですから、どう理解したらよいのか分からなかったに違いありません。マリアからそれを聞いたヨセフは、その証拠をどこにも確かめようがありませんでした。しかし、実際マリアは妊娠していたのです。「(19節)夫ヨセフは正しい人であったので」とありますが、この「正しい人」というのは、ただ道徳的に潔癖であるというのでなく、神を信じる者として、神と人に対して誠実で正しい生き方をしていた人だということができます。ですから、婚約しているマリアを誰よりも愛している自分としては、どうしたらこの事を穏便に解決できるだろうかと、その方策を必死で考えたのです。

 考え抜いて出した結論が「(19節続き)マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」わけです。「表ざたにする」というのは、マリアの妊娠をマリアの罪の結果として人々に知らせるということでしょうが、マリアを愛しているヨセフにはとてもそういうことはできません。それで「ひそかに縁を切ろうと決心した。」つまり表ざたにしないで、マリアと別れようとしたのです。しかしながら、当時は、今のように結婚に対して自由に考えられる時代ではありませんでした。いったん婚約した者が簡単に別れることはできません。それではどういうことにしたのかと言うと、マリアが身ごもったのは自分のせいだとするのです。つまりまだ婚約中なのに自分がこのマリアに手を出して関係してしまい、身ごもらせてしまった、しかもその上、自分の勝手ではあるが、この娘と結婚することをやめることにした、つまりマリアと別れることにする、ということにしたのです。もしこのような解決策をとるとするならば、おそらく人々はヨセフを酷い人間だと言って軽蔑するかもしれませんし、婚約中のマリアを身ごもらせるようなことをしておいて、今更別れるなんて何という男だろう、とヨセフの態度を責めるでしょう、しかし、マリアが世間から白い目で見られることはありません。逆にマリアに対して同情してくれるはずです。ヨセフは自分の恥も外聞も捨てて、マリアを守ってこのことを解決するためにはこれしかないと考えたのです。

 この時のヨセフの悩みがどんなに深く辛いものであったかは、想像するだけでも苦しくなるほどです。この聖霊によるマリアの懐胎は、今に至るまで多くの人の疑問点であり、なぞとされ、人間の知力では信じがたいことです。キリスト教に関心を持って近づいてくる人もここで躓く人がたくさんおられます。当事者であるヨセフにとってはもちろんのことでした。マリアに対する愛が深ければ深いほど、ある意味でマリアへの疑いも消えていなかったかもしれません。けれども、この状況の中で最善の解決策を探ろうとしているのです。愛するマリアの立場を守りつつ、ヨセフ自らの生活をも正しく律していくにはどうしたら良いだろうと必死で考えているのです。ヨセフはその心の痛みと苦しみによって、幾夜も眠られない夜を過ごしたことでしょう。しかもそのことを誰にも打ち明けることができません。自分一人で悩んでいたのです。

 ヨセフは考えます。もしこの方法を実行したら、自分は婚約者を身ごもらせたということで、どんなに恥ずかしい思いをすることだろうか。それは当時の人間としては当然の思いです。そして何よりも、神と人の前に正しく生きていきたいという自分の思いを貫けないわけです。実際のところヨセフは何一つ悪いことはしていません。それなのに突然降ってきた災難ともいえる出来事にうろたえ、とても辛い立場に立たされています。この苦しい心の内をいったい誰が分ってくれるでしょうか。まさにここに、ヨセフが人間であるが故の悩みがあります。自分の心の奥深くにある本心と、世間体を気遣う心との葛藤です。

 信仰を持つということは、人間が神に出会うことです。神に出会うのは、人間の心の奥にある、人に隠れた最も深い所です。誰にも知られていないその人の心の奥で、人は神と出会うのです。人間は誰しもそのような部分を持っています。神を信じる決心をした時のことを思い出してくだされば、どなたもそのことに気づかれるはずです。どんなに親しい人であっても知り得ない部分があるのです。誰にも知られていない自分だけの領域です。ヨセフが夢で神の言葉を聞いたのは、まさにそのような心の闇の部分でした。夢の中に天使が現れ、悩みに悩んでいたヨセフの心の奥深くに語りかけたのです。「(20〜21節)このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

