福音の力

ローマの信徒への手紙 1章14〜17節

 ローマの信徒への手紙は16章まであり、様々な内容が含まれていますが、今朝お読みした個所は、ローマの信徒への手紙全体の内容を凝縮してまとめたものであるとも言えると思います。

 ここで注目したいのは「福音」という言葉です。この福音というのは、キリスト教専用の言葉であり、イエス・キリストを通して現わされた神の愛と救いということですが、もともとは軍事用語でした。戦いの前線で勝利を収めた時に、それを報告するために伝令を出す時に使った言葉です。つまり勝利を告げる喜びの報告を福音と呼んだのです。最近ではこれをもう少し広く用いて、良い便り、グッドニュースという意味でキリスト教以外のいろんな方面で使われるようになってきました。

 2節に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」とありますように、イエス・キリストを通して私たちに与えられたこの救いの出来事は、決して神の思いつきではありませんでした。約束が成就したということは、神の計画のもとに神の深い意志があって起こされたということです。

 前回もお話ししましたように、パウロは当時の世界帝国の首都ローマに行くことを長い間願っていましたけれども、いろいろな事情でそれを実現することができませんでした。しかし彼はローマ行きを断念したわけではありません。妨げとなっている要因が取り除かれたら是非とも行こうという強い思いを持っていました。

「(14節)わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」ここで「ギリシア人」と言うのは、ギリシア人に代表される(ローマ人も含めた)文化人のこと、それに対して「未開の人にも」と言っているのは、文化の光に浴さない他の多くの民族のことを言っています。「知恵のある人にもない人にも」というのは、学問のある賢い知識人にも、そうでない無学で無知な一般の人々にも、ということで、この世に住んでいるあらゆる人に対して、自分は責任があるのだとパウロは語っています。責任がある、というのは、負債がある、返さなければならないものがある、ということです。復活のイエスに出会って神から福音を託されたパウロは、それを自分一人で専有しているのではなく、すべての人に手渡さなくてはならないものであると考えているのです。つまりリレーのバトンのようなものをイメージすると分かりやすいかもしれません。バトンを受けたら、次の人に渡す義務があるのです。福音を受けた人は次の人に伝える責任があるということです。

「(15節)それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」パウロの心にはローマに行って主の福音を語りたいという強い思いがあふれています。コリントの信徒への手紙一9章16節には「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」とまで書いています。

 当時のローマにはギリシアから伝わって来た哲学や芸術の他に、ローマ帝国独自に作られた法律や軍隊組織がありました。そういう当時最先端の文化の真っただ中に、パウロはキリストの福音を携えていこうとしていたのです。ローマ人の方から見るならば、それは被征服民族の宗教であり、恥ずべき十字架に架けられた者の教えでした。ローマ人はそのような教えに耳を貸そうとはしないでしょう。きっと軽蔑するに違いありません。しかしパウロは言うのです。「(16節)わたしは福音を恥としない。」と。どうしてこのように大胆にしかも明確に言い切ることができるのでしょうか。

 ローマにある素晴らしい芸術も哲学や法律も軍隊組織も、これらすべては要するに人間の知恵から生まれたものです。いわばこの世の文化です。それに対して、福音は永遠者である生ける神からの呼びかけであり、天におられる神からのグッドニュースです。それは人間がこの世にある最高の物をどんなに積み重ねても生み出すことができないものです。人間がどんなに頑張っても到達できないものを、神の方から明確に示してくださったのです。つまり、福音という神からの呼びかけがなければ人間は神に向かっていくことはできませんでしたが、福音によって人間は神と対話することができるようになったのです。

 このように素晴らしい福音をどうして恥じる必要があるでしょうか。ローマの文化や芸術は、福音を受け入れることによって、さらに豊かにされ、その精神が清められ、社会に生かされていくに違いありません。そうであるならば何を恥じることがあろうか、とパウロは考えているのです。
「(16節続き)福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」福音には、人種による差別などありません。ユダヤ人でもギリシア人でも、中国人でも日本人でもどの民族に属する人であろうと、すべて信じる者は救われるのです。福音を受けるのに問題となるのは、ただその救いを信じるかどうかだけです。

 古来、人間は魂が救われるためにいろいろなことをしてきました。たとえばある人はたくさん善い事をする、瞑想をしたり、難行苦行をする、人格を高める努力をする、ボランティアをして世の中の人のために尽くす、等々。こういういろいろなことは決して無意味ではありませんし、それぞれ価値があることだと思います。しかし魂の救いに関する限り、それらは何の効果もないのです。どれだけ熱心にそういうことをやったとしても、それらは救われる条件にはなり得ません。

 人間は神が与えられた福音を信じることによってのみ救われるのです。救いは福音を信じるすべての人に、何の条件も何の代価もなしに与えられるものです。信じるということは、人間の知恵や知識などそういう理性や頭の働きだけでは理解できない真理を、人間以上の大きな力に促されて、心で受け留めるものです。自分の知恵や知識、力の限界点に立って、そこから福音の呼びかけに応じて、まだ見ない向こう岸に飛び込むことです。その時、ついに私たちは神の御手の中にある自分を見出すことができるのです。それが救いです。そしてこの救いは、危険から逃れた一時的な安心状態ではありません。魂が永遠の神の国の平安に移されることなのです。

