シモンのしゅうとめの癒し

ルカによる福音4章38節~41節

 三回目の緊急事態宣言が出されている中で、感染者の数もなかなか減少せず、油断できない状況が続いています。わたしたちの切なる願いは、コロナ禍が一日も早く終息して、世の安全と平安、そして教会活動が早く元通りに戻りますように、ということです。

 本日の説教箇所は,ルカによる福音書4章38節から41節となっています。しかし、聖書の中で実際に起こりました出来事は、直前31節からの段落、すなわちカファルナウムでの安息日の礼拝から、僅か一日半程度の間に起こった一連の出来事がお互いに関係しておりますので、これらのことも含めて本日のメッセージとしてお伝えします。

 その出来事とは、先ずカファルナウムでの安息日の礼拝説教中に、イエスに向かって大声で叫ぶ、悪霊に取りつかれた男性の悪霊を追放された出来事に始まり、礼拝が終わって直ぐに、シモン・ペトロの家に場所を移し、高い熱に苦しんでいるシモンのしゅうとめの、高熱を追放された出来事があります。そしてさらに、日が暮れ、すなわち安息日が終わってから、そこに連れて来られた多くの病気の人をイエスさまが癒されました。そして日が明けた翌朝、イエスさまは、独り静かな場所に行って、それから先にわたる御国の福音伝道の抱負について、人々に語る場面へと続いております。以上が本日のメッセージの内容です。

 主イエスさまは、御国の福音を伝えるために世に来られましたが、その公生涯の初めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ福音書1章15節)と、御国の到来を宣言されますが、その直後から御国の教えは勿論のこと、人々の病気の癒し、さらには、悪霊追放そして高熱の追放なども、御国の福音伝道の一環として受け止めておられたのです。

 では早速、聖書に目を通していきます。文章は簡素かつ単刀直入ですので、想像を膨らませながら、行間も読み取っていくことにします。38節a「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。」とあります。その直前の安息日礼拝を終えた直後のことです。その礼拝の中では、イエスに向かって大声で叫ぶ、悪霊に取りつかれた男性の悪霊を追い出した出来事があり、その直後に場所を移し、主イエスは勿論のこと、シモン・ペトロとその兄弟アンデレ、また他の弟子たちも伴って、シモンの家に来たことでしょう。“礼拝のあと場所を移して”と言いますと、かつて志村教会に若い青年たちが多かったころ、青年たちは、礼拝のあと教育館の二階に場所を移し、お茶を飲みながら楽しい時間を過ごしていたのを思い出します。その場所の名も、スカル(スカルの井戸に因む)だったと記憶しています。

 聖書に戻ります、シモンの家に入りますと、「シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいた」とあります。“しゅうとめ”といいますからシモン・ペトロはこの時すでに結婚していたことも分かります。そしてその女性は高熱のため、午前中の礼拝には出席できず、皆が心配しながら足早に、シモンの家に来たことでしょう。すぐさま人々は彼女のことを、“イエスさまに何とか治していただきたい”、と頼みこんだのです。
「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐ起き上がって一同をもてなした。」(39節)とあります。このときイエスさまが女性の枕もとに仁王立ちして、熱を叱りつける姿は、午前中の礼拝の中で、悪霊に取りつかれている男性に向かい、その悪霊を、「黙れ、この人から出て行け」と叱りつけた、イエスさまの姿とも重なって見えます。
 そしてこの後、「彼女の熱は去り、すぐに起き上がって一同をもてなした」、とあります。この結末と、午前中の礼拝での悪霊追放で、悪霊はその男性を人々の中に投げ倒したが何の傷も負わせずに出て行った、とあります結末とも、これまた重なってきます。

 次の40節に目を移します「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」とあります。冒頭に“日が暮れると”とありますのは、安息日礼拝の後、高熱で床に伏していたシモンのしゅうとめの熱も癒され、さらに、楽しかった食事と交わりの時も過ぎ、日が暮れ日付も変わった、ということです。この記述の裏には、安息日にしてはならない、病気の癒しについて、律法の縛りが解けてたことも、人々の脳裏にあったことでしょう。
 人々は、自分の家族、あるいは身近な人で、病気に苦しんでいる人を、イエスさまから癒してもらいたい一心で、イエスのもとに連れて来たのです。そしてイエスさまは、その一人一人に手を置き、優しく言葉を掛けながら、その病いを癒されました。イエスさまのこの牧会姿勢は、日頃のわたしたちの伝道、そして牧会にも非常に参考となります。
 しかし、ここで注目しておかなければならないことは、悪霊の追放や、高い熱の追い出しにおいてイエスさまは、一歩も引かずに毅然たる態度で臨まれていること、そして、悪霊には、もの言うことさえ許しません。これについては後程また触れます。

