教えと悪霊払い

ルカによる福音書4章31節~37節

 イースターも大きな祝福のうちに過ぎました。そして2021年度の歩みを踏み出してから、第二週の主日礼拝に、皆さまと共に招かれましたことを感謝いたします。“コロナ禍”という大きな試練が、昨年来まだ続いておりますが、上よりの力と、そしてみ言葉に立ちながら、確かな歩みを皆さまと共に続けて行きたいと願っております。

 ルカによる福音書からの福音のメッセージを、続けてご一緒に聞いております。現在は、イエスさまのガリラヤ伝道の初期に起こった出来事が中心となっておりまして、本日は、カファルナウムでの伝道からのメッセージです。
 本日箇所冒頭、31節、32節には「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」とあります。この二節にわたる紹介の言葉は、イエスさまのカファルナウムに下ってからの伝道がすでに始まっていて、順調なスタートを見せている、そのような印象を受けます。
 といいますのも、実はその前の場所、ご自分がお育ちになったナザレでの伝道は、実に辛い結果となってしまい、そのナザレを後にしての、カファルナウム行きだったのです。そこでの伝道が順調なスタートが切れたことは、ここを読むわたしたちにも、喜びと安堵感を届けてくれます。

 では、そのカファルナウムでの伝道の詳しい内容に入る前に、ここに至るまで、イエスさまが辿って来られた経緯について、大切なポイントを確認したうえで、先に進みたいと思います。それによって、全体の理解をより深めることができますし、さらに各所に出てきます重要なキーワードも、互いの段落が、お互いに関連しあっていることに気づかされます。
 主イエスは公生涯に入られる寸前、バプテスマのヨハネのもとを訪ね、ご自身罪のないイエスさまが、悔い改めのバプテスマを“今は受させてほしい”と、強いてヨハネから受けました。すると、聖霊がイエスの上に鳩のように降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞こえた、と伝えております。ここにも、御父なる神と御子イエスの、確かなる関係を見ることができます。そうです。この聖霊こそが、最初に登場します、キーワードです。

 続いてイエスは、聖霊の導きで、自ら進んで荒れ野に出向き、四十日間にわたる悪魔から誘惑を受けられました。その誘惑とは、

①パンの誘惑、すなわち、パンは人が生きていく上で、まず必要な日ごとの糧(かて)
②パンが満たされたとき、次に陥り易い誘惑、それは“名誉欲”“金銭欲”“所有欲”などです、
③そして最後は、“神を試す”不遜な罪、等々の誘惑でした。

イエスさまは、これらの誘惑をすべて退けられ、一方で、悪魔もこれらの誘惑をすべて終えて、“時が來るまで”イエスのもとを離れたのでした。この悪魔の誘惑は、二番目のキーワードです。
 考えてみますと、イエスが受けられた、これら三種類の誘惑は、すべての人がこの世で生きていく上でも、常に付きまとっている、誘惑のように思います。
 この悪魔からの誘惑を経験された後、主イエスは、“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られました。この時すでに、イエスさまの評判は周りに広がり、また諸会堂で教えておられて、皆からの尊敬を受けておられました。

 次は、イエスがお育ちになりました、ナザレでの伝道となります。このナザレ伝道については先に少し触れましたが、確認したキーワードも考慮に入れながら、今一度見てみましょう。主イエスは、安息日に会堂での礼拝に臨み、イザヤ書を拝読した直後、「たった今、貧しい人に福音を、捕らわれ人に解放を告げる福音が来た」、と宣言されました。ところがナザレの群衆は「この人はヨセフの子ではないか」、「大工の息子ではないか」(マタイ福音書13章55節)と、わめき立て、そして最後は、イエスを亡き者にしようとまで動き出したのです。
 集まった人々は、“同郷のよしみ”はあったにせよ、イエスさまを、メシアなる救い主として認めることはしませんでした。このことは、しばらくイエスの傍を離れていた悪魔が再び登場して、御国の福音を伝えようとする力、聖霊の働きに抵抗するときでもありました。
このように、イエスさまのご生涯の伝道、そして最後に至るまでのお働きは、聖霊の働きに対する、悪霊・悪魔の働きとの葛藤であったように思います。

