主の見守り

詩編 121編1〜8節

 この詩編121編は詩編の中でも、最も多くの人々に親しまれている詩ではないかと思います。私たちが礼拝でよく歌う新生讃美歌435番「山辺に向かいてわれ」は、この詩編121編をもとに別所梅之助が作詞したものです。詩編の歌の多くが神への信頼と感謝を表していますが、中でもこの詩編121編はシンプルですが、それだけに力強く神の配慮や守りへの感謝と信頼を歌っています。

「(1節)都に上る歌」となっていますが、これはエルサレムの神殿に礼拝に行くということで、その巡礼の道中で歌ったと言われています。この巡礼の一団には、普通リーダーとなる人がいて、そのグループのメンバーと交互に歌いながら道を歩いたようです。ヘブライ語には日本の謡曲のような抑揚と響きがありますから、長く伸ばしたりして朗々と歌うことができるのです。そのような歌を交互に歌い交わしながら都に向かって進んでいくならば、きっと巡礼にふさわしいおごそかで敬虔な雰囲気を醸し出していったことと思います。

 読んでみてお分かりのように、この詩は対話しているかのように書かれています。「(1〜2節)目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」この1節と2節の主語は「わたし」です。そして3節になると「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。」というように「あなた」と言って応えているのです。

 まず1節から見ていきましょう。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」山と言えば、日本では山岳宗教といって、神秘的な深山や高い所を聖い所として崇め、礼拝の対象としていますが、この「山々を仰ぐ」というのは、そのような礼拝感覚とは異なります。それらの山々に助けを期待するというのではなく、むしろここは「目を上げて」という心の動きが大切なのです。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」という言葉がすぐ続いていることからも分かります。つまり、「目を上げて、山々を仰ぐ」というのは、目に見える山々の高さを言っているのではなく、人間の現実を超えたところ、つまり神がいと高きお方であるということを指しているのです。

 イスラエルの民はその長い苦難の歴史体験から、人間の救いというものは、人間の中にはない、ということを学んできました。ですから、神への救いを求める時には、いったん人間の現実から目を離して、はるかに目を上げて超越者である神に期待したのです。そのことが「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」と歌っている中味です。これは、天地の創造者、人間存在の根源であられる生ける神だけが、真に私たち人間を救う神であると言う信仰告白であります。

 私たちは自分の救いをどこに置いているのでしょうか。意識していないかもしれませんが、普通私たちは金銭や物質に依存していることが多々あります。なにか問題が起きても、お金さえあれば何とかなる、お金があれば何でもできると、お金に信頼を置いている人がたくさんいます。確かにお金があれば豊かな生活ができ、人を支配することもでき、もしかしたら世間の尊敬を得ることができるかもしれません。あるいはまた、新商品が出る度に購入して、そういう多くの高価な物に囲まれて暮らすことで満足し元気が出てくるという人もいます。

 しかし、金銭的あるいは物質的な豊かさに心が奪われて満足していることが本当の救いとはいえません。お金では買えないものがあるのです。人間生活の本当の価値は、お金や物質で左右されるものではないからです。この詩人の信仰はそれを歌っています。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」この信仰は決して一朝一夕に生まれたものではありません。これは、出エジプトの事件やカナンに到着した時の諸民族との戦い、あのバビロン捕囚という悲劇などの厳しい体験を通して見出したイスラエル民族の確信です。たとえすべてのものを失ったとしてもなお生きることができるのは、この信仰があるからです。

 私たちの心の目を上に向けさせないで、目に見える物に頼らせ、そこに救いがあるかのように思わせてしまうのは人間の欲と人間の思いです。人間は人間を救うことはできないのです。それにもかかわらず、私たちは神よりも人間を信じ、人間に救いを求めます。しかし、自分の究極的な問題の解決、あるいは自分の人生の最後の時に、父親でも母親でも、夫でも妻でも先生でも、いったい誰がその心に真の救いや平安を与えてくれるでしょうか。神以外のどこに訴えるところがあるでしょうか。イエスを通して与えられた神からの救いと平安以外に、私たちが安らうところはどこにもないのです。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」私たちには、神以外に救いを期待するところはなく、その感謝を言い表すお方も、神以外にはどこにもおられないのです。

