キリストの栄光

ペトロの手紙二 1章16〜21節

 今、新型コロナウイルスやその変異株ウイルスまん延のために社会が大きな混乱に陥っています。ウイルスという目に見えない小さな細菌の脅威に怯えている私たち人間は、防御のために一日も早くワクチンを接種しようとしていますし、とにかく必死になって人類社会を守ろうとしています。ウイルスだけではありません。このところ、私たちの生きている地球社会では、頻繁に災害(自然災害も人的災害もあります)が起こるようになり、住む所を無くし、命を奪われるという辛く悲惨な出来事をたくさん見聞きするようになりました。

 人が悲惨で苦しく耐えられない状況に遭遇した時にはきっと、だれか早くこの状況を見て助けに来てほしいと心から願うと思います。神を信じる私たちは、戦争や争いや醜い欲にまみれたこの世がはやく終わって、神の国、神の平和が来ますようにと、日々「みくにを来たらせたまえ」と、願り願っています。それはイエス・キリストが再びこの世に来られて、地上に神の国を実現してくださると約束されているからです。

 この手紙の中で、ペトロはキリストの再臨のことを人々に語っています。この手紙が書かれた頃は、イエスが再び来られると言われているのにその再臨がなかなか来ないので、人々はイエスの再臨はもう起こらないのだと考えるようになっていたからです。また、イエスを信じない異端者たちは、もはや再臨など全く信じていませんでした。ペトロがこの手紙で言いたかったことは、イエス・キリストの再臨についての確信を人々に思い出させることだったのです。

「(16節)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。」ここにある「作り話」というのは、神話や寓話を意味します。たとえばギリシアやローマの神話です。当時の人たちはこういう神話の神々を信じていたのです。力に満ちたイエスが再びこの世にお出でになることを人々に伝えるにあたって、ここでペトロは自分の体験を語っています。自分はイエスの再臨について説明するのに、神話のような作り話や人から聞いてきたことを語っているのではない、これは自分が体験した事実に基づいていることである、自分は直にキリストの威光を見たので、その目撃者として語っているのであるということを強調して語っているのです。

「(16〜18節)わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子、私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」ペトロはこのように、変貌の山で自分が体験したことを語るのですが、これはペトロの人生においては驚くべき光景として終生忘れられない出来事だったと思います。

 自分はその時イエスと共にいたこと、そこで神がイエスに向かって語りかけられたお言葉を聞き、主イエスが父である神から誉れと栄光を受けられたことを伝えています。このイエスの変貌物語はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に同じように書かれています。(マタイによる福音書17章1〜8節、マルコによる福音書9章2〜8節、ルカによる福音書9章28〜36節)

 マタイによる福音書17章2節では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とありますが、これが「神の栄光」をお受けになったことであり、まさしく神ご自身をあらわすものでした。同じく5節には「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という天からの声を聞いたとあります。これが「神の誉れ」をお受けになったことなのでしょう。ペトロは直接この声を聞き、イエスの変貌をその目で見たことによって、イエスに対する信仰はもはや動かすことができないものとなっていったのだと思います。イエスの「あなた方はわたしを何者だと言うのか」という質問に対して、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイによる福音書16章16節)と答えています。

 そしてペトロは、イエスのこの山上での変貌の出来事を、イエスが復活される予兆としてではなく、再臨の栄光の予兆として用いているのです。変貌の山で自分たち(三人の弟子:ペトロとヤコブとヨハネ)が見たことは、旧約聖書の預言書でいろいろ再臨について預言されている事柄が真実であるということを確信させるものであったということ、つまり変貌の山で見たイエスの栄光こそが、主の再臨について預言者たちが預言したことの正しさを知らせるものであったということを確信を持って語っているのです。

 ところで、山上で聞いた神の声は、イエスの変貌の時にその場にいた弟子たち三人だけが直接聞いたものですが、今に生きる私たちは、この声が語っていることを預言書の中で見ることができます。聖書の中には再臨についての預言の言葉がたくさんありますが、私たちはいつでもこれを読むことができるのです。「(19節)こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。」とあるとおりです。

