成長させてくださる神

コリントの信徒への手紙一 3章1〜9節

 今朝もパウロが書いたコリントの信徒への手紙から聞いてまいりましょう。
 今私たちは、新型コロナウイルス感染防止対策のため、人との接触や行動が制限されていますから、乗り物で移動して各地を旅行するということがなかなかできずにいます。しかし、この手紙を書いたパウロという人は、大きく括って3回の伝道旅行をしています。主の福音を携えて各地、各国を巡り、地中海を渡っていったのです。しかし、パウロの目はどこを見ていたのでしょうか。地中海の海の美しさやギリシアの海と建物が織りなす風景の美しさには一言も触れていないのです。

 多くの人は旅を通して目新しい風物や自然に接すると、そのことを書き記すものですが、パウロはたくさんの手紙を書いているにも関わらず、そういう描写がどこにもないことは大変不思議です。その理由として考えられるのは、パウロにとっては一人でも多くの人に主の救いを語り伝えること以外には関心がなかったのかもしれません。さらに、当時の地中海が、今のようにクルージングのような楽しみや遊びの観点で見るものではなく、船が難破することや座礁すること等、危険な航海の思い出や恐ろしい体験につながったこともその一因かもしれません。

 このように、パウロの手紙全般を通して自然描写が少ないということが言えるのですが、人間についての多彩な記述や人間洞察の深さは驚くべきものがあります。それは、パウロの生い立ちや人生体験の多様性から来るものでしょうが、パウロという人間の深みをのぞかせてくれます。

 私たちはコロナ禍の今朝もこうして、愛と恵みの神を礼拝するためにこの場に集まってきました。キリストのからだであると言われている教会は、主なる神を信じる多くの人で成り立っています。
 教会には性別も職業も性格もいろいろな面で異なる人たちがいます。しかし教会の基盤にあるのはただ一つ、主のみ言葉に養われ、主の霊に導かれる群れであるということです。それは教会が主の福音の恵みに満たされているところであるということです。ですからその恵みに応えて、そこには主の福音を反映する生活態度が伴うのです。それはこの世からかけ離れたものではありません。この世にあって、この世の人々と共に、この世の人々のために、希望と忍耐をもって愛の労苦にいそしむ生活です。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみ、兄弟愛をもって互いに助け合う生活をすることです。今のこのコロナ禍の中では、私たちには以前に増して愛の行為が求められています。

 今朝お読みいただいた3章の始めの部分は、こういう人と人との関係について語っています。パウロはコリントに来て伝道し、そこでいろいろな人に出会いました。中にはパウロが宣べ伝えるキリストの福音に全く耳を傾けない人たちがいました。彼らはむしろ福音を軽蔑していたのです。このような人たちを、パウロは、「肉の人」あるいは「ただの人」と言っています。またある人たちはイエス・キリストを救い主として信じ受け入れたのですが、なかなかその信仰が成長しない、あるいは成長が止まっているような人たちがいました。パウロはこういう人たちを「キリストとの関係では乳飲み子」と言っているのです。

「(1節)兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」ここには「霊の人」「肉の人」という表現がありますが、聖書の中で使われている「霊」と「肉」という言葉は、ギリシア思想にある二元論的な意味で使われているのではなく、「肉」というのは被造物としての人間そのものを指しています。従って「肉の人」というのは、その生活のすべてが人間的な思いに支配されている人のことを言います。その反対に「霊の人」というのは、神を中心に生きている人を指しています。

 2章6節に書いてありますように「霊の人」というのは、「信仰に成熟した人」と言ってよいと思います。しかし悲しいことにコリント教会の多くの人は「霊の人」に属していなかったようなのです。だからパウロはもっともっと主の深い恵みを語りたかったのに、彼らには主の福音の奥義を語ることができなかったのでしょう。神の恵みを話しても、それが伝わっていかないとしたら、それは大変残念なことです。パウロは彼らに話す時は「肉の人」つまり「キリストとの関係では乳飲み子」に話すように話さなければならなかったというのです。

「乳飲み子」にいきなり神の奥義という「固い食物」を与えても、それを消化する力がありませんから、パウロは彼らには乳だけ、つまりわかりやすい初歩的なことだけを教えたというのです。「(2節)わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」パウロがコリントに来た初めの頃にそういう状態であったのならわかりますが、残念なことに、この手紙を書いている今もなお、そのような状態が続いているようです。コリント教会は発展して集会も盛んとなり、その活動も活発であったかもしれませんが、信徒の一人一人の霊的生活はいまなお未熟なままであったのです。

 コリント教会には、この世的な考えがたくさん残っていたようです。パウロはここで、「肉の人」すなわち人間中心に生きている人の何よりの証拠として「ねたみや争い」が絶えないことを挙げています。「(3節)お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」人々の中にこのようなことがあるのは、彼らの知性がいかに優れていて人生観がいかに高尚であろうと、信仰においては「乳飲み子」であり、肉に属する人であると言っているのです。

