良き管理者

コリントの信徒への手紙一 4章1〜5節

 いま、パウロがコリントにある教会の信徒に向けて書いた手紙を読んでいますが、このコリント教会はいろいろな問題を抱えていたようです。アテネやコリントなどギリシアの諸都市にはアゴラという広場があり、人々はそこに集まってきて哲学やいろいろな知識を語り合い、互いに意見を戦わせていました。人々は学問や知識があることを誇りにしていましたし、学閥というのでしょうか、そういう学問をする人たちの間にはある種の派閥や党派があったようで、それが教会の中にまで入り込んできたのです。キリストへの信仰に導き入れられた後でもなお、そのような習性が現れてきてパウロを悩ましていたようです。3章でお読みしたように、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」といったようにグループができて、それぞれ党派心に燃え嫉妬や紛争となって教会を乱していたのです。

 そこで、パウロはそういった党派心や紛争の原因は、結局一人ひとりが自己中心という誤りに陥っていることから生じるものであって、主の教会にあっては、そのような考えはあってはならないと教えているのです。それが3章5〜6節です。「アポロとは何者か。またパウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」ここにはっきり、大事なのは「成長させてくださる神である」と言い切っています。

 ところが、コリント教会の中には、このように派閥を作って教会内を乱す人の他に、また違った意味で問題となる人たちもいたようです。自分自身の信仰を、他の人の信仰より勝ったものとして誇り、さらにはそれを自分の努力や功績によって得たかのように思って傲慢になる人たちです。彼らは指導者をも批判したり、攻撃するようになってしまったようです。そういう状況の中でパウロが語った言葉が、お読みした4章1節以下の文章です。

 パウロは言います。「(1節)こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」ここにある「仕える者(ヒュペレス)」とは、下役とか下級船員を意味する言葉です。つまりもともとは、ガレー船の一番下の船底で、大きなオールで船を漕いでいる奴隷を指す言葉だったのです。ですから「キリストに仕える者」とは、キリストが航路を指し示す水先案内人だとするならば、パウロやアポロたちはキリストの指示通りに働き動く僕にあたる者であると言っているのです。

 また「管理者(オイコノモス)」というのは、いわゆるスチュワード、つまり家令とか番頭という意味です。「管理者」というのは、その家とその家の財産全般の管理を司る上に、その家で働く人や奴隷たちを監督し、その家で必要な物資を購入して支給したり、その家全体のことを何もかも切りまわす人のことです。しかしそのように大事な仕事をする人であったとしても、その家の主人から見れば、彼もまた使用人にすぎません。従ってパウロやアポロたちのように、教会のリーダーシップをとり、教会でどんな地位についていようと、どんな特権を持っていようと、彼らもまたキリストの僕に過ぎないということなのです。

 そしてパウロは「(2節)この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」と付け加えています。「仕える者」であろうと「管理者」であろうと、その仕事を託した主人の意志に忠実に従って行動すべきであることが求められているのです。忠実とは、自分の思いを優先するのではなく、ひたすら主の御心に従うことです。パウロはコリントの人たちが、自分を含めた伝道者たちを党派の指導者ではなく、「キリストの僕」だと思ってくれることを望んでいるのです。また、それぞれのリーダー達にも主の前にあってどうかそのような心構えでいて欲しいと願っているのです。

 以前は、毎年2月頃に「スチュアードシップ週間」というのがありました。「良き管理者としてのあり方」を学ぶようにと設定されていたものですが、私たちキリストを信じる者がそれぞれに神から委託されたものを忠実に管理し、神の働きのために最善に用いるようにという目的がありました。すなわち、「良き管理者であるということは、いただいている賜物を感謝し、真心と責任をもって、所有者である神の御心に添い、所有者の最善の利益のため忠実につとめる。」という意味があるのです。「良き管理者の努め」は、私たちが神に対して当然果たさなければならない責任ですから、それを実行したからといって何も褒められるべきものではありません。ただそれをなし得たことを謙虚に感謝すべきことなのです。なぜならば、本来救われる価値の無い私たちを救い、祝福を受けるに値しない私たちを祝福してくださる神の愛に比べれば、それに応答する私たちが成すことは誠にささやかなものにすぎないからです。

 さて今朝のこの個所は、主の前に生きるパウロの生活の謙虚な一端を示している箇所だと思います。まずパウロは、自分が「(1節)神の秘められた計画をゆだねられた管理者」つまり「神の奥義の管理者」として人々に受け止められることを願っています。自分はその奥義を語り伝えることがゆだねられていて、今献身的に主にお仕えしているのだと語っているのです。そしてパウロはそのように行動している自分には何もやましいことはないが、だからといって、自分が義とされているわけではないのだと告白しているのです。ここにパウロの謙虚さがあると思います。

 そしてそれに続いて、自分が得ている恵みを語ります。それは裁きからの解放です。他人に裁かれることからも、自分で自分を裁くことからも解放されているという確信です。「(3節)わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」