 ところがまだ福音に与っていない人の心は神から離れていますから、ただただ外に見えるところにのみ囚われて、自我の愚かさや虚栄、傲慢の中に暮らしています。彼らはいつの日かその清算をしなければならない時が来るでしょう。しかし福音を信じる人は、イエス・キリストの贖いの御業によってすべての罪が赦されています。ですから、神の愛の中で感謝と希望に生きることができるのです。もちろん肉体を持って生きている限り、この世と断絶して生きることはできませんから、恐れや悩みを抱え、苦しみや悲しみをも味わうかもしれません。しかしたとえどのような状況にあっても、神への信仰を持っているならば、喜びと希望に生きることができるのです。それが「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」ということです。この「力」は、爆発的な力をもたらすダイナマイトの語源「デュナミス」です。信じる者にはそのようなすごい力が与えられているのです。

 ですから、福音を受け入れた人の心の中では、神に通じる道が開かれ、自我という大岩が砕かれていきます。そして傲慢の根っこは取り去られます。信じる人の心に宿る神の力は、この世にあって神の愛に満ちた清らか生活を造り出していく原動力となります。そういう意味で福音はすべて信じる者に救いを得させる神の力なのです。

 このように、福音が神の力であることを述べたパウロは、次に、福音には神の義が表されていることを示します。「(17節)福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」ここでの「神の義」というのは、神ご自身の義、すなわち神ご自身が義であられるということよりも、神から見た人間の義、つまり、私たち人間が神から見て義であるか(正しい人間とみなされるか)ということを意味しています。

 人間が人間の前で正しくふるまうことは比較的やさしいことです。世の中には素晴らしい道徳家や人格者がおられ、徳のある人と讃えられる人がたくさんおられます。しかし、神の前に正しくあることは非常に難しいことです。どんなに立派な人でも、自分は神の前に正しい人間である(義人である)とはなかなか言えるものではありません。自分自身を深く顧みるならば、誰一人そのようなことは言えないのではないでしょうか。

 ところがこの神の義は、福音の中にあますところなく啓示されているのだというのです。つまりキリストの福音の中に、どうすれば神の前に正しくあり得るのかということが示されているというのです。そしてその神の義はただ信仰によって受け、信仰によって保たれ、信仰によって全うされるというのです。言い換えるなら、神の前に正しくあることは、「初めから終わりまで」つまり信仰によって始まり、信仰によって終わるべきもので、徹頭徹尾、信仰によるよりほかに、神の前に正しく生きる道はないということなのです。

 人間は昔から神の前に正しくあろうとしていろいろな道を模索しました。厳しい鍛錬をし、修養に明け暮れました。あるいは悟りを開こうと忘我の状態に入ることで神に近づこうとしました。しかし、そういうことでは神が求める真の正しさには到達できないのです。神の義に導くのは信仰だけです。イエス・キリストを神の子と信じ、その十字架を自分の身代わりと信じることによってのみ、私たちは自分の罪を完全に赦され、神の前に義とされるということです。

 宗教改革者ルターは長い間、罪の意識に悩み、道徳的な行為によっても宗教的な行為によっても赦しの確信を得ることができずに苦しみました。しかしついにイエス・キリストの十字架を仰いだ時、そのあがないを信じることによって魂の救いと平安を得たのです。自分を苦しめて行う難行苦行によってではなく、ただキリストを信じる信仰によってのみ義とされるという真理を体得したと言われています。

 パウロはここで、ハバクク書2章4節「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」を引用していますが、神の前に義なる人(正しい人)は、律法を守ることによってではなく、キリストを信じることによって生きるのだということを強調しています。ここには、当時のユダヤ教的なキリスト者たちが神への信仰と共に律法を守るべきことを主張していたことに対して、信仰のみによる救いを強く打ち出しているパウロの立場が明確に表れていると思います。

 今、私たちは神への信仰が与えられて、この時を感謝して生かされています。与えられた神の恵みに目を注いで生かされています。それは、私たちの罪がどのように激しく私たちの背後で渦巻いていても、それはすべて主イエスの十字架によって赦され、決済されているからです。それがたとえ私たちにとって忘れられない辛い惨めな出来事であったとしても、神のみもとではすでに忘れられているのです。また、そういう過去の悔恨だけでなく、私たちには将来への思い煩いがあるかもしれません。しかし、復活の主はいつもどんな時も私たちに伴われ、もはや思い煩う必要のない者とされています。行く手に何が起ころうとも、私たちはイエス・キリストにおける神の配慮の中に置かれていることを覚えたいと思います。今は恵みの時、今は救いの時です。それが福音の力です。

(牧師 常廣澄子)