心に施された割礼

2022年8月21日 主日礼拝

ローマの信徒への手紙 2章17~29節
牧師 常廣澄子

 私たちが今読んでいる聖書は、旧約聖書と新約聖書とを合わせて一つにまとめられていますが、旧約聖書(ヘブライ語聖書)には、律法という人間に対する神の約束ごとがいろいろ書かれています。神はユダヤ人にはご自分の御心を示すために律法をお与えになったのです。そして、異邦人には被造物を通してご自身を現わされました。神を知りたいと思うならば自然界のあまたの被造物を通して神を知ることができるというわけです。それだけでなく、先日お話ししましたように、神は律法を持たない異邦人には、一人ひとりの心に良心というものを置かれました。そのように人間が神を求め、神を知ろうと思うならば、誰でも神を知ることができるのです。神が近づいてきてくださいます。しかし現代社会に生きる私たち人間は、あまりにも科学技術が進み、知識や能力が高くなってきたために、残念ながら多くの人は神という存在を求めたり、神を知ろうとしなくなっているのが現状ではないでしょうか。

 では今朝の御言葉から、パウロが語っていることを見ていきましょう。当時、神に選ばれた民という選民意識に驕り高ぶっていたユダヤ教徒の不当な態度を見ていたパウロは、ここからははっきりとユダヤ人と名指しで呼び、激しく追及の言葉を語っています。ユダヤ人は神に選ばれて律法(旧約聖書:ヘブライ語聖書)が与えられましたから、彼らはそこに書かれている御言葉を通して神の御心を知ることができました。神の言葉を通してユダヤ人は自分たちが成すべきことが何であるか正しくわきまえることができたのです。

 さらにユダヤ人は「(19-20節)また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」とあるように、自分たちは「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師」として召されているのだと自負していたのです。しかしこれは神がユダヤ人がほかの民よりも素晴らしく偉大であったから選んでそのような役割を担わせたのではありません。弱く小さな民であったユダヤ人を格別に愛されたからに他なりません。しかしユダヤ人だけを特別に祝福するためではなく、彼らを通して多くの民族、世界中の人々を祝福するためにユダヤ人を選ばれたのです。

 では、そのようにして選ばれたユダヤ人は、神から与えられた律法という賜物をどのように用いたのでしょうか。残念なことに、彼らは神の御心を知っていながらそれを行わずに人を教えながら自分自身の姿には盲目だったのです。他人に対してはこういうことはしてはいけないと教えながら、自分たちは間違ったことを平気でしていたわけです。自分たちに与えられた律法を誇りにしながらも、実際は、神のみ名を汚していたのです。形式的に律法を守り、神の選びは自分たちの上にあると思い誤ると、聖なる神の御心を示す御言葉が、鼻持ちならない高ぶりの根拠になってしまったのです。つまりユダヤ人の信仰の特徴は、本当にへりくだって神をほめたたえているのではなく。自分たちは神から選ばれた民であるということを誇る行為にあったのです。

 神はユダヤ人に多くの物を委ねたのですが、その信頼にもかかわらず、自分たちは神に選ばれた民であることを誇り高ぶって、異邦人を見下していました。ユダヤ人は異邦人の神殿から金銀や宝石で作られたものをかすめ取り、それを自分のものとしたりしたので、そのことも非難しておられるのです。21-22節にそのことが書かれています。

 イエスは、人々に神の国の福音をお語りになられながら、自分を義として他人を裁いているファリサイ派的な人たちに対して、真っ向から対決なさいました。また、イエスはいろいろな出来事を通して、すべての人間は皆、誰でも、等しく神の前にはみじめで憐れむべき存在であること、神の前での自分のほんとうの姿に心の目が開かれるようにとの願いを持って救いをお語りになりました。

例えば、徴税人とファリサイ派の人とが神殿で祈る時の様子を譬えで話されましたが(ルカによる福音書18章9-14節参照)、この話を通して、かたくななユダヤ人の心の目を開こうとなさったのです。つまり自分を正しい人間だとうぬぼれている高慢なファリサイ派の人の態度や祈りは主によって裁かれ、反対に自分の胸を打ちたたいて神の前に立ち、「罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人は主の憐みを受けて、義とされて家に帰ったのです。

 また、イエスは礼服を着ないで結婚式にやってきた男の譬えを話されました(マタイによる福音書22章1-14節参照)。その男は自分はそのままで十分正しい、義なる者であるという高慢な心でやってきたので、結婚式場から追い払われてしまったのです。これらの譬え話からは、自分を義とする者は、神の前ではどんなに傲慢な者であるかを知ることができます。

 ところで、自分を正しい者、義なる者であるという者は、得てして神について何も知らない者ではなく、多くのことを知っている者です。17-18節には「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」とあります。自分を義とする者は18節にあるように、なすべきことが何であるかを律法によって教えられているのです。ユダヤ人は他人を見て批判し裁くことはしましたが、自分自身を吟味することをしなかったのです。これが自分を義とする者の陥り易いところです。自分を義とする人は、すべてのことを良く知っていて、神が人間に何を期待しておられるか知っていますから、他の人々を教えたり、他の人々を戒しめたりすることに熱心です。しかしそれが自分自身には適応されなかったのです。つまり本当に大切なことは、御心を学びただ知るだけでは十分ではないということ、神の御心を行うことこそが大切なのです。