「(3〜4節) どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。」ここには神への絶対的信頼と期待があります。神は、信じる者を見捨てたり放り出すようなお方ではありません。神の守りは私たちの全生活に及んでいるというのが、ここで歌われている信仰です。「足がよろめかないように」とあるのは、「滑らないように」ということです。エルサレム神殿への道は乾燥して亀裂が多く、巡礼たちは足が滑って亀裂に落ち込む危険があったようです。私たちの人生にも危険がいっぱいありますから、時にはその危険な道を滑らないように歩かないといけない時があります。しかしたとえ滑ったとしても、私たちにはそこに助けてくださるお方がおられるのことを感謝したいと思います。

 ここには「イスラエルを見守る方は、まどろむことなく 眠ることもない」とあります。夜、巡礼団の宿営を見張っている歩哨がいたでしょうが、彼らは知らない間に眠ってしまうこともあったでしょう。しかし神は眠ることなく民を守っていてくださるのです。

「(5〜7節) 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。」ここには確固とした神への信頼が歌われています。

 ここにある「昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。」という表現は、日本人の感覚では分かりにくいと思います。日本人は自然の美しさや優しさの中に暮らしていますので、太陽の輝きや月の光が人間生活を脅かすような恐ろしいものだとは思わないのです。しかしイスラエルの民が放牧生活をしながら暮らすユダの荒野や砂漠という自然界は、決して生易しいものではなかったのです。昼、彼らは灼熱の太陽から身を守らなくてはなりませんでした。5節に「主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰」とあるのは、文字通り神があなたを覆って太陽の激しい熱から護ってくださるというイメージです。また夜は、月の光が精神的な病いを引き起こすと言われていたのです。ですから、「昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。」という表現は、彼らの心に届き、神の守りがよく伝わったのだと思います。

 自然の大きさや美しさは、私たちを慰め、力づけ、ある時は母のように暖かく包んでくれるものですが、最近の自然界は、集中豪雨による山崩れや大洪水、山火事や大雪の被害など恐ろしさを感じることが増えてきました。太陽も月も、火も水も、もし神の助けがないならば、人間の味方というより、人間を襲う敵となって攻めてくるものに変化していきます。

 ですからここにある「(7節)主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。」という詩人の祈りは、今の私たちの祈りでもあります。そして神の守りは見える所や見えることだけではなく、心の中にある精神的な問題にも深く関わっていてくださいます。人が生きていく道はいつも平坦で楽な道ではなく、山あり坂あり、難所が待ち構えているからです。

 そのような人生の旅路を歩いている私たちにとって「(5節) 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」だと歌います。右側というのは、助ける人が立つ位置です。詩編16編8節では「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」と神との親しい信頼関係を語っていますし、イエスもまた「天にあげられ、神の右の座に着かれた。」とマルコによる福音書16章18節に書かれています。神はいつも助け手として私たちの右にいてくださるのです。何と力強い約束でしょうか。

 この詩の最後は「今も、そしてこれから後とこしえに至るまで」神はあなたの「出で立つのも帰るのも」守ってくださる、という確信で終わっています。「(8節)あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」ここで言われている「出で立つのも帰るのも」というのは、口語訳聖書では簡単に「出ると入る」と訳されています。人間生活のはじめと終わりのすべてのことです。私たちが生きている限り、生まれてから死ぬまで、その全生涯を神は今もそしてとこしえに守っていてくださるのだという信頼が歌われているのです。これは神が信じる者に与えてくださる素晴らしい約束です。

 今、エルサレム神殿に向かって進んでいく道で、彼らは無事にエルサレムの市中に入って行くことができるようにと神の守りを祈っています。また神殿に詣でてすべての催事が終わったら、又無事に家路を辿れますように、という願いをも込めているのです。それは日々の生活での私たちの祈りと同じです。新型コロナウイルスや変異ウイルスの蔓延している状況にあって、私たちはどこに行くにも、無事に行って帰ってくることができますようにと神の守りを祈ります。そして「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」との信頼と感謝を歌うのです。私たち、神を信じる者は、どんな時も神の御手の中に在って守られていることを信じ、感謝して生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)