ヘブライ人への手紙

仮住まいの者

ヘブライ人への手紙 11章13〜16節

 このところの集中豪雨で、日本列島のあちこちで河川の氾濫や土砂崩れ等、大きな災害が起きています。多くの家屋が浸水し、押しつぶされ、流され、多くの人命が失われ、今なお行方不明の方がたくさんおられます。被害に遭われた方々の中には着の身着のままで逃げ出し、一瞬にして我が家を奪われた方々がおられます。呆然自失、きっと言葉を失う事態だったことでしょう。しばらくの間は避難所に入ることができますが、心身ともに安らげる場所ではありません。仮設住宅が建てられ、そこに入ることで少しは落ち着かれるかもしれません。でもそこは仮の住まいです。もとの場所に住めるようになるのにはかなりの時間がかかるでしょうし、なかなか難しいことではないでしょうか。被災された方々の上に神の豊かな助けが与えられますようにと心からお祈りいたします。また私たちにできることを精一杯支援できたらと願っております。

 皆さんは仮住まいをなさったことがおありでしょうか。ある方々は、戦争末期に落とされた焼夷弾による火事で焼け跡になってしまったところに、バラック建ての住居が作られたことを連想される方もおられると思います。私は小学生の頃に、住んでいた町が全焼して我が家も焼けてしまって住むところがなくなり、自宅跡地にバラック建ての我が家ができるまで、親戚の農家にお世話になりその家の納屋で過ごしたことがあります。できあがったバラック建ての家の屋根はトタンでした。雨が降るとその音で人の声がかき消されてしまい、会話ができなかったのを覚えています。

 仮住まいは、比較的短時間で元の生活に戻れることもありますが、何年か前に火山の爆発によって住民全員が疎開されたことがありましたが、いつになったら終わるのか先が見通せないまま苦しく辛い生活を余儀なくされる場合もあります。10年前の東日本大震災に遭われた方々、中でも福島第一原子力発電所の崩壊事故による放射能汚染によって避難された方々の多くは、10年たった今もなお自分たちが住んでいた家に戻れずに、理不尽な仮住まいの生活を強いられています。それらの方々は大変なご苦労と共に悩み苦しみが尽きないと思うのですが、自分が生きている間は解決できずに仮住まいのままで終わってしまうと嘆いておられる方々の声をお聞きすると、これはもう自然災害ではなく、人間が作り出した人的災害だと憤りさえ感じます。今朝はヘブライ人への手紙から、私たち神を信じる者はこの世では「仮住まいの者」であるということを考えてみたいと思います。

 ヘブライ人への手紙は「手紙」という題になっていますが、中身はむしろ「説教」というべきもので、それが手紙の形で届けられているのです。この手紙は小アジア(今のトルコ)の各地に住んでいたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものだと考えられています。当時、キリスト教徒はユダヤ教とは異なる教えであると考えられ、ローマ皇帝を礼拝せず、キリストだけを主として崇めていることを非難され迫害されていました。そしてその厳しい迫害のために、キリストを信じている者たちの中には、信仰を捨てる者が現れたり、教会の集まりを止めたりする人々が出てきたのです。

 そのような状況を憂えたこの手紙の著者は、旧約聖書の約束に基づいて、救い主イエス・キりストこそが真の大祭司であることを説き明かし、迫害の中にいる信者たちに向かって、キリストを仰いで生きていこうと呼びかけているのです。読んでいくとお分かりのように、このヘブライ人への手紙の2章から6章では、章が変わるごとに「だから」「だから」という言葉を重ねて、神の子イエスのみが私たちの罪を贖ってくださる真の大祭司であることを説いています。また、まるで信仰者列伝とでも言えるように、次から次へと旧約聖書の信仰の証人たちの生き様が書かれているのです。その中を貫く精神は、この後に書かれている12章2節の「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉に凝縮されていると思います。

 11章には「信仰によって」という言葉がなんと21回も出てきます。「信仰によって、アベルは…」「信仰によって、アブラハムは…」「信仰によって、イサクは…」等々、次々と語られる壮大な信仰者の系列です。錚々たる信仰者のリレーと言ってもよいかもしれません。ここには旧約聖書に出てくるすばらしい信仰者の生き様を挙げて、その人物や事柄についての簡単な説明がなされているのですが、それは11章1〜2節にある「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」という言葉を具現していることに気づかされます。13節に「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」と語られています。そして14節で「 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」とあるように、ここに挙げられている旧約聖書の登場人物たちは、神を仰ぎ見ながら、天の国を目指して生きる旅人として与えられた人生を生きていたのです。

 私たちは、ことあるごとに自分の身の回りにあるいろいろな物や事柄に執着し、しがみついてしまいますが、そういう生き方はある面で神を信頼していない姿でもあります。そういう私たちに対してこの手紙は、この地上の生活は仮住まいに過ぎないのだと語っているのです。私たちが本当に、真の神のみを神とする生き方や考え方をする時、つまり私たちの故郷は天にあることをいつも思いながら暮らしているならば、この地上の生活は仮の生活にすぎないということがわかってくるでしょう。そしてこの世の現実から自由になるのではないでしょうか。それが、神が私たちに求めておられる本当の信仰生活だと思います。

