重い皮膚病の人の癒し

ルカによる福音書 5章12節~16節

 いま世界中の人々は、一昨年から続く、三年越しの先の見えないコロナ禍の中で苦しんでおります。わが日本では、緊急事態宣言も6月20日まで延期となりましたが、毎日報じられています繁華街での人出の数も、心なしか、あまり減少していないようにも思います。どうか一人一人が危機意識をもって行動を律し、この危機を乗り越えていくことができますように、と願うばかりです。

 本日は、ルカによる福音書から標記の通り「重い皮膚病の人の癒し」と題しての説教です。主イエスは、カファルナウムにいたとき、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(本書4章43節)と、巡回宣教の抱負を語られました。さらに弟子選びと並行して、癒しの業を進めてこられました。その癒しの業も、より重い病気へ、より社会的意味合いの大きい病気へと進み、そして律法の決まりとも絡んで、やがてそこにファリサイ派の人々や律法学者が登場してきます。なお、イエスさまによる癒しのわざは、その癒しの業だけ単独にあるのではなく、あくまでも御国の福音伝道の一環としてなされてきたのです。

 早速本日箇所、12節に入ります「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った。」とあります。この節の中で重要な言葉について、順番に見ていきます。
(1)まず“重い皮膚病”の病名について、この病名は、新共同訳聖書も含め、発行年代の古い聖書には、“らい病”と記されておりました。さらにその由来は、旧約聖書のレビ記13章、14章で詳しく決められた、一つ一つの規定事項に遡ります。因みに、先の2018年に出版されました、聖書協会共同訳聖書では、この病名を「規定の病」と記しております。
(2)前述のレビ記13章、14章に記されている重要事項を見て参りますと、この病気に感染している人は祭司のもとに行って詳しく調べてもらい、祭司がその感染を確認した場合には、その人に「あなたは汚れている」と言い渡さねばならない、とあります(13章11節、15節)。
(3)感染を宣告された人は、「衣を裂き、『わたしは汚れたものです。わたしは汚れたものです』と呼ばわらなければならない。」、そしてその人は、「独りで宿営の外に住まねばならない。」(13章45節、46節)、との厳しい規定があります。しかしそれは、この病気にかかった人が、それ以上周りの人に感染させないための配慮であることも理解はできます。
(4)さらに、この病気を患っていて治った人は、再び祭司のもとに行って、確認してもらい、そのうえで“清めの儀式”を受け、かつ、規定の献げ物をしなければならない(14章1節~20節)、とあります。これはその儀式と献げ物によって、その病が治ったことを神に感謝するとともに、公にそのことを宣言するためでした。このことについては、ルカ福音書の本日箇所にも記されている通りです。
 その後、重い皮膚病や、らい病については、医学が進んできて、その病原菌も確認され、らい病は現在「ハンセン病」と呼ばれていることも皆さんご存じの通りです。

 しかし歴史的にみて、わが国もそうですが、この病気を巡っては、いつもそこに偏見や差別が付きまとい、罹患した人たちが、どれほど辛く、そして悲しい思いをしてきたことか、このことをわたしたちは、決して忘れたり、また、避けて通ることは許されません。この聖書箇所からのメッセージをみなさんと共にお聞きしていく上で、本当に身が引き締まる思いですが、また、その歴史の現実を皆さんと共に分け合いたい、との願いもあります。
 この重い皮膚病の人が、イエスさまにお会いしての、姿勢とその言葉について今一度、注目してみましょう。「この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。』と願った」、の始めの部分、“イエスを見てひれ伏し”は、岩波版聖書では「顔を大地につけてひれ伏し」とあり、正に“平身低頭”の姿勢そのもです。そして、イエスさまに願って言った言葉、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」は、「もしも、このことが、主イエスさまの御心であるならば」と、イエスさまに全幅の信頼を寄せ、かつ、すべてをイエスさまにお委ねしている信仰から出る言葉です。わたしたちも祈りの中で、なにかを神にお願いするときに、自分の願望だけを祈るのではなく、主なる神の、そして、イエスさまの“御心ならば、どうぞ、そのように”と祈ることができたら、と思わされました。

