主の霊が降る

使徒言行録 2章1〜17節

 本日は「聖霊降臨節」(ペンテコステ)と呼ばれる特別のお祝いの日です。ペンテコステというのは五十日目という意味のギリシア語で、過越祭から五十日目に当たる収穫感謝を祝う祭り(五旬祭)だったからです。そしてそれは過越祭、仮庵祭と並ぶ三つの重要な祭りの一つでした。ただ過越祭、仮庵祭が一週間続くのに対して、五旬祭はたった一日の祭りでした。今朝はその五旬祭の日に起きた聖霊降臨の出来事をみ言葉から聞いていきたいと思います。

「(1節)五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」過越祭から七週間が過ぎ、五旬祭の日となりました。弟子たちは過越祭に都エルサレムに上京して以来、ずっとこの時も市内に留まっていて、「心を合わせて熱心に祈っていた。」(1章14節)のです。エルサレムはイエスを十字架につけた町です。弟子たちにとっては危険や様々な問題をはらんでいる場所であったに違いありません。しかし、イエスは苦しみを受けられた後、復活されて天にお帰りになる前、弟子たちにこう命じられたのです。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(使徒言行録1章5節)と。このお言葉を胸に、弟子たちはこの危険なエルサレムを離れないで留まっていたのです。

 当時の彼らにはいったいどのような希望があったでしょうか。彼らは何の助けも守りもない孤立無援の無力な人々でした。彼らは今後のことを考えるゆとりもなく、何から手を付けたらよいのか全くわからない状態でいたのだと思います。彼らが置かれていた状況を象徴するかのように、弟子たちはあの「泊まっていた家の上の部屋(屋上の間)」(1章13節参照)に取り残されていたのでした。屋上の間と言えば聞こえが良いですが、実は家の屋根の上に作られた簡単な部屋なのです。彼らの周囲はイエスに敵意を持っていた者たちばかりですから、弟子たちの行動を理解するどころか、むしろ悪意を抱いている人々です。そのような状況の中、弟子たちはその粗末な部屋でひたすら心を合わせて祈っていたのです。

 この彼らがいた部屋から何が起こったのでしょうか。それが書かれているのがこの聖書個所です。まさに世界を揺るがすような出来事が起こったのです。それが聖霊降臨の出来事でした。主の霊、創り主の霊が降ったのです。すなわち「イエスを死者の中から復活させた方の霊」(ローマの信徒への手紙8章11節)が降ったのです。そして敵対者を恐れ、怯え、小さくなっていた弟子たちの心を自由にし、生き返らせ、大胆に神の言葉を証しさせていったのです。

 これが聖霊降臨の出来事です。ここで弟子たちのことを「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」と言われていますが、弟子たちの多くはガリラヤ出身だということがすぐわかるような無学で朴訥な人々でした。そのような彼らが聖霊を受けたのは、何も彼らが特別な人間だったからではありません。彼らが立派で特別に感受性が鋭くて神に対して敬虔であったからではないのです。もし聖霊が特別な資格のある人だけに降るものであるのならば、聖霊というものは私たちと何の関係もないものだということになります。聖霊が慰め主であるなどとはとても言えません。

 また、この時確かに弟子たちに聖霊が降ったのですが、その後彼らが何か別人になったというわけでもありません。依然としてガリラヤ出身の元漁師であり、元徴税人というただの人でした。都エルサレムの人たちや、祭りの度にエルサレムに詣でることができるディアスポラ(各地に散って暮らしているユダヤ人)の信仰深いユダヤ人たちの眼から見れば、みすぼらしい粗野な人々としか映っていなかったでしょう。弟子たちは聖霊を受けたからといって見栄えのする人間に変わったというわけではありませんでした。しかし、その心は確かに別の人間に変わっていたのです。

 弟子たちは自分たちの周囲にいる人々が、自分たちの主イエスを十字架にかけ、自分たちに敵意を抱いている人達だということを忘れてしまったかのように、いっさいの恐れから解放されたのです。いままで人々を恐れ、部屋に隠れてじっと潜んでいたような人間でしたが、いまやイエスの十字架を恥じたり、自分を恥じるなどという気持ちは微塵も持っていません。むしろイエスを救い主として信じ、その神の働きを知らされた人間として立っています。ですから彼らはもとの人間と同じでありながら、別の人間に変わったのです。

 このことは私たちにとっても当てはまります。私たちはイエスを救い主と信じて生き始めました。ある人達は自分は何も変わっていない、元の古い自分のままだと思っているかもしれませんが、聖霊によらなければだれもイエスが主だとは言えないのです。聖霊を受け、イエスを信じた私たちはどこかが変わっていかないはずがないのです。聖霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」つまり「創造者の霊」ですから人間を新しくします。イエスを信じる信仰は、同時に私たちを日々新しい人間へと創造していくのです。何と感謝なことでしょうか。

 弟子たちは聖霊の力を受け、イエスを救い主として証しし始めました。その時に起こった奇蹟の一つが貧しく無学なガリラヤ人にすぎなかった弟子たちが、各国の言葉で語りだしたということです。この祭りの時にエルサレムに集まっていた人々は、「(5節)天下のあらゆる国から帰って来た」人種も言葉も異なった多種多様な人々でした。職業もいろいろ異なっていたでしょうし、壮年だけでなく青年も女性もいたことでしょう。その生活様式や伝統、学問のあるなしも、考え方も生き方も様々に異なる人々が集まっていたのです。

