二人の息子

マタイによる福音書21章28〜32節

 今朝のみ言葉は、イエスがそのご生涯の終わり頃に語られた譬え話です。この話に入る前に、まずこれがどのような場面で語られた話であるかを考えてみたいと思います。23節に「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。』」とあります。イエスは毎日神殿で教えておられたのですが、これを苦々しく見ていたユダヤ教当局者たちがいて、この話は彼らとのやり取りの中で語られたものです。

「何の権威でこのようなことをしているのか。」ここの「このようなこと」というのは、この話の前の部分、12~16節に書かれているように、前日に神殿の境内に入った時に、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたこと、境内で目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されたこと、子ども達の歌う讃美を喜んで受け入れられたこと、さらに言えば、メシアであることを公言したかのように群衆に歓迎されながら都エルサレムに入城したこと等、それらの一切が含まれると思います。そしてとりわけ神殿の境内で群衆に教えておられたことが含まれるでしょう。彼らはこれらのことが気に入らなかったわけです。

 当時のユダヤ教当局者である最高会議サンヘドリンは、ユダヤ教に関する一切と、神殿行事に関する一切を支配管理していましたから、彼らの許可を得ていない者がこういうことをするには、何らかの申告をするか、弁明をする必要がありました。もしイエスがユダヤ教の正規の教師であればこれくらいのことは認められたでしょうが、律法と伝承を最高の権威とするユダヤ教では、それらを教える教師については、細かい規定や条件のもとにその権威付けがなされていたのです。教師になる者は必ず、最低三人の任職済みのラビの前で、恩師であるラビの手によって按手されなければなりませんでした。ですから、23節で祭司長や民の長老たちが近寄って来て「何の権威でこのようなことをするのか」と、その任職の有無を質問したのは、管理者としては当然のことだったかもしれません。

 一方のイエスは、この問いに対してこのようにお答えになりました。「(24〜27節)では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったのか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
 ここにはヨハネの洗礼についての問いがありますが、イエスの道備えをしたヨハネが施していた洗礼(バプテスマ)について、ルカによる福音書7章29〜30節にこのように書かれています。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼(バプテスマ)を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼(バプテスマ)を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」実は彼らはヨハネの洗礼(バプテスマ)を黙認し、放置していたのです。
 ここには、これを聞いた祭司長や民の長老たちがうろたえて互いに論じ合う姿が書かれています。「(25〜26節)彼らは互いに論じ合った。『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」彼らはイエスの権威について問うためにイエスに近寄って来ているにも関わらず、群衆を恐れているのです。つまり自分たちの身の安全を優先したのです。

 彼らの結論は「(27節)そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」のです。ユダヤ教の最高権威者ともあろう人達が、分からないという結論を出してしまったわけですが、これは本当に分からないのではなく、結論を出したくないということです。それで、その答えを聞いたイエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」とお答えになったのです。

 ヨハネが何を成し、何のために来たのかと言えば、メシアであるイエスが来られる道を備えるためでした。しかしもし彼らが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)が「天からのものです」と言えば、ヨハネが「この人こそ神の小羊」と言ったイエスの権威を疑う余地がなくなるわけです。それが分っているならなぜヨハネの証言を信じなかったのかと、問い詰められてしまう恐れがあるからです。つまりこの質問を受けた彼らは、ヨハネの洗礼を天からだと信じるのであれば、イエスの権威について疑問を抱くこと自体がおかしいことになるということを目ざとく見抜いたのです。イエスの出した質問は彼らの急所をついたものでした。

 ここで語られていることは紛れもなくイエスの権威についてです。洗礼者ヨハネの成したことも天からの権威によってのことです。それは祭司長や長老たちが皮肉にも認めさせられていますけれども、実際は祭司長や長老たちは自分達こそが権威がある者であると自負して、ヨハネの権威もイエスの権威も認めようとはしていませんでした。

 さてこのような状況にある時に、イエスが「(28節)ところで、あなたたちはどう思うか。」と言って持ち出されたのがこの譬え話です。大変分かりやすい話で、話の筋書きは簡単です。二人の息子を持つ父親がいて、まず兄の所に行って「ぶどう園へ行って働きなさい」と言いましたが「いやです」と答えたのですが、後で考え直して出かけていって働くのです。父親は弟の所にも行って同じことを言いますと、弟は「お父さん、承知しました。」と答えたのは良いのですが、実際には行かなかったというのです。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」というのがイエスの質問でした。イエスの逆襲に一度は心を閉ざしていた祭司長や長老たちでしたが、この譬え話を聞いて再度イエスの質問を受けた時は、いとも簡単に「兄の方です」と答えました。

 言うまでもなく、この譬え話の父親とは神のことであり、ぶどう園とは神の国のことです。神の国とは神の支配がなされるところです。またぶどう園で働くのは神の子どもたちです。イエスは私たちを神の子として見ておられることがわかります。神の子として父である神の御心にふさわしい生き方をするかどうかを私たちに問うておられるのです。

