苦難の中の慰め

コリントの信徒への手紙二 1章3〜11節

 私たちの人生はいつも平穏で楽に生きていくことができるとは限りません。皆さまの人生の途上にも様々な苦難があったことと思います。過去にさかのぼらなくても私たちは今、新型コロナウイルス感染まん延という人類の危機とも言うべき苦難の中にいるのです。でもこの苦難は自分一人だけが苦しいわけではなく、世界中の人が同じように苦しんでいます。しかしながらその中にあって私たち一人ひとりは、仕事において、家庭にあって、社会にあってそれぞれが違った意味での苦しみを抱えていると思います。

 今朝お読みした個所は、新共同訳聖書では「苦難と感謝」というタイトルになっていますが、ここには「苦難」と「慰め」という言葉が何度も出てきます。コリントの信徒への手紙はパウロによって書かれた手紙ですので、背景にはパウロが体験した様々な出来事があり、その体験を通して得たキリストへの信仰の恵みが語られているのです。

「(3節)わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」ここにある「ほめたたえられますように(ユーロゲートス)」は、神に対してだけ用いられる言葉です。慈愛に満ち、慰めを豊かに与えてくださる神は唯一ほめたたえられるお方です。真の慰めはすべて神から来ます。私たちが気落ちして倒れそうになっている時、支えてくださるのは慈愛に満ちた慰めの神なのです。

 この3節はなにげない挨拶のように思いますが、この手紙を受け取ったコリントの教会の人たちにとっては意外な言葉ではなかったでしょうか。それは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父」と呼んでいるからです。コリント教会にはギリシア人だけでなくユダヤ人もたくさんいたと思われるのですが、神を父と呼ぶことは、ユダヤ人にとって、あるいは旧約聖書においてもそうですが、あまり一般的なことではありませんでした。神を父と呼ぶのはあまりに畏れ多いことだったのです。神は世界の創造者であって、この世界を支配されるお方です。また人の罪を問い、その罪を裁くお方です。畏るべきお方、尊ぶべきお方ではあっても、とても人間の父親を連想するようなお方ではありませんでした。

 しかし新約聖書においては、イエスは神をご自分の父と呼んでおられます。この手紙を書いたパウロもまた、神を慈愛に満ちた父と呼ぶことができたのです。父親には何か厳しさがありますが、同時にある親近感を抱かせます。神は私たち人間のために救い主イエスを送ってくださったお方であり、私たちを守ってくださるお方、私たちを父親の様に包んでくださるお方だということです。そういう思いがこの手紙を書いているパウロの信仰であったのです。

 神が人間を厳しく裁くお方であることは否定できません。しかし根本的には「慈愛に満ちた神」であり「慰めを与える神」なのです。それが私たちと神との関係です。神は罪を問い、怒って罪を裁きます。しかしそれは、父の慈愛のまなざしの中でなされることなのです。私たちの人間関係では、相手を叱り飛ばすということがあり、あるいは突き放して遠ざけてしまうこともあります。しかし私たちの神、慈愛に満ちたお方は悲しみながら叱り、あるいは泣きながら打つのです。父なる神が私たちを打ち、裁くというのはそういうことです。つまり裁く方に痛みがあり、打つ方に悲しみがあるのです。神のそういう悲しみや痛みに打たれることによって人間は御心にそって育てられるのだと思います。

 人は誰でも人生の歩みの中で苦難に遭遇します。イエスを信じる信仰を持ったら楽な人生が始まるというのではないのです。神を信じて生きる時にも私たちは苦難にあいます。信仰を持っているのに、どうしてこのような苦難があるのかといって悩み、行き詰まって信仰を捨ててしまう人もいますが、神への信仰は楽に生きる道ではありません。信仰があっても苦難はついてきます。しかし、そこから受け取る恵みや慰めもまたたくさんあるのです。

「(4節)神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので」と書かれています。苦難はしばしば自分の力を圧倒する形で迫って来ます。もう自分の力では対応できない、自分が頼りにできるものは何も無くなってしまった。その時人間に残されている唯一の可能性があります。それはイエスを死者の中から生き返らせてくださった神に祈るということです。私たち死ぬべき罪人を贖ってくださった神に祈ることです。苦難から逃げるのでなく、苦難の中に踏み留まる時、そこに神が働かれ、神の慰めがあるのです。苦難の中で慰めを受け取るのです。それが信仰者の力です。私たちは苦難の中にあってもそこに一人ではありません。そこにはいつも神が共にいてくださるのです。そこで信仰者は神に慰められ、支えられ、強められていくのです。

