開かれた門

ヨハネの黙示録 3章7〜13節

「ヨハネの黙示録」の著者ヨハネがアジアにある七つの教会に宛てて書き送った手紙の六番目は、フィラデルフィアの教会に書き送られたものです。これらの七つの教会は皆それぞれの教会が置かれている地名で呼ばれています。その中でもフィラデルフィアという名前は、アメリカに同じ名前の大都市がありますが、何か親しみ深い感じがします。

 フィラデルフィアというのは、聖書に基づいた名前です。フィルというのはギリシア語フィロー「愛する」から来ています。これにアデルフォス「兄弟」という言葉を加えて、少し形が変わってフィラデルフィアとなったのです。つまりこれは兄弟を愛すること、兄弟姉妹の愛を表しています。教会はその精神が形になっている所ですから、教会そのものを指していると言っても過言ではありません。

 そのように、フィラデルフィアはそれ自体で既に教会の名前のように思われますが、まだ教会は生まれて間もない頃で、フィラデルフィアというのは以前からあった地名です。ここは先日お話ししたサルディスの町からさらに南東に行ったところにあります。この町は紀元前二世紀にペルガモン王国のアッタロス二世という王様によって造られたと言われています。アッタロス王は、兄である王が亡くなったので弟である自分が王位についたのですが、亡くなったお兄さんをとても愛していたそうです。世の中には仲の良い兄弟が多いですが、アッタロスがお兄さんに対して抱いていた愛情は普通以上でした。そのために人々が「お兄さんを愛する王様」と呼んだらしいのです。そういう「兄を愛する王が造った町」というので、フィラデルフィアという名前になったのだと言われています。

 時を経て、そこにキリストの教会ができ、肉親の兄弟姉妹だけでなく、今日会ったばかりの人であろうと、どこの国の誰であろうと、皆が主にある一つの教会の交わりに生きるようになるというのは、本当に名前にふさわしいと思います。また、今まで見てきた手紙の中では、「あなたがたのこういうところは良いが、これこれの点で責むべきことがある」というように、それぞれの教会に対して厳しい言葉が告げられてきましたが、このフィラデルフィアの教会に対しては、非難する言葉が見つかりません。つまりここにある教会は良い教会だと評価されているのです。

 これらの七つの手紙が書かれた頃は、キリスト教はまだ今のような安定した形にはなっていません。ユダヤ人たちが集まる会堂を使いながら、イエス・キリストの説いた福音を信じている小さな群れでした。一種の新興宗教のようなものだったのです。会堂に出入りする人たちは当然ユダヤ教の信仰を持っているユダヤ人たちです。彼らは、今私たちが旧約聖書と呼んでいるヘブライ語聖書で養われ、自分たちは神が選ばれた民、聖書の神の信仰に生きている者だと自負しています。ですから、そこにいるキリストを信じる者たちに対しては批判的でした。当時、キリストを信じる者たちは彼らから侮られ、斥けられ、いろんな嫌がらせを受けていたのです。

 そのような立場に置かれていたフィラデルフィアの教会の人たちに対して、「(7節)聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」が語られたのです。聖なる方とは何よりも神ご自身のことです。真実な方とは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われたイエスを思い起こします。ここには威厳に満ち、聖なる真実の神のお姿がありますが、大切なのは、それが言葉だけではなく、実際に人間の歴史の中で生きられたお方だということです。またこのお方は「ダビデの鍵」を持っておられます。1章17-18節で「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」というように自己紹介された方でもあります。

 ここでは「ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。」と語られています。このお方が開ければ誰も閉じることができず、この方が閉めればもう誰も開けることができないということは、その鍵を持つお方は、決定的な権威ある働きをなさるお方だということです。これはイザヤ書22章22節の言葉「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。」を反映していると考えられます。

 預言者イザヤは、ユダ国の運命をヒルキヤの子エルヤキムに託してそのように告げました。国を支配しているダビデ王家の管理権、その実権が与えられたということから敷衍して、「ダビデの鍵を持つ」ということは、救いと滅びを司る最高の決定権を持つ方であるという意味があるのです。つまり、神の子キリストは、聖なるお方、真実なお方であり、間違いなく神のご支配を確立してくださるお方であると語っているのです。

 そのお方が語られます。「(8節)わたしはあなたの行いを知っている。」フィラデルフィア教会の人たちが周囲の人たちからその信仰を非難され、信仰そのものを否定されるような状況にあるにも関わらず、その信仰を曲げることも捨てることもせず、ひたすら忍耐していることをご存じなのです。このような語り掛けを聞いたフィラデルフィア教会の人たちは、どんなに大きな慰めや励ましを受けたことでしょうか。