 では、わたしたちの日ごろの伝道、それは如何でしょうか、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と約束されている復活の主、御霊なる神の力が、いつもわたしたちを後押ししてくださっておりますから感謝であり、また力強いです。
 早速、本日箇所に入ります。先に、カファルナウムとはどんな町なのかを紹介します。エジプトからシリアのダマスコに通じる幹線道路筋に位置し、ナザレからは約40キロほど離れて、ガリラヤ湖の北西岸にある町でして、人口も多く、当時は貿易の町として栄えていたとのことです。イエスさまはこのカファルナウムの町に移り住んで、ここを“自分の町”(マタイ福音書9章1節)と呼ぶほどに、この町を愛しておられたのです。
 33節34節に目を移しましょう。「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』」とあります。この男性の行動や言葉は、たったこの二節だけの紹介ですので詳しいことは分かりませんが、あえて想像を膨らませ、考えてみますと、

  • この男性は当日、イエスさまの話を一度聞いてみよう、なにか良い話が聞けるかもしれない、との期待をもって当日会場に来ていた。
  • そして日ごろは、自分の持病(多分“てんかん”か)に悩まされていたが、もしかしたら、イエスさま、とやらに治してもらえるかもしれない、との思いを普段持っていた。
  • 片一方で、自分の病気のことは誰にも触れてほしくない、誰にも知られたくない、このようなジレンマを抱え、苦しんで生きていた。

 以上のように、この男性には、前向きな自分と、片一方には保守的に自分を守っている自分、の両方が共存していたのではないか、イエスさまを『ナザレのイエス』と呼んだのは、イエスさまを救い主なるメシアとして信じていなかったがゆえの言葉であり、『神の聖者』と呼んだのは、もしかしたらこの人は、神から遣わされた人ではないか、との思いがあったのでしょう。
 そして、イエスさまの説教を聞いているうちに、極度の興奮状態になって、“放っておいてくれ”、“かまわないでくれ”の言葉を口走ってしまった。もしもわたしたちがその場に居合わせたとしたら、なんとも、いたたまれない気持ちにさせられたことと思います。
ここでもう一つ、この男性が「我々を滅ぼしに来たのか」と、複数形で言っているのは、聖書のほかの箇所で、悪霊に取りつかれたゲラサの人が、イエスさまから癒されたとき、(ルカ書8章26節~39節)名前を聞かれて、自分を、ローマの軍団、百人隊、千人隊からとった名前「レギオン」と名乗った、この出来事も参考となります。
 この男性の叫びを聞いたイエスさまは、35節「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」とあります。ここでイエスさまは、この男性を叱るのでなく、悪霊に叱りつけいるのにも気づきます。そして悪霊はいたたまれず、その男性を人々の中に投げ倒し、何の怪我も負わせなかった、とあります。

 続いて、36節、37節、「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった、」とあります。
 会場にいた人々は、この時イエスさまがなさった業(わざ)とその言葉に皆、肝を消して言いました。「この言葉はいったい何だろう」と、「人がしゃべる言葉と全く違って、権威と力がある」と驚きを表しております。およそ、この世の権威や力は、自分の権威、権限にものを言わせ、人を支配し、動かし、そしてその権威を誇りとする、このようなものです。
 イエスさまの発せられた、その言葉は、以上のようなものと違い、神の言葉であり、神の権威と、そして力が伴っているものでした。イエスさまのみ言葉は、御國の福音を告げ知らせる言葉であり、教えです。そこには御國の権威と力が表されているのです。
 その会場に来ていた男性に取り憑いていた、“汚れた悪霊”はイエスさまの権威ある言葉とその力に圧倒され、もはやその男性の中に留まることが出来ず、その人に何の傷も追わせないで、そこから出て行ったのです。

 本日箇所の並行箇所(マルコによる福音書1章21節~28節)で、その22節には「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として、お教えになったからである」とあり、さらにその教えは「権威ある新しい教えであった」(同27節)と伝えています。
 復活祭が過ぎましたが、復活の主が弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束された言葉(マタイによる福音書28章20節)、これからのわたしたちの福音伝道の歩みにおいても、このイエスさまのこのみ言葉に励まされ、そして力をいただきながら、歩み続けて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)