「(4節後半)わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」私たちは苦難の中にあっても、神から慰めを受け取ることができるのだから、他の人の苦難に際して慰めを与えることができるのだとパウロは語ります。これは苦難によって鍛錬されるから強くなって、他の人を励ます力が身に着くというのではありません。苦難の中にある時、弱い私たちは行き詰まってしまいます。しかしそこでパウロが言うように「(9節)自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」力も知恵も自分には何もないとわかった時、真に神の力を信じて受け取ることができるのです。そして本当の慰めをいただくことができるのです。4節の意味は、慰めを神から受けて立ちあがった人こそが、神から受ける慰めによって、他のどのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるということです。

 人々は一般論として、人間は他人の苦難を思いやれるには、同じような経験をしなければ理解できないと言います。しかしここでパウロは、私たちはあらゆる苦難に際して神から慰めを受けるので、この慰めによって、あらゆる苦難の中にある隣人に、たとえ自分が受けたことのない苦難であっても慰めることができると語っているのです。

「(8節)兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」ここにはパウロが直面した大きな苦難のことが書かれています。これは使徒言行録19章23節以下に書かれている銀細工師デメテリオによって引き起こされたエフェソでの騒ぎかもしれませんし、コリントの信徒への手紙一15章32節にある、「エフェソで野獣と闘ったこと」かもしれません。とにかくアジア州(エフェソを含む今のトルコ半島の西部地方)ではパウロたちは大変な試練を受けたのです。命が危なくなり、パウロは生きる望みさえ失ってしまったと語っています。

 またパウロ自身がコリントの信徒への手紙二11章23〜28節で語っていることですが、「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」このようにパウロは言葉で言い表せないくらいの酷い苦しみにあっていますが、その苦しみの中で神の慰めを体験しているのです。

 苦しんだ経験を持っている人は、苦しんでいる人の気持ちを思いやり理解することができると思います。ですから苦しみは決して無駄ではないのです。その体験を通して得た心、その時に神からいただいた慰めの心を持って他の人を助けることができるようになるのです。また苦しみが益と変えられるのは、その体験が後になって苦しんでいる他の人を慰めることができるようになるだけではありません。苦しみも慰めも共にキリストに結びついているからなのです。

 私たちの苦しみがいつでもキリストを信じるが故の苦しみであるとは限りませんが、苦しみを受ける時、私たちもまたキリストの苦しみに与っていることは確かです。つまりキリストと共に苦しむのです。もし私たちがキリストに従うことによって苦しんでいるならば、それ以上に慰めもまた溢れるように与えられます。そのことを「(5節)キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」とパウロは語っています。

 6節にはパウロたちとコリントの信徒たちとの関係が語られています。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」パウロたちがコリントの信徒たちに福音を伝えるために受けている苦難は、コリントの信徒たちにとってはキリストが伝えられていくのですから、慰めをもたらします。そしてコリントの信徒たちはこの慰めの力でパウロたちと同じように主を信じるがゆえに被るあらゆる妨害や迫害の苦難に耐えることができるようになるというのです。

 このように、パウロたちとコリントの信徒たちが味わう苦難と慰めの関係について「(7節)あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」と語ります。コリントの信徒たちの苦難と慰めは、パウロたちの苦難と慰めとに重なり、それらを共有しているというのです。

 私たちが受ける苦難は、キリストの苦しみに与っていることであり、苦しみをキリストと共有しているととらえることができます。また私たちが神から受ける慰めは、神がキリストに与えられた慰めに与り、その慰めをキリストと共有していると言うことができます。ですからキリストと私たちの苦難と慰めの関係のように、パウロたちとコリントの信徒たちとの間にも苦難と慰めの共有関係が成り立っているのです。

 このように私たちの苦難がキリストの苦難に与っているのであれば、私たちの苦難は、誰にも理解されず、孤独の中で無駄に苦しまなくてはならない苦難ではありません。私たちが苦しむ苦難で、キリストが苦しまれなかった苦難はなく、キリストが理解してくださらない苦難もありません。私たちはキリストと同じ苦難を共有しており、私たちが苦しむ時、私たちの苦難の中にキリストご自身が私たちと共に苦しんでおられるのです。それが御霊なる神の業です。

 私たちの苦難と他の人の苦難とは、たとえ外見は異なるように見えても、どちらの苦難もキリストと苦難を共有しているのです。私たちが神から受けた慰めによって深く慰められるように、この慰めによって、私たちは苦難にある隣人をも慰めることができるのです。また、隣人の苦難の中にキリストの苦難を思うならば、私たちは自分に与えられた力で隣人を助け、愛していくように促されていくのです。

 イエスは今、私たちにこう語りかけています。「あなたの苦しんでいる苦難で、わたしの知らない苦難はなく、わたしが苦しまなかった苦難は一つもない。わたしは今、あなたと共にいて、あなたの苦難を共に負い、あなたの傷を包んでいる。たとえあなたがわたしに気づかなくても、わたしはあなたの苦難の中に共にいる。わたしの慰めと平安を受け取りなさい。」と。このような素晴らしい愛の神を信じて生きることができることを心から感謝したいと思います。

(牧師 常廣澄子)