 ここで、ある説教者の祈りの言葉をご紹介します。これは第二次大戦下(ナチスドイツ支配下で、キリスト教に対しても取り締まりが厳しかった時代)、ベルリンの西南のダーレムの街の片隅にある小さな教会の礼拝での、若き牧師ヘルムート・ゴルヴィツアーの説教の中の言葉です。「『主よ、御心でしたら清めていただけるのですが』、教会の皆さん、あなたがたが、今朝ここに来て、懺悔をし、愛餐にあずかり、礼拝をする、ということは、このらい病の人と同じことをすることです。顔を地に伏せるのです。跪いて顔を地に伏せるのです。そして言うのです。『主よ、御心でしたら清めていただけるのですが、あなたが欲するならば、われわれは救われる、われわれは癒される』」と、ゴルビッツアーは呼びかけ訴えていた、とのことです。このことを、ドイツに長く滞在していたことのある日本の牧師の説教集から紹介させていただきました。第二次大戦下で、生死をかけて礼拝を守っていた、当時の人々の気持ちがよく伝わってきます。またその人たちの気持ちは、ルカ福音書の本日箇所に記されている、重い皮膚病の人の気持ちとも重なるであろうことを、ヒシヒシと感じさせてくれます。

 次は13節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」とあります。なお、この時のイエスさまの対応について、共観福音書の並行箇所、マルコによる福音書1章41節には、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べて、その人に触れ」、と記されております。当時はこの病気の人に近寄ることも、手で触れることも、ままならない時代でした。主イエスさまは、重い皮膚病の人を深く憐れまれ、そして、その人に近寄って手を差し伸べ、手を触れて、「よろしい。清くなれ」と言われたのです。短いこの言葉の意味は、“あなたのこの病気を癒すことは、わたしの思いだ”とイエスさまは言われたのです。
 そのとき、「たちまち重い皮膚病は去った」とあります。今までその人は、この重い皮膚病にずっと苦しめられ続け、ひと時も安堵の時はなかったことでしょう。しかし今は、その場所に、そして、重い皮膚病を患って生きてきたその人に、喜びが溢れ出てきたことでしょう。

 しかしイエスさまは続けて14節のことをお命じになりました「イエスは厳しくお命じになった『だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。』」とです。たった今まで重い皮膚病で苦しんでいたその人が、しばしの喜びに浸っている暇もなく、なぜ、このように命じられたのでしょうか。これを解く鍵は、14節のイエスさまの言葉に隠されていて、その背景を読み解くことで分かります。
 先ずは、「だれにも、このことを話してはいけない」との禁句について、もしも、その皮膚病を癒された本人が、先に人々に言い広めてしまうと、この癒しの出来事だけが人々に伝わり、独り歩きしてしまい、誤解を招きかねないこと、さらに大きなことは、イエスが世に来られた目的である、「御国の福音」の中で、癒しの業だけが先行してしまい、また、歪められて伝わってしまわないように、との配慮です。さらには、この病気自体が、大きな社会的意義を持っており、そこから大きな偏見や差別を生み出す危険性をも含んでいたことです。

 では次に14節後半、「祭司のところに行って自分の体を見せ、献げ物を云々」と指示されたことについて。自分の皮膚病が癒されたことを、そのまま、自分から公言するのではなく、まず祭司の元に行って、自分の体を見せ、祭司に念入りに見てもらったうえで、その皮膚病が癒されているなら、その祭司から「あなたは清い」との証言をしていただくこと。そして、しかる後に、モーセが定めた通りの(レビ記14章に規定されている)「清めの献げ物」をするようにとの、イエスさまの指示です。
以上のとおり、律法に基づいての手続きを終えた時に初めて、社会的にも、その病が癒されたことが多くの人に認められ、晴れて社会の一員として、復帰できるのです。

 御子イエスさまは、御国の福音を告げ知らせるために、この地上に来られました。そして、イエスが言われました。マタイによる福音書5章17節、18節(“山上の教え”と言われている箇所の後半部分)で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」

 一方、エレミヤ書(31章31節、32節a)には「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」とあります。この意味は、後の時代にイスラエル、ユダに新しい契約を携えて来られる方がいる、ということで、もちろんそれはイエスさまの到来のことです。ではイエスさまが来られたことによって、古い契約である律法はほごとなって(効力がなくなって)しまったのでしょうか。否、決してそんなことはありません。ルカ書本日箇所のように、必要なことは現在も効力をもっているために、祭司のところに行って、云々と命じられているのです。
 しかし、主イエスは最後に十字架の贖いを通して、ご自身が“清めの献げ物”となってわたしたちの罪を許し、命を与えていてくださいました。なんと感謝なことでしょうか。そのイエスさまと共にこれからも、確りと一日一日を生きて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)