 そういうユダヤ人の態度に対して神はどのように語っておられるのでしょうか。神によれば、人間は罪の清算が成されないならば、誰一人神の前に立つことができず、義と認められることはないのです。そこでパウロは、ユダヤ人から彼らが持っている最大の誇りである選民意識と高慢な心を打ち砕くために、ユダヤ人と異邦人の区別を示す、割礼というものによって、このことを解き明かしていくのです。

「(25-27節)あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。」

 この割礼というのは、男子が生まれたら生後八日目に男性器官の包皮の一部を切り取る儀式で、モーセの頃から始まりました(レビ記12章3節、ヨハネによる福音書7章22-23節参照)。割礼は神とイスラエルの民と契約を交わしたしるしを意味するものです。つまり当時は、割礼を受けた者が神の民に属し、割礼を受けていない者は神の民ではないとされていたのです。

 しかし、割礼が真に意味するところは、自分自身の思いや考えを捨てて、主の御心と戒めに従って生きていくことです。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受けたのです。」とコロサイの信徒への手紙2章11節にあります。神は人の外側をご覧になるのではなく、常にその人の心を見ておられます。別の言葉で言うなら、主の御心に従って従順に生きる者は、心の割礼を受けていると言えるのです。外見上で主の民に属する形に価値があるのではなく、内面的に真に主の御心にかなった歩みをすることこそが、本当の意味で神の民に属する者、心の割礼を受けた者です。これはとりもなおさず、自らに死ぬことです。ですから「キリストの割礼」とはイエスと共に死に、そのことによってイエスのよみがえりの命があふれ出ることを意味しているのです。

 パウロは外見上の割礼と心の割礼について述べています。つまり、どういう人が外見上で神の民に属し、どういう人が本当に神の民に属するかということが明らかにされています。

「(28-29節)外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」言い換えれば、中味がなければ、外側の形や姿には何の意味もなく、何の価値もないということです。

 ですから本当のユダヤ人とは、心に割礼を受けた者です。本当のユダヤ人、すなわち、主の御心にかなった歩みをする者とは、自分を無にして、すべてを主に委ね、主にその心を明け渡した者に他なりません。これは先に述べた自分を義とする者とは正反対の者です。自分を義とする者は心の割礼を受けていませんし、新しい生まれ変わりも体験していないのです。

 当時ローマ帝国には主を信じたユダヤ人の方が異邦人からの改宗者よりも多かったと考えられています。しかしユダヤ人たちはキリストを信じてからも、自分がユダヤ人であること、すなわち神から選ばれた民であることに誇りと自信を持ち、意識過剰であったため、神の前に心が砕かれて神に喜ばれる霊的な成長はなかなか難しかったようです。それは、今日の私たちも同様ではないでしょうか。キリストの救いを信じてクリスチャンになっても、神の御心よりも自分の思いを優先して人を裁き、霊的成長はきわめて遅いのです。パウロがこの手紙を通して、切に望んでいることは、ローマのキリスト者が神の御心を正しく受け止めて謙虚な信者となることでした。

 パウロはキリストを信じながらも自らを義とし、自らを誇る者がいることを憂えて力強く語っているのです。彼らは確かに聖書の知識は持っていましたが、形だけは整っていても中味がなかったのです。そういう彼らが「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師」だと自認しているのは本末転倒です。イエスご自身もまたそのような者を警戒しておられました。

 私たちは、今では被造物や良心によってのみならず、御言葉によって主を知ることができます。さらに私たちには神の言葉である律法だけでなく、主イエスご自身を与えられました。イエスによって救いが成就され、私たちはあらゆる罪や債務から解放され、神によって聖い者とされているのです。そのような大きな神の愛に対して私たちはいったい何ができるでしょうか。イエスに対する知識が私たちを救うのではないのです。ただ一つのこと、すなわちイエスを心に受け入れることが私を救い、義としてくれるのです。これこそが主イエスの割礼を受けることです。

 この個所に出て来るユダヤ人というところに、「キリスト者」という言葉を置き換えてみると、今まで語ってきたことが生き生きしたものになります。多くの人が自らクリスチャンとなったことを喜び感謝しています。しかし私たちはさらに深く主を知り、主の謙遜さに学び続けなければなりません。なぜならば、主は謙遜な者に恵みを施されるからです。

 この個所から明らかなことは、人は外側を見るのに対して、主は内側、すなわち心の奥底をご覧になるということです。ですから、自分が本当に主によって新しく造りかえられた者になっているかどうかが大きな問題です。主イエスは新しい命を受けるようにと今日も私たちにこの素晴らしい贈り物を提供しておられるのです。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)

 新しい週がはじまりました。社会状況も新型コロナ感染状況も落ち着きませんが、私たちはどんな時も主が伴っていてくださるという平安があることを感謝して歩んでまいりたいと思います。

(牧師 常廣澄子)