人間の不義

ローマの信徒への手紙1章18〜32節

 前回お話しした1章16〜17節には、この手紙全体のテーマが力強く語られていました。そこでパウロは「福音には神の義が啓示されている。」という大変重要な言葉を語っています。あらゆる物事は闇の中ではその真相がわかりませんが、福音という光に照らし出されることによって、すべては明らかになります。つまり人間の前では、私たちの魂の真の姿は意識されませんが、義なる神の前に立ってその聖く純粋な光に照らされた時、私たち人間の真の姿が明らかにされるのです。それは人間がどんなに義とほど遠い存在であるかということです。

 人間とはいったいどういう生き物なのでしょうか。過去の多くの戦争で何度も学んだはずですのに、今のこの時もロシアとウクライナの戦争が続いています。そしてこれはこの二ケ国だけの戦争ではなくて、世界中の国々が何らかの形で関わっています。人間が開発した科学技術によって、戦争の様子が逐一報道されていますが、殺されていく多くの兵士や市民たち、特に悲惨な女性や子供たちの姿に心を動かされない人はいないと思います。過去の体験を思い出して戦慄している方もおられるでしょう。この世界は今、本当に罪に満ちています。神は人間に「殺してはならない」と言われているのに堂々と殺人が行われ、「盗んではならない」と言われているのに自分のものにしていく侵略が行われているのです。当事者にとってはそれなりの理由があるのかもしれませんが、神が私たち人間に求めておられる姿でないことだけははっきりしています。

「福音には神の義が啓示されている。」その福音という神の義に対して、人間がとった態度、つまり人間の罪に対して「神は天から怒りを現わされます。」と語っています。「(18節)不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」神の目から見るなら、すべての人間は神の怒りのもとに置かれているのです。不信心とは言うまでもなく、神を神としない傲慢さであり、不義とは道徳的、倫理的に、人に対して愛と公正を欠いていることです。ですから、不信心も不義も、神の側から見て正しくないこと、神に対して不従順であることです。神を信じず神を崇めない、そのような人間に対して、神は怒りを現わすと言っているのです。

 ところが、いったい神が怒るとはどうしたことかと言って、このところで躓く人がおられます。人間関係で疲れ、怒りや不信感の中で何か宗教を信じてみようと教会に来たのに、聖書を読んだら神もまた怒ると書いてある。それで戸惑うわけです。神様は優しい愛のお方だと思っていたのに、期待が外れたと言うのです。人間が怒り易くて不寛容であるのは仕方がないとしても、そこから救われたいために聖書を読んだのに、神もまた怒るというのはどういうことなのかわからない。神であるならば、怒りというような人間的な感情を越えたお方であって欲しいわけです。

 では「怒る」ということはどういうことなのでしょうか。怒りは人格と人格の関係が分裂した状態です。すぐにかっとなって怒りっぽい人がいますが、そういう人間の感情表現は二の次のことであり、まず怒りというのは人格関係が破綻することです。神の怒りというのは単なる感情ではなく、人間の怒りのように不純なものではありません。人間が神の真実な愛に背いた時に、その背きに対する神の反応です。その反応というのは関係が壊れることです。その愛が信実であるならばどうしてもそうなります。どうでもよい人間関係であるならば、愛が裏切られることはないのです。信実に心から愛しあい信頼している人が背く時、これは見過ごすことはできません。真に愛し合い信頼し合っている人間関係は、一方の人によって関係が壊された場合には、もう一方の人はそれに対して嫌でも反応します。それが怒りなのです。

 神は人間にご自分を啓示されました。ですから、神がいかなるお方であるか人間は知ることができます。神は人の目には見えませんが、神が造られた被造物によって、神の力と御業ははっきりと認められ、人間は神の存在を認めざるを得ません。そのような神の恵みを人間が無視する時、神もまた人間を退けざるを得なくなるのです。これがとりもなおさず神の怒りなのです。

 ではまず、神はどのようにご自身を啓示されているのでしょうか。「(19〜20節)なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」

 例えば自然界を見渡せば、広大無辺な天体宇宙から、山や海の有様、動物や植物の世界、人間の身体の仕組み等々、あらゆるところに神の創造と無限の力を見ることができます。このことに関しては、人間はたとえ神を知らない人であっても弁解の余地はないのです。人間は命の源であり創造者である神に感謝をささげることが大切ではないでしょうか。キリスト教ではよく罪、罪というけれども、自分は特に何か罪を犯した覚えはないという方がおられますが、天地の創り主である神を神として崇めないということがすでに罪なのです。神として崇めてはいなくても、何か自力で解決できない問題を抱えている時や自分の身に危険が及んだ時、人は「神様、助けてください」と神を呼び求めます。すべての人間は誰でも神がどこかに存在していることを感じているのです。