 ここを読みますと、コリント教会内部の様子が少し想像できます。いくつもの派閥によって分裂していたコリント教会内では、パウロに属していない党派の人達がしばしばパウロの言動を責めたり、裁いていたのかもしれません。アポロという伝道者はとても雄弁でしたから、その派閥の人達は口下手なパウロの説教を批判していたのかもしれません。そのような非難に対して、パウロは断固として、自分はコリントの人達であろうと他の誰であろうと、人間が下す判断や裁きなどいっさい気にしないと言っているのです。なぜならば、それらの判決は人間が下したものであって不完全なものであると知っているからです。私たち人間は他の人間のことを理解することには限界があるのです。

 しかし人間は自分のことならある程度は知っている筈です。ですからもし自分で自分がやったことを裁こうと思えば、できないわけではありません。でもパウロはそんなことはしないと言っています。たとえ人間的に無罪であると思ったとしても、神の目から見たならば違っているかもしれないからです。究極的には神による裁きだけが真の判断であり本当の裁きなのです。パウロが心から待ち望んでいるのは主の裁きです。裁きは神の主権の中にあります。真に人を裁くことができるお方は神だけです。

「(4〜5節)自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」とパウロは言います。パウロはたとえ人間によって裁きを受けたとしても、自分は管理者として何ら落ち度がないという自信があったのでしょう。ここからは「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」というルカによる福音書17章10節のみ言葉を思い起こします。「わたしどもは取るに足りない僕です。」という告白は、命じられたことを何一つしなかった時ではなく、命じられたことをみな果たした時に言いなさいと言われています。つまり僕は命じられたことすべてやってしまった時でさえ、依然として主人の前では取るに足りない僕のままなのです。真実の謙遜さというのはこのようなものではないでしょうか。

 私たちの生活には裁きが満ちています。ご近所でも職場でも学校でも同じように人を裁き合います。だれもが評論家であり、批評家であり、裁判官になっています。世間で起きるさまざまな出来事に対していろいろな意見を言い、これはこうだ、あれは問題だ、という裁きや批評の言葉がいとも簡単に口から出ます。そういうことは自分のたった一日の言動を考えてもわかると思います。世の中のニュースのあれこれにコメントし、そういう犯罪を犯した人の品定めをし、心の内であれこれレッテルを張ってしまいます。何よりも誰かを批判することが何か自分の生活を高めてでもいるかのように思っている人が多いのです。

 特に現代は批評や評論の類が盛んです。それは必ずしも悪いことではありません。しかし、誰もが評論家気取りで無責任に社会や他人を批評し、しかも自分は少しも傷つかずにいて、むしろ少々高みにいるかのように良い気分で言いたいことを語っているのは問題です。そのような人が下す冷酷でしかも無理解な評価によって、辛く苦しい思いをしている人がたくさんおられるのです。また、他人を裁く傲慢は、自分を裁く傲慢にもつながっていきます。自分のことは自分が一番よく知っているのだ、自分のことを自分で考えて行動して何が悪いのかと、自分で自分を判断し判決を下してしまうのです。

 人間は自分で自分を義とすることができないのと同じように、自分で自分を罰することもできません。それは神の前に赦されていないことです。しかし現実には自分で自分を裁き、遂には自分に死の判決を下してしまう人さえいるのです。これは自殺する人のことだけを言っているのではありません。生きてはいても、内心ひそかに自分の人生に見切りをつけている人がおられるのです。痛ましいことです。自分のことであれ、他人のことであれ、いずれにしても真実の審判者は私たち自身ではありません。

「(5節)ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」とパウロは言います。私たちにできることは、ただ神の奥義に、つまり救いの恵みそのものに感謝して誠実に生きることだけです。このような態度こそ、この世にあって神の国に生きている姿です。人を裁くという重荷から解放されている生活、そのすばらしさを私たちは本当に知っているでしょうか。私たちはすべてのものを与えられて生かされている者です。またすべての裁きからも解放されているのです。これが信仰生活の中味です。

 人を裁くことや批判すること、また自己批判すること、これらは人間としての自由ではありますが、究極の審判者はすべての物の与え主であり、委託者である神ご自身であることを忘れてはならないと思います。神を差し置いて自分を義とし、他を批判することは最も戒めなくてはならないことです。主が来られる時にはすべてが明らかになるのです。

 寒い冬を過ぎて季節は春を迎えました。春は主の復活を記念する喜びの時です。これからは復活についてのたくさんのみ言葉を味わう日々が待っています。しかしそれらの言葉だけでは主のよみがえりの事実を語り切れません。私たちの生活そのものが主の復活の事実に深く根差すことなしには私たちの信仰は成り立たないのです。この手紙を書いているパウロの支えもまた復活の主以外にはおられませんでした。主なるキリストがよみがえられなかったら、パウロのこのような力強い、神の奥義の管理者としての証しの生活などあるはずがなかったのです。
厳しい世界状況の中ですが、新しい週も、「既に来られ、今共におられ、いつか再び来られる」主なる神を信じ、主の平和を祈りながら生きてまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)