 次は41節に入ります、ここは文面では“多くの病人の癒し”に続く箇所ですが、内容としては連れて来られた多くの人の中からの、悪霊追放に絞って「悪霊もわめき立て『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、もの言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」と記しています。
 遡って、日が暮れてからイエスさまのもとに連れて来られた多くの病人たちの癒しで、“イエスさまは、その一人一人に手を置いて懇(ねんご)ろに癒されました”が、その中には、悪霊に取りつかれている人も多くいたことでしょう。しかし、それらの人々に対する癒しでは、病気を患っている本人と、その中に取り憑いている、悪霊とは、全く別であり、悪霊はあくまでも、外から入り込んで、その人に忌むべき働きをしている、と考えられていたのです。ですかから、悪霊がその人から追放されたときの描写は、“悪霊はその人に何の傷を負わせずに出て行った”とか“彼女はすぐ起き上がって一同をもてなした”と、いままで何事もなかったかのような回復を見せています。

 病気の本人に対するイエスさまの姿勢は、優しさで満ちているのに、悪霊に立ち向かわれるときは、一切妥協せず毅然たる態度で臨まれています。「悪霊を戒めて、ものを言うことを許されなかった」、とあり、一方、悪霊の方は「お前は神の子だ」、「メシアだと知っていた」とあるように、イエスさまのことをすべて知りつくしていながら、反抗的な行動をとっているのです。
 では、以上のことを踏まえたうえで、悪魔、サタン、或いは悪霊、等がお互いにどんな関係があるのかを、再度、整理してみましょう。悪魔は、ギリシア語でデイアボロス、ヘブライ語ではサタン、といい同じ意味です。そして悪魔、サタンは、悪しき霊、汚れた霊などの頭となって、悪霊を人間の中に送り込み、その人を唆(そそのか)して、神の御心またイエスさまの御心にそぐわないことを行わせ、さらに敵対させる、厄介な存在となるのです。
 このサタンは旧約聖書の時代には、み使いと共に、神の前に現れ、神の許しを得たうえで人間に対して行動をとる、と考えられていました。このことは、ヨブ記にありますのでご覧ください。
 一方、新約聖書の時代には、サタンや悪魔は、神の許しとは無関係に、人に取り憑いて、その人に悪霊(悪しき霊、汚れた霊など)を送り込み、その人を動かし、御国の働きに敵対して、悪い考えや、悪しき行動へと走らせていたのです。それゆえに、主イエスさまは悪霊に対して、毅然と立ち向かわれていたのです。

 一方、イエスさまのこのような態度に人々は、権威と力を感じ取っておりました。聖書の本日箇所、またその前の段落から、「イエスさまは権威と力をもって」と、繰り返し記されています。
 振り返ってわたしたちは、イエスさまのような権威もなければ、また力もない弱い存在ですが、せめて、そのような考え方、“是々非々の考え方”は持つ必要があるのではないか、そのように考えさせられております。以上、本日箇所から、わたしたちは多くのことを学ばせていただいていることに感謝しております。
 関連する42節以降にも目を通して参りましょう。42節「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜しまわってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」とあります。前夜に行った、多くの人々への癒しのため、睡眠時間も余りとれず、疲れも残っておられたことでしょう。しかし、朝になるとイエスさまは、独り静かな所に退いて、祈りのときを持とうとされたのです(マルコ書1章35節参照)。しかし群衆はそれを許さず、イエスを捜し出し、自分たちから離れて行かないようにと、イエスさまを引き止めにかかりました。
 するとイエスさまは言われました。43節に「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」とあります。“告げ知らせなければならない”とは神のご意思による不可避的な必然性を示しております。それは、イエスさまがこの地上での歩みを終えて、十字架への道を歩まれた、そのことについても同様です。しかし、主イエスさまは、「自分はそのように世に遣わされている」、とだけ言われてきました。
 カファルナウムでの安息日礼拝とその中での悪霊追放から始まり、場所を移してシモンのしゅうとめの癒し、さらには多くの人の病気の癒しに努めて来られました。しかし、そのままそこに留まっていることは許されませんでした。「自分は、さらなる多くの人々に、そしてほかの町の人々にも神の国の福音を告げ知らせるために遣わされている」と、ご自分の使命を披歴されております。そして、三年にわたる公生涯の伝道の道を歩まれた後、十字架へと進まれました。今は復活の主として、わたしたちに命を与えていてくださいます。
 このことに感謝しながら、わたしたちもまた福音伝道の歩みに力強く遣わされて参りましょう。

〈お祈り〉
主なる神さま、本日も主に招かれながら歩むことを許され感謝いたします。どうかこれからも主に従いながら与えられておりますその使命に生かされつつ、力強く生きていくことができますようにお導きください。この祈りを救い主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン

(牧師 永田邦夫)