「(19節続き)夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」この「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで」というのは、イエスが再臨されて私たちが栄光の主と出会う時まで、という期間を意味しています。またヨハネの黙示録2章28節には「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」というように、「明けの明星」とはイエスのことを指しているのです。

 旧約聖書に書かれているキリストに関する預言は、イエスの誕生と地上でのお働きによって実現したのですが、その完全な完成、つまりこの世の終わりが来てキリストの再臨によって神の国が到来し神の栄光と力があらわれるという預言は、まだ成就されていません。それで「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで」すなわち、栄光に満ちたキリストの再臨による完全な光で照らされるまで、「(19節)暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」と語っているのです。つまり、この世は「暗闇」であり、罪と汚れに満ちている暗黒の世界である、だから神を信じる者は、その日が来ることを確信して待ち望み、聖書に書いてある預言と約束の言葉に導かれ、また励まされて生きていきなさい、と勧めているのです。

 これは、ペトロが見た山上でのイエスの栄光と、聖書の預言者が見た幻とが結びついて、再臨はすべての人が期待していることであって、すべての人がそのために人生を備えるべきなのだということを語っているのだと思います。「暗い所に輝くともし火として」というのは、詩編の119編105節「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともし火」を思い起こしますが、私たちの人生の道案内をする光としての聖書の御言葉に対する美しい例えだと思います。

 旧約聖書の預言者たちは、その時の歴史の状況や事態がどのように展開していこうとするのかを人々に告げる時、それは自分個人の見解を述べるのではありませんでした。神が彼らに示される啓示を人々に伝えたのです。しかし、旧約聖書で偽預言者と言われている人は、自分自身が考えたことを私的に語っていた者であり、神が彼に告げておられることを語っているのではなかったのです。

 エレミヤは偽預言者を「彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。」(エレミヤ書23章16節)と非難していますし、エゼキエルは「災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。」(エゼキエル所13章3節)と語っています。

 この後の2章に入ると偽預言者や偽教師のことが書かれていますが、ペトロがこの当時、直面していた状況というのは、キリストを信じない異端者や邪悪な人が自分の都合の良いように聖書を解釈し、自分の見解や自分の欲望に合うように聖書のメッセージを曲げて語っていたのです。ペトロが言いたかったことは、「(20〜21節)何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」ということです。

 ここでペトロは、預言の言葉がどこから語られたかという預言の出どころについて、聖書は神の霊感によって書かれたものであるということをはっきりと語っています。すなわち聖書の預言というのは、やがて起こるべき未来の事件に関して、預言者が自己流の予想や推測に基づいて語っているのではないということです。聖書の預言は預言者たちが人間の思いにまさる聖霊によって直接動かされて語ったものであって、語る主体は聖霊なる神ご自身なのです。ここに預言の言葉の根拠があります。新約聖書テモテへの手紙二3章16節にも「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と明確に示されています。

 先週はペンテコステ礼拝でした。天にお帰りになったイエスに代わって主の御霊が降り、今や信じる者といつも共にいてくださるのです。主の御霊は神の真理を人々に教えます。そしてその真理を受け入れ、理解するように導いてくださるのです。聖書はペトロがここで語っているように、人間の意志に基づいて書かれたではありません。聖書は人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものですから、神の御霊を通して人間にもたらされた神からの啓示です。

 私たちは毎日聖書を読みます。私たちは聖書によって教えられ導かれ、ある時は慰められ励まされます。私たちは聖書をどのように読んだらよいのでしょうか。神からの言葉である聖書は、人間の理性や知的な賢明さや先入観によって解釈されるべきものではありません。聖書は聖霊に導かれて書かれ、与えられたものですから、聖霊の助けによってわからせていただくものなのです。聖書には、理解できないこともたくさんあります。しかし、いつの日かそのみ言葉に神の光が射し、心に届くことがあります。今はわかってもわからなくても聖霊の助けを祈り求めながら謙虚に読んでいくことが大切ではないでしょうか。

(牧師 常廣澄子)