 二人の息子が実行すべきことは父の意志でした。どちらが父の望みどおりにしたのか、そう問われているのです。この二人の違いは仮定の話ではありません。イエスはご自分の周りにいる人間がこの二つのタイプに分けられることをご存じでした。二人の息子の内、一人は気軽に「ぶどう園に行って働きます」と言いつつも実行しなかったのに対して、もう一人は初めは傲慢な態度で「いやです」と背を向けていたのに、後で考え直して、つまり悔い改めて神のもとに立ち帰ったのです。

 イエスは31節以下でこの譬え話の中心的内容を説明しておられます。「(31〜32節)はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたがたは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 すなわちここでの兄の態度は「徴税人や娼婦たち」のことです。彼らは、神の民として生まれながら、神の国のために尽くすよりも、ローマ帝国や異邦の領主ヘロデのために税を取り立てて私服を肥やし、みだらな生活をして日々を楽しんでいました。しかしヨハネが来て悔い改めよという呼びかけを聞いた時、それに応えて悔い改めました。そしてヨハネが伝えた救い主イエスに従うようになったのです。

 それに対して、祭司長や長老たち、ユダヤ教の権威ある者達は、大変模範的で立派な信仰を持ち、道徳的な生活をしていました。「お父さん、承知しました」と殊勝な態度を見せた弟が示した態度です。考えようによってはこちらのほうが、有言実行型のように思えます。しかしこれらの人々は父である神の命令を実行していないのです。徴税人や娼婦たちが悔い改めていく様子を見ても、そのような模範を見ていても心を変えませんでした。頑固で固くなな心を持ち、後から考え直して心を変えることもしなかったのです。

 洗礼者ヨハネは、イエスが来られて神の国の福音を語る前に、ただひたすら神の民の悔い改めを説きました。そして悔い改めの洗礼(バプテスマ)を施していたのです。イエスも伝道の初めにヨハネのところに来て洗礼(バプテスマ)を受けられました。神の御子が来られて、この世界を神のぶどう園としてお返しするためです。私たちには神のぶどう園で働く時が来ているのです。そのぶどう園の持ち主である神にふさわしい生き方ができるように悔い改めることが大事なのです。今までの生き方を止め、方向を変えて神の方に向かって生きること、それがこの譬え話が語っている主題ではないでしょうか。イエスは「徴税人や娼婦たちの方があなたたちよりも先に神の国に入るだろう」と言って、その生き方を高く評価されていますがそれはなぜでしょうか。それは神の御命令に従ったからです。考え直し、心を入れ替え、自分の罪を認めて悔い改めたからです。

 自分は神を信じる信仰がある、自分は正しい行いをしていると思っている人であっても、本当に神の御心に添った生活をしているでしょうか。神のぶどう園で働くにふさわしく生きているでしょうか。そのことを良く考えてみると、自分は悔い改める必要がないと言える人はこの世には一人もいません。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマの信徒への手紙3:10)とあるとおりです。そうであれば、この譬え話の二人の息子も、徴税人や娼婦たちも、祭司長や民の長老たちも、すべての人がしなければならないことはただ一つだけです。それはぶどう園、つまり父なる神のもとに行って、その父なる神の御心に従って生きることです。そのためには何よりもまず神の前にその生き方を悔い改めることから始まります。そのことがこの譬え話の中心です。

 ですから、どんなに長い間「いやです」と言い続けていても、後になって心を入れ変えるならば、その人は父なる神の望みどおりに実行したのです。八百万の神が存在し、迷信や偶像の多い日本の国に住んでいる私たちは、真の神を認めてキリストを信じる信仰を持つことはなかなか難しいかもしれません。しかし心を変えて方向転換することはいつでもできます。今からでは遅すぎるということはないのです。神はすべての人が悔い改めて神のもとに帰ってくるのを待っておられます。

 最後になりますが、イエスはこの譬え話のすぐ後で、「(33節)もう一つのたとえを聞きなさい。」と言って引き続いて有名な「ぶどう園と農夫の譬え話」をなさるのです。ぶどう園の管理を農夫たちに貸して旅に出た主人の話です。収穫の時が来たので僕を送るのですが、すべて殺されてしまいます。主人は最後に自分の子どもを送りましたが、その子さえも殺されてしまうという大変残酷な話です。この二つのぶどう園の話にはつながりがあると思います。それはどういうことかと言いますと、この後、イエスは十字架への道を歩まれ、実際に殺されてしまわれます。そしてイエスを殺した人は誰かというと、今朝の御言葉に出て来るあの祭司長や民の長老と言われる人たちなのです。彼らの心の方向転換を願い、後で考え直して父に従った息子のようであって欲しいと、譬え話を通して切々と語りかけられるイエスの愛の心を思わざるを得ません。私たちも日々主の前に悔い改めて神のぶどう園で働くことができますようにと心から願っております。

(牧師 常廣澄子)