 そして4節にあるように、「私はパウロにつく」「いや私はアポロにつく」と言って互いに争っているとしたら、あなたがたは「ただの人」に過ぎない、まったく俗世間の人たちと同じではないかと言っているのです。この世の政治家が自己の名利のために党派にこだわり、派閥で争っているのと同じことです。神を信じる者としては大変情けないことだ、そのような「ねたみや争い」が絶えない状態で、どうしてキリストを信じている者だと言えるのか、とパウロは言っているのです。

 そして続けて言います。「(5節)アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」パウロにしてもアポロにしても、あなた方が担ぎ上げているそうした人たちは一体何者なのか、彼らはあなた方信徒の党首ではなく、教会に仕える僕である、とパウロは語ります。コリント教会の人たちは福音を宣べ伝える伝道者の働きや役割をよく理解していなかったのかもしれません。パウロやアポロが彼らを救ったのではないのです。彼らはただ神から与えられた賜物を用いて働いただけです。いわば神の手の中にある道具に過ぎないのです。その語る言葉も知識もその熱心さも、さらにはその結果もすべては神のもとにあります。私たち人間の働きはすべて、神から賜ったものの管理人としての役割を果たしただけであることをよく心に留めておきたいと思います。

「(6〜8節)わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。」パウロはコリントに来て伝道を開始し、主の福音を語りました(使徒言行録18章参照)。パウロが福音の種を蒔いた(植えた)のです。その後、アポロがやってきました。彼は有能で立派な伝道者であったようです。彼は既に信仰を持った人たちに霊的な糧を与えて、すなわち水を注いで、彼らの信仰を豊かにしました。

 このようにパウロもアポロも同じ目的のために働きました。彼らの働きは植えることと水を注ぐこと、ただそれだけでした。つまり人々の信仰を育てられたのは神お一人なのです。彼らは神に用いられただけです。神がパウロを用いて福音の種をまき、アポロを用いてこれに水を注いで成長させてくださいました。ですから大事なのはパウロでもアポロでもなく、成長させてくださる神だということです。神のみがほめたたえられるお方です。

 私たちの信仰の過程をたどってみても同じことが言えるのではないでしょうか。立派な牧師や宣教師の方から福音を聞き、信仰が与えられた後、毎週の礼拝や教会学校での学びなどで聖書や神の御心についての知識が増していきます。でもそれだけではありません。その人の生活を通して出会う人たち、日々の暮らしで見ることや聞くこと体験すること、様々なことを通してみ言葉がふくらみ、肉付けされて心に蓄積されていきます。そして霊の人に成長していくのです。私たちを成長させてくださるのは主なる神です。

 私たち教会に仕える者は、それぞれ異なる賜物が与えられ、性格も習慣も特技もみな違います。けれども目指すところは一つ、神の栄光とキリストの身体である教会の形成です。決して植える者と水を注ぐ者が分かれているのではありません。彼らは一つのことを目指して心を合わせて働く人々なのです。

「(9節)わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」私たち一人ひとりは、神の道具として神に用いられ、神と一緒に働く者だと言われています。それは何と光栄なことでしょうか。このような取るに足りないも者を神は用いてくださるのです。実際、私たちはそのような任には堪え得ない者ですが、そのような者を用いてくださるということは私たちに勇気を与えてくれます。なぜなら、私たちはそれを自分一人でやり通すのではないからです。日々の私たちの生活も仕事もすべては神の業への参加です。だからどんな困難に出会っても神は必ず共にいて助けと導きを与えてくださるのです。

 続いてパウロは私たちが仕え働く場所である教会を美しく表現しています。それは「神の畑、神の建物」であると言います。神はコリントの教会に、ひいては私たちの教会に大きな期待を寄せておられるのです。植える者や水を注ぐ者を備えられて、そこに霊の人を育てて御霊の結ぶ身を収穫しようとしておられます。「神の畑」になるようにと。また私たちを生ける石として用いて、そこに美しい神の建物を建てようとしておられます。神のいろいろな働きのために、私たち一人ひとりに与えられている賜物を用いたいのです。互いに争っていたのではこの神の尊い目的は果たせません。

 このようにパウロは、すべて主を信じる者は、いつまでも肉の人として留まっているのでなく、神に栄光を帰して生きる者となるように、霊の人、つまり神を中心として生きる者として成長するようにと勧めています。もしかしたら、自分はもう成長が止まったかのように思ってはいないでしょうか。私たちは学校生活での学びは終わっているかもしれませんが、キリストにある者は生涯学び続け、主の導きによって、「霊の人」として限りなく豊かに成長し続ける者なのです。そのことを喜び感謝して、新しい週も主と共に歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)