「わたしはあなたの行いを知っている」と言われるお方の前では、すべてが明らかです。私たちは自分のことをよく知っている人たちの中にいる時は、解放されて楽に過ごせますが、本当の自分を隠してごまかしながら生きていくとしたら、緊張と気疲れで消耗してしまいます。今日の社会では実に多くの人が疲れ果てています。それは日々目まぐるしく働き、真実の自分を出さずに表面的な付き合いで気を使っているからです。「わたしはあなたの行いを知っている」と言われるお方、すべてのことをご存じのお方の前で生きる時に本当の平安があります。「(10節)あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」キリストを信じる者にはいつも主の守りがあります。たとえ立ちすくむほどの恐ろしい状況の中でも、私を守ってくださるお方がおられるのです。

「(8節続き)見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」主イエスはいつも私たちの前に門を開いて待っておられます。主イエスが門を開いてくださったから、私たちは導かれてキリストを信じる者とされたのです。毎日の生活でもそうです。主が先だって進まれています。私たちの前には開かれた門があるのです。そしてこの門はやがてくる神の都、新しいエルサレムに至る門です。この先の21章1〜4節にはこのように書かれています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」

 さらに「(8節続き)あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」とあります。今の私たちもそうですが、当時のクリスチャンたちは本当に小さな(ミクロス)群れでした。圧倒的な力があるこの世の多くの人たちの中にあっては、すぐに倒され、消されてしまうような存在です。ユダヤ人たちから迫害を受けているような状況にあっては、オオカミの中にいる子羊のような存在に過ぎなかったことでしょう。しかし彼らはその小ささと弱さを恥じたり動じることなく、信仰の言葉を守り、救い主の名を告白していたのです。

 彼らは、ここにこそ本当の救いがあると福音を信じてクリスチャンになった人たちです。イエス・キリストこそがこの世においでくださった神の御子であり、聖書で教えられている律法や信仰の完成者、その成就者であられるお方だと信じて従っているのに、お前たちが信じている教えは邪道だ、自分たちこそが真のユダヤ人であり、お前たちは偽りものだ、と言われていたのです。しかしフィラデルフィア教会の人たちはどんなに嫌われ、悪意を持たれ、その信仰が脅されても、力がなかったけれども、神の言葉をもって立ち向かっていったのだと思います。

 9節に「見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。」とあります。「サタンの集い」というのは、「サタンのシナゴーグ(会堂、集まり)」という意味です。ユダヤ人は本来は神に選ばれた民であり、聖書の神に忠実に生きていたのですが、今はキリスト者に対する憎しみを抱いて、悪魔に心を奪われてしまったような人たちになっていました。キリストを信じた者は彼らと闘わねばならなかったのです。このところでは、実際は彼らがユダヤ人たちから偽り者呼ばわりされていましたが、あのユダヤ人たちこそ偽り者のユダヤ人なのだ、彼らこそがサタンの会堂に属する者なのであって、あなたたちはそうではないと励ましているのです。

 そして勝利の日が預言されています。「(9節)見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。」いまはユダヤ人たちがキリスト者を迫害していますが、やがてユダヤ人たちがあなた方の足元に屈服し、ひれ伏して降参する時が来る、あなた方に勝利の時が来るという預言です。今は弱いけれども神の愛をもって勝利する時が来るというのです。私たちはいと小さく弱い者ですが、神は私たちを愛してイエスを送ってくださいました。そして神の愛が罪と死に勝利したのです。彼らがひれ伏すのは神の足元です。ここで「あなたの足もと」となっているのは、私たちが神の宮の柱になっているからです。

 このお方を信じることによって、私たちはあらゆる誘惑や試練を乗り越えることができるようになります。そしてこのような約束をしてくださいます。「(12節)勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。」ペトロの手紙一2章5節では、私たちは神殿を作る一つひとつの生きた石だと言われていました。しかしここでは神殿の柱にすると言われています。柱が無くては神殿を建てることはできません。そのような大切な柱、神の神殿を建てるのに無くてはならないものにしてくださるというのです。つまり、私たちを神殿の柱にして、そこに神が住んでくださるということです。

 教会は経済力や人数が多ければできあがるものではありません。真の神を信じる信仰によるのです。教会は一人ひとりの純粋な信仰告白があって、それが柱となって建てられていきます。そうでないなら、見かけは良くても中味の無い教会になってしまいます。そのような空洞化した教会はやがて崩壊してしまいます。また柱には神の名が記され、新しいエルサレムの名、新しい主の名が書かれると言われています。私たちが自分の持ち物に名前を書くと、それを見た人は持ち主が誰かわかります。つまり、主なる神がご自分の名前を書いてくださるということは、私たちがキリストのものであるということです。私たちはもう誰にも奪われません。キリストが「あなたはわたしのものだ」と明らかにしてくださるからです。神を信じる者は、考えられないくらい栄光あるものなのです。

 フィラデルフィアの教会の人たちの信仰の姿から、神の名を否まず、信仰の闘いにひるまない立派な信仰の勇者を思い浮かべるかもしれませんが、私たちは今、私たちが置かれている生活の場で、このような生き方が求められていることをしっかりと覚えたいと思います。

(牧師 常廣澄子)