神の力によって

コリントの信徒への手紙一 2章1〜5節

 2021年最後の礼拝となりました。今社会は、昨年から続く新型コロナウイルス、特にその変異種である感染力の強いオミクロン株によるパンデミックによって、厳しい苦難の中に置かれていますが、そのような中でもこのようにご一緒に礼拝堂に集まって一年の感謝を捧げ、共に主を礼拝できますことを心から感謝いたします。

 この新型コロナウイルスは、ペストやサーズ、スペイン風邪などと並んで、後々まで人類の歴史に残る出来事だと思います。そのような時代に生きる者として、私たちは神を信じる信仰によってどれだけ豊かに支えられていることでしょうか。今朝は、コリントの信徒への手紙にあるパウロの信仰を通して、神を信じる信仰に生きるとはどういうことなのかを考えてみたいと思います。

 1章では、神は人間の知恵ではなく、世の人々が軽蔑するような福音の宣教という愚かな手段によって、信じる者を救われるのだということを学びました。それが神の知恵なのだということです。私たちが福音を聞いて信じたのは、私たちがこの世の他の人々より頭が良かったり、優れていたからではありません。つまり信仰は人間の知恵によるのではないということです。また知恵だけでなく、家柄や身分や学歴とかそういったものが他の人に勝っていたというわけでもありません。神が私たちを愛して救いを与えてくださるという福音の言葉を聞いて、ただ素直にそれを信じたことによるのです。

 そして神を信じるということは、神が自分の生活の主人であることを知ることです。別の言葉でいえば、今私たちがここにいるのは、自分の意志でここにいるというより、神に遣わされてここにいるのです。その生活は、ただ自分の思うようにではなく、神によってここにいる使命が与えられ、そうするようにと導かれているのだと受け止めて生きることです。私たちは神によって今この家庭に、この学校に、この職場に、またこの教会に生きているのです。

 この手紙を書いたパウロは、皆さまもご存じのように、以前はイエスを信じる人たちを迫害していたのですが、復活のイエスに出会ってからは、イエスの福音の宣教者となって大きな働きをしていきました。パウロは福音を語りながら町から町へと旅を続け、コリントではおよそ1年半滞在して神の言葉を語りました(使徒言行録18章11節)。

 コリントは大きな都市でしたし、ギリシア文化が発展していて、雄弁な知恵者が大勢いました。しかしパウロは「(1節)兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。」と語っています。パウロがコリントに行ったのはもちろん福音伝道のためです。その福音の中身は、イエスは救い主メシアであるということ、十字架につけられたキリストこそが罪人を救ってくださる救い主であるということです。それが福音の神髄です。そしてパウロはその福音を語るのに「優れた言葉や知恵を用いませんでした。」というのです。ギリシアの雄弁家たちの才知や弁舌に立ち向かうには、パウロが持っている知識や教養を総動員して語れば、もしかしたら福音こそが真理であると証明できたかもしれませんし、そうしてもよかったはずですが、そうしなかったのです。十字架の言葉の愚かさに徹したのです。パウロは、福音の正しさは、神の霊の力が証明するという信仰に立って、自分の力や知恵を捨てたのです。

 私たちはコロナ禍のこの一年を生きていて、日々主の助けと守りを求めて祈ってきました。神が祈りに応えて最善をなしてくださると信じているからです。でも、私たちが神の守りや助けを信じているのはどうしてでしょうか。私たちの信じるところ、生きるよりどころが真理であると、何によって証明できるのでしょうか。これは私たちが説明したり証明できることではありません。たとえそれを説明しようとする知恵や手段があったとしても、それを放棄するようにとみ言葉は語っているのです。福音の真理は人間の知恵ではなく、神による知恵、神の霊の力によってわかるものだからです。それでもなお、私たちが「巧みな知恵の言葉」によって語ろうとあくせくするのであるなら、私たちの信仰は神の力によらず、人の知恵によっていると言われてもしかたがありません。

 このところを読んでパウロの信仰の姿勢を思う時、私はあまりに小さく貧しい自分の信仰を嘆かざるを得ません。愚かだと言われようと、何と言われようと、十字架につけられたキリストにのみ固執するパウロには、私たちには考えられないくらいの確信があります。その福音を語るのに、優れた言葉や知恵を用いなかった理由として、パウロは言います。「(2節) なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」このように、パウロは確信に満ちて心から十字架のキリストを信じています。