 不安におののく人に対して、天の使いはいつでも「恐れるな」と語りかけます。人の弱さを十分知っておられるからです。そしてマリアとその胎の子を迎え入れるように告げます。そしてマリアから聞いていたのと同じ様に、その子は聖霊によって宿ったのだと告げました。そしてマリアが生んだ男の子に「イエスと名付けなさい。」と指示したのです。名前を付けるというのは生まれてくる子どもを自分の子として認めなさいということです。ヨセフにとっては身に覚えのない子どもです。自分がこの子に名前を付ける理由などありませんと拒否することもできました。しかし、この時ヨセフはこの子どもは神が自分に与えた子どもであると、受け入れることができたのです。

 さらにその後で「この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉が続きます。この言葉をヨセフはどのような思いで聞いたでしょうか。神と人の前に正しく誠実に歩んできたヨセフです。愛するマリアをかばおうと精一杯のことをしようと決心しているヨセフです。しかし、ここで天使が語ったのは、ヨセフのことでもマリアのことでもなく、生まれてくるこの子どもは自分をも含めた諸々の人々を救うために生まれるのだと告げたのです。「自分の民」という言い方がおできになるのは、神以外にはいません。ここでヨセフは人間の領域を超えた何かを直観したのではないでしょうか。この子どもは、自分も含めたユダヤの民、ひいてはすべての民を罪から救う者であるということを知らされたのです。この子に名前を付けて自分の子どもとして迎えるということはつまり、この子がご自分の民の諸々の罪をすべて引き受けてくださる者となるということをも受け入れることでありました。そういう神の御業が起こるために、あなたはマリアのお腹にいる子どもを自分の子どもとして受け入れなさい、と天使が語ったのです。

 でもそれはあくまで夢の中のことです。誰一人知り得ないことです。そのような夢など見なかったことにして知らないふりもできます。しかしヨセフはこの夢を真剣に受け取りました。主の天使の言葉を神の言葉として受け入れたのです。そして生まれてきた子をイエスと名付けました。ヨセフはマリヤが生んだ子を自分の子として認めたということがわかります。生まれた子どもに名前を付けるのは父親の責任であったからです。神がなさる不思議なみ業を体験したヨセフとマリアは、互いにいたわりあい助け合って暮らしたと思います。神の御子イエスは、神を信じる夫婦、ヨセフとマリアがつくる貧しいけれども祝福された家庭にお生まれくださったのです。

 イエスの降誕物語では、しばしばイエスの母マリアに光が当てられ、マリアだけが重んじられる傾向にありますが、イエスの父ヨセフの苦悩と信仰を見落としてはならないと思います。確かにマリアにとってもヨセフにとっても、天使が告げる聖霊の御業を信じることは簡単なことではなかったと思います。しかし、自分の立場や自尊心を犠牲にしてまでもマリアを助けようとしたヨセフがいたからこそ、神の御業が進められていったのです。私はヨセフの優しさと自分の立場を捨ててもマリアという一人の女性を守ろうとしたヨセフの心に今更ながら感動します。そして、ヨセフの生き方が、ある意味では、まるでイエスのひな型のように思えてくるのです。それは自分を犠牲にしてもいとわない潔さです。イエスはこのような両親に育てられて成長していかれたのです。

 マリアとヨセフの二人は、神から与えられたこの試練ともいうべき戦いを通して一歩一歩強くなっていったと思います。人間として生きている者に悩みや苦しみがない人はいません。ヨセフのように、人間は予想もしない困難な出来事に遭遇したり、悩んだり、苦しんだりします。その中にあって、人はひたすら神により頼み、神の御心を求め、神が示される道を探りながら生きていくのではないでしょうか。

 私たち人間はすべて神から命を与えられている者、神の民です。天の使いが「この子は自分の民を罪から救う者だ」と告げた、「自分の民」と言われているのは、私たち一人一人のことなのです。すべての人間は等しく神が愛されるご自分の民なのです。このクリスマスの時、一人ひとりの人間を誰よりも愛しておられ、インマヌエル(神は我々と共におられるの意味)と呼ばれる御子イエスをこの世界に送ってくださった真の神に感謝し、その素晴らしい御業を喜びたいと思います。イエスをこの世に送ってくださった神こそが、私たち人間を神が求める正しい義の道へお導きくださるお方です。

(牧師 常廣澄子)