 私たちの日々の生活態度を振り返ってみるなら、自分の生活が豊かになり安泰であると、それに満足して人の辛さや苦しみを忘れてしまいますし、逆に少し大変な目に遭うとすぐに失望落胆してしまいます。この世の価値判断やものの考え方などに縛られているからです。つまりこの地上のことに囚われてそれに固執しているからです。私たちは神でないものをしばしば絶対化し、神にしてしまう危険性があるのです。

 まず富や財産、つまりお金は容易に神になります。拝金主義といいますように、お金を儲けることが人生の唯一の目的になると、利益だけを追求するあまり、見つからなければよい、警察に捕まらなければよいと、詐欺や汚職や犯罪などに手を出してしまう危険もあります。また健康や美容を第一に掲げる人もいます。健康のためなら、美しくなるためならいくらお金がかかっても惜しくないという方もおられます。これらは「自分の腹を神とする生き方」です。神ならざるものを神としている生き方は偶像礼拝と同じです。しかし、私たちの命も財産もすべてのものは神からの恵みであり贈り物です。神から貸し与えられたものであることを忘れてはいないでしょうか。

 父であれ母であれ、親は子どもの成長を見守り、子どものすべてをしっかり見ていますから、子どもが大変な時に支え、助けないはずがありません。同じようにキリスト者は父なる神の愛に守られています。神は信じる者を必ず助け、支えてくださいます。神を信じる者は神が用意してくださった天の国を目指して生きているので、苦しい現実に出会って意気阻喪することがあったとしても、へこたれずにその困難を乗り切ることができるのです。ここに書かれている信仰の先輩たちは、神が約束してくださったものをしっかり握りしめていましたから、地上の悲惨な現実に遭っても力強く歩むことができたのです。

 イエスは、この世を去る前に弟子たちに語りました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章1-3節)と。

 イエスは私たちのために天に確実に住める場所を用意してくださいました。私たちが心から安んじて住むことができる場所です。16節には「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」とあります。アブラハムの信仰を思うならば、信仰とは故郷を出ていくことであり、天にある故郷を仰ぎつつ旅することです。

 信仰によって生きるこの世の生活を、ここでは仮住まいの生活と言っているのです。それは天の故郷に向かって生きていく信仰者の歩みです。これは歯を食いしばって悲壮感に包まれて生きることではありません。信仰によって生きることは心豊かに神のみ手の中で安心して生きることです。また逆の見方をすると、仮住まいだからいい加減に生きてよい、好き勝手に生きてよいというのでもありません。この世の生活が仮住まいであるからこそ、全力をあげて力いっぱい歩むことが大切なのです。現実をしっかり見て、目の前の課題を自分に与えられたものとして真剣に取り組んでいくのです。そこには必ず神の導きのみ手があります。

 今朝お読みした個所の少し前の10節には「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」とあります。天の故郷、そこは「神ご自身が設計し、建設してくださった」ところだというのです。そこは堅固な土台を持っている都でありますから、今の私たちの住まいのように補修やメンテナンスは必要ありません。「そこ」つまり「更にまさった故郷、すなわち天の故郷」を目指して私たちは信仰の旅をしているのです。神の導きと見守りの中を軽やかに仮住まいの旅をするのがキリスト者なのです。

 いまここで「軽やかな仮住まいの旅」と書いて、私はインドのカルカッタで「神の愛の宣教者会」を立ち上げたマザー・テレサのお顔を思い浮かべました。38歳で修道院を出てスラムに入り、路上で倒れている人たちを助けてその死を看取る「死を待つ人の家」の働きを始めたマザー・テレサ。彼女ほど神と近く歩んだ方がおられるでしょうか。その愛の働きは、世界中の多くの人々に支えられてどんどん大きく成長しています。ボランティアしたいと申し出る方を拒まず、誰でも受け入れて神の愛の虜にしてしまいます。二枚のサリーと下着以外にご自分の持ち物はありません。今まで持っていたものは全部神に差し出しましたから、もう何も失うものはありませんと言われるマザー・テレサ。すべては神から与えられますと言って、どこに行くにも裸足にサンダルで出かけられるのです。実際「死を待つ人の家」だけでなく「子どもの家」や「老人ホーム」などに必要な食べ物は誰が注文したわけでもないのに、毎日どんどん運び込まれてくるといいます。それをシスターたちがニコニコして必要な人たちのところに運んでいきます。神が養っていてくださることをそこにいる誰もが体験しています。マザー・テレサは神にすべてを委ねて生きる祈りの人でした。この世の仮住まいをこのように自由に生きることができたのは、ただ神への信頼があったからです。

 私たちの日々の生活の中では、神の存在について明確な確信がないかもしれません。神は目に見えないお方ですからそれは当然かもしれません。しかし、御霊なる神は信じる者といつも共にいてくださるのです。それは祈りという対話を通して知ることができます。祈りは天につながる窓です。今の時代は今日のことさえも定かでなく、もちろん明日のことも予想できません。しかし、私たちのために用意されている天にある故郷については、確信をもって待ち望みつつ生きていきたいと思います。私たちの目に見えるものだけがすべてではありません。神は生きて今も働いておられるのです。先が見えない今の時代だからこそ、ここに書かれている信仰の先人たちが天にある故郷を思いながら生き抜いた深い信仰を思い、その心を尊敬し、私たちの心にもそのような信仰が呼び覚まされることを願っております。「(16節後半)神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」私たちもまたそのように天の故郷を望みながら、仮住まいの生活を精一杯生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)