 そのような大勢の人々が、この物音に驚いて集まってきたのです。天からの激しい風の音は、弟子たちがいた部屋だけでなく、外にも響きわたったのです。風というのは旧約聖書の中で(エゼキエル書37章9節など)神の霊を表すものとされています。ですからこの風(聖霊)は天に源を置き、天から吹いてきたのです。また炎のような舌というのは、火は神の臨在を表すものですから、汚れを焼き尽くす神の働きを示していると考えられます。聖霊降臨という世界で最初の現象が、耳にも聞こえ、目にも見え、身体も心も、人間存在のすべてをゆるがす驚くべき出来事であったということがよくわかります。

 そして「(4節)一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ことは、聖霊降臨の最大の出来事です。「(3節)炎のような舌が分かれわかれに現れ、一人一人の上にとどまった。」という舌は、言葉の賜物のことです。聖霊はまず第一に証しの霊なのです。それは言うまでもなくキリストを証しすることです。これを聞いた「(5節)天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」は「(6節)だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」「(8節)どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」と非常に驚き、かつ、いったい何が起きたのだろうと怪しんだのです。

「(9〜11節)わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに」

 ここに書かれた地名は、離散のユダヤ人の出身地です。物音を聞いて集まってきた人々は、ローマ帝国だけでなく、ローマ帝国の東方の地域や、地中海北東部や東南部の諸地域など、当時の天下のあらゆる国々からエルサレムに来ていたのです。「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書9章1節)と軽蔑して言われるようなガリラヤ出身の弟子たちが、自分たちの故郷の言葉(中には自分たちにしかわからない方言もあったことでしょう)を用いて、「(11節)わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と、非常に驚きました。彼らの心は混乱し、いったい何が起こったのかと狼狽しました。しかし、中には冷ややかに「『(13節)あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」のです。

 私たちはここで大切なことを教えられるのではないでしょうか。5節にあるように、当時、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人がいたのです。それなのにどうして福音宣教の第一声がそれらの信仰深いユダヤ人でなく、粗野で朴訥なガリラヤ人の弟子たちによる言葉であったのでしょうか。聖霊はどうしてガリラヤ人の口を用いて語らせたのでしょうか。

 先ほども言いましたが、ガリラヤ人は「異邦人のガリラヤ」と軽蔑され、「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」(ヨハネによる福音書7章52節)と言われるような地方の出身者でした。そのようなガリラヤ人を聖霊は福音を語る者として用いられたのです。ここにいるガリラヤ湖の漁師たちや貧しい大工一家を中心とするこの弟子たちの群れに、雄弁な言葉や説得力ある言葉が期待できるはずはありませんでした。しかし神は人間の目に見える能力に依存して福音の言葉を委ねたりしないのです。旧約聖書に出てくる「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」(出エジプト記4章10節)と言ったモーセや、「わたしは汚れた唇の者。」(イザヤ書6章5節)と言ったイザヤの口に神の言葉を与えて語らせたのは神の選びに他なりませんでした。神の言葉は、ひたすら神の憐みと恵みによってしか生きられない者にこそ委ねられているのです。そうです。弟子たちはこの時まで、神の前に謙虚に跪き、ひたすら心を合わせて祈っていたのです。

 弟子たちは聖霊によって語る言葉を与えられたのです。信仰深いユダヤ人たちは無学な弟子たちがいろいろな国の言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いて非常に驚きました。言い換えれば、聖霊の助けによって弟子たちが語る福音が人々に伝わるようになったということです。つまり「聖霊によらなければ誰も本当にイエスは主であるとは言えない」ということが真に明らかになったのです。聖霊によって弟子たちは神の大きな働き、つまりイエスが主であることを大胆に力強く語ることができるようになったのです。

 この後、ペトロが立ち上がって御霊が語らせるままに説教しました。ペトロは自分の体験を思い起こしながら、心に刻みつけられた恵みの数々を、自分の言葉で心から語ったと思います。イエスを誤解したことも裏切ったことも正直に語ったことでしょう。それなのにイエスは十字架で大きな赦しの愛を示されたこと、今は復活されたイエスのお言葉を希望に生きていること、そしてこのような卑しい者をも顧みてくださる「神の大きな恵みの御業」と「神の偉大な勝利」を語ったのです。そして何よりも今ここに聖霊が降ったのは預言者ヨエルが予言したこと「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」の成就であることを力強く宣言したのです。

 聖霊の働きは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」ということが一同の上に起こったことに大きな意味があります。信仰というのは、私たち一人ひとりが神の前に立ち、罪ゆるされ、聖霊を受けて生きていくことです。教会は福音を宣教するのですが、私たち一人一人は別々の舌、別々の言葉で語っていながらも神から与えられた一つの言葉を語っているということです。それは一つである御霊が語らせるからです。「体は一つ、霊は一つです。」(エフェソの信徒への手紙4章4節)

 聖霊降臨と言う出来事は、この世界に教会が誕生した日でもあります。弟子たちはここから聖霊に導かれて福音宣教に旅立っていったのです。ですからここから教会の歴史が始まったのです。私たちの志村バプテスト教会の歩みもまたその歴史に繋がっていることを覚え、感謝して福音宣教の業に励んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)