 神から離れていることは不幸であり、それが罪の姿です。この神の無い状態から不法と不義が生じ、真理を阻む出来事が起こってくるのです。人間は誰でも神がおられること、神がいかなるお方であるのかを知ろうと思えば知ることができます。しかし、人間は神との関係を第一にしないで自分勝手な道を歩み、神の御心を無視して自分自身を神としてしまいました。人間は、神の啓示に対して固く心を閉ざして、感謝もしなければ賛美することもしなくなってしまったのです。これはまさに神を否定する心です。

「(21節)なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」食べ物であれ、自然の美しさであれ、そこに神の存在を認めて神に感謝しない人は、自分を神として生きていますから、高慢になって心がおごり高ぶってきます。そしてその人の思いは空しくなり、その無知な心は暗くなってしまうのです。

 ですから、人間的には立派で教養ある偉い人であっても、神に感謝もせず、神を賛美することもなければ、神の前では愚かな人に過ぎません。「(22節)自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり」とあるとおりです。神を知らなければ自分自身を正しく知ることもできないのです。神なき人間は、たとえ人間的には賢いと思われていても、本当は哀れな愚か者以外の何者でもありません。「(23節)滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」ここには、神を認めない人の心が暗くなっていき、その理解力もまた劣っていくことがわかります。つまり彼らは神の栄光を、人間や獣などの形に造った偶像に置き換えて支配していくのです。

 人間は自分が拝んでいるものに似たものになります。神を礼拝すればその人の心は高められ、神の御心に添ってきよめられていきますが、魂の無い死んだ像を拝めばその人の心は死んだものになります。動物を拝めばその人は動物のようになります。金や銀を拝めば、その人の心もまた金や銀のように冷たく固いものになってしまうでしょう。私たちの心は今、何を拝み、何に向かっているのでしょうか。

 そういう人間に対する神の怒りは、神が人間のすることをそのなすがままに「まかせられた」という言葉によってあらわされています。「(24〜28節)そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」人間はもし真の神を認めない時には、偶像を崇め、人間の快楽の奴隷になってしまうのです。

 24節26節に出て来る「まかせられた」という言葉、28節の「思いに渡され」という言葉(ギリシア語パラディドナイ)は、神が人間のすることをそのなすがままに任せられたということです。
 神が人間を勝手にさせ、なすがままに任せるというのは、真に恐ろしい罰です。これは決して人間が望んでいる自由なんかではありません。神の罰なのです。

 この個所をキェルケゴールは神と警官の例をあげて比較しています。警官は悪いことをした人間がいるとすぐに駆け付けます。そして逮捕してしまいます。しかし神は違うというのです。悪いことをしたからすぐに駆け付けるとは限らない、そのままじっと見ている所があるのだと。だから神は恐いと語っています。悪いことをしたら怒ってくれたり殴ってくれれば、気づくこともあります。まだ脈がある間は誰でもそうするでしょう。しかしいよいよ絶望した時にはほったらかしてしまうのではないでしょうか。もうどうにでもなれと匙を投げてしまうことになります。神の怒りの究極的なあらわれは、神が人間にまかせてしまうという態度です。

 こうして、人が神を認めようとしない時、人は義と不義を見分ける力をも失っていきます。「(29〜32節)あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

 ここにはいろいろの罪の姿が出てきます。これら一つひとつの説明は省きますが、これこそ人間の心とその生活に対する神の裁きではないでしょうか。ここに書かれているものの中で、たとえそのいくつかの罪を犯さなかった人であったとしても、それはただその時に守られていただけであって、人間は誰でもこれらの罪の芽を持っています。誰でもこれらの罪の性質を持って生きているのです。それが表面に出て来るか出て来ないかの違いです。私たちはこれらを避けようとしても、もし神を認めようとしない不信仰の心であれば、羅針盤を失った船のようなものですから、神の御心から離れて、これらの悪しき行為へと間違った方向にどこまでそれていくかわからないのです。

 人間は誰でも悪いことをしたり、罪を犯せば神の怒りが下されることを知っています。そしてこれらの御言葉から、すべての人が神の怒りのもとにあり、今は来たるべき神の裁きを待っている状態であることがわかってきました。ところが今は恵みの時であり、人間の不信心と不義に対して、正しい裁きを与える立場にある神が、それを猶予しておられる状態なのです。神の怒りが保留されているのです。つまり神は罪を憎んでおられますが、罪人である人間を心底愛しておられるからです。その大きな神の愛によって、私たち人間の救いが神の御子イエスの十字架によって成就したのです。この救いが福音です。悔い改めて真の神に立ち返るようにという神からの招きは、今もすべての人に向かってなされているのです。

 人間は神に背き、神をないがしろにしていることによって、神の裁きを受けることは当然ですが、今、神は、忍耐と寛容とをもって、人間が悔い改め、自発的に帰って来るのを待っておられる時なのです。何という感謝の時、恵みの時でしょうか。すべての人を招いておられる神の愛に心から感謝したいと思います。私たち一人ひとりに命を与え、救いを与え、その人生に意味を与えるお方は、世界の始まる前からおられた真理の主体である神以外にはおられません。この神を信じて生きることは人間にとって最高の幸福ではないでしょうか。

(牧師 常廣澄子)