 しかし3節では「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と語っています。信仰の確信があるのに、不安があるというのは、いったいどういうことでしょうか。不安と言えば、コロナ禍では毎日が不安や心配の連続ではないでしょうか。コロナ禍でなくても現代社会は不安に満ちています。

 ここでのパウロの不安について考えてみますと、ギリシアの知識人がたくさんいるコリントで出会う人々とのやりとり、またおそらくコリントの人たちから迫害やあざけりを受けるであろうということ、自分は主から託された福音伝道の任務をちゃんと遂行できるのだろうか、その他いろいろなことへの心配や恐れが入り混じっていたのではないかと想像することができます。

 これはパウロが生身の人間であることを示しています。どんなにイエスへの信仰があっても、十字架の福音のみを語るという決意があろうとも、それが直ちに信仰の確信になるのではないのです。人間はある時は疲れて動くことも考えることもできなくなる時があります。パウロはこの時衰弱していたと書かれています。そのような体調が整っていない時には、なおさら新しい土地での行動には不安や恐れが生じます。パウロはこの時、人間の知恵によらずに、神の知恵によって立つことを決めていました。しかし十字架につけられたキリスト以外のことは何も知るまいと心に決めていることと、それに伴う行動への不安とは同時に起こるのです。つまり、人間が自分の知恵や力で福音を語ろうとすることを断念することは、逆に自分という者がどんなに神の前で弱く、力の無い者であるかがわかることに直面するのではないでしょうか。しかしその時にこそ神の力がわかるのです。

 ですから、パウロはその時の状態を「(4節)わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」と語っています。パウロは神に依り頼んでいるのです。そして神に依り頼む時、パウロの宣教は、知恵にあふれた言葉によるのではなく、「霊と力の証明」、つまりパウロの宣教の言葉は「神の力」によるものだということが証明されるのだと語っているのです。これは神を信じる信仰者すべての人に共通する真理です。神の霊と力が私たちの信仰を証明してくださるということです。「(5節) それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」とあるとおりです。

 コロナ禍の中にあったこの一年、教会の在り方について、キリストを信じることについて、いろいろ考えることが多くありました。世の中が厳しい状況にある時、そこにいる人間、特に信仰を持っている人に対して、社会の人々は関心を持つようになります。クリスチャンは「生きている聖書」だと言った方がいますが、私たちの生活や言動が多くの人に見られている(読まれている)ということです。私たちの日々の生活は神を証ししています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)とパウロは語っていますが、これは、私たちが証ししているのは、「私の証」ではなく「神の証」だということです。それは、神が私のすべての言葉と行為の真実を証明してくださるお方だからです。その後ろ盾によって私たちは生きることができるのです。そしてそれが信仰者の生活であり、信仰者の人生です。

 エフェソの信徒への手紙(6章10節)には「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」という勧めの言葉があります。けれども、私たちの日々の生活には、毎日のように自分の無力さ、弱さ、惨めさ、空しさに直面することが多くあり、「強くなりなさい。」と言われても、なかなか簡単には強くなれません。私たち人間はやはり弱いのです。その私たち人間の弱さを知ってカルバンはこの個所についてこのように書いています。「なぜなら、我々を弱めるものが数多く存在し、これに抵抗すべきであるのに、我々にはほとんど勇気がないからである。しかし、我々の弱さはあまりにも甚だしく、もしも神が我々を助けてくださらなければ、また助けようと手を伸ばしてくださらなければ、さらに言えばあらゆる力を与えてくださらなければ、この勧めはあまり役に立たない。」と。しかしここに書かれている「強くなりなさい」を良く調べると、原文では「強くされなさい」という受身形なのです。力いっぱい頑張って、努力して強くなれ、ということではなく、イエス・キリストに結びついて、しっかりつながって、イエスに頼ることによって「その偉大な力によって強くされなさい」と促しているのです。つまりカルバンが言っていることは、人間には神の力が必要だと言うことです。

 今私たちは厳しい時代に生かされていますが、感謝なことに、信じる者にはいつも神が共におられるという約束があります。どんなに不安で恐れに満ちている時でも、真の神の力が私たちを支えてくださいます。私たちにその神を知らしめたのは、人の知恵ではなく、偉大なる神の力です。新しい年を迎えようとしている今、過ぎ去ろうとしているこの一年の守りと、この一年に与えられた数々の恵みを感謝して、神の力によって新しい年も力強く生きていけますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)