買い取られた者

2022年10月16日 主日礼拝

コリントの信徒への手紙一 7章17~24節
牧師 常廣澄子

 コリントの信徒への手紙一の7章には、結婚や離婚という男女の問題や、さらには独身問題について書かれています。これは7章1節に「そちらから書いてよこしたことについて言えば」という表現があることからもおわかりのように、コリント教会から何か質問を受けたようで、それに対して答える形で語られています。

 確かにこのところはコリント教会からの質問事項に対する答えなのですが、その前の部分に書かれていることと無関係ではありません。5章に書かれている「不品行」の問題、6章で取り上げられている「身体」や「性欲」の問題等は、結婚や離婚、独身でいること等の問題と密接に結びついています。パウロはコリント教会からの質問に答えるにあたってこれらのことも考えに入れていたと思います。

 パウロはこのところでは大変慎重に語っています。10節では「こう命じるのは、わたしではなく、主です。」と語っていますし、また今日お読みした個所のすぐ後の25節では「わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。」というように主の指示を受けて語っていること、つまり主のご命令として絶対的な力を持つ事柄と、そうではなくてパウロ個人の意見として、参考にする程度にとどまる事柄とを区別しているのです。これは、この問題が個々人にとって大変大事な意味深い事柄であり、パウロ自身、軽率に対応する事柄ではなく、慎重でなければならないと思っていることがよくわかります。

 けれどもここで注意したいのは、パウロが言う「主の指示」と「自分の意見」という二つの考えがあるということではありません。最終的にはこの二つの考えは統一されているのです。それは例えば、40節にある「しかし、私の考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。」のような表現に示されています。つまり、ここではパウロの意見が述べられているのですが、それは単にパウロ個人の意見であるだけでなく、「神の霊」の導きを受けた者の意見として捉えられているのです。そういう意味で「主の指示」との間に統一があるわけです。パウロが自分の意見を言う時、とても大胆でしかも強い確信を持って言えるのは「主の霊」が伴っているという自覚があったからだと思います。

 このようにパウロは大胆さと慎重さの両面を持っていましたが、それは単に言葉の上でのことだけでなく、内容についても言えるのです。パウロは独身や結婚や離婚等の事柄に対して極めて慎重に語っているのですが、その時に何よりもパウロの心にあったのは、人間性への配慮でした。結婚を肯定するパウロの態度は、主のご命令であると同時に人間性への深い配慮から来ています。また独身に関してパウロは自分の考えを述べていますが、それは「神の霊を受けている者」としての大胆さで語っているのです。

 そういう話の流れの中で、今朝お読みいただいた17節から24節のところを見ますと、少し話が違っています。ここには直接的にはそういう話題に関わることが書いてないのです。ここには、一人ひとりの人間が置かれている立場について書かれているのです。

 7章を始めからずっと読んで来ますと、パウロが言っていることは、何か歯切れが悪いように思われないでしょうか。結婚した方が良いのか悪いのか、離婚は絶対いけないのか、そうでないのか、独身が良いのか、どの問題に対してもあまりはっきりした答えのようなものは書いてありません。「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません(6節)。」などを読みますと、何か言い訳がましく聞こえてしまいます。一つひとつの事柄についてはもっと細かい説明が欲しいところですが、それよりもこういう問題についての基本的な考え方を聞きたいと思うのではないでしょうか。

 そういう願いに対して、この17節から24節のところには、まさにその基本的な事が語られているのです。それは男と女の問題に限られるのではなく、人間がこの世で生きていく生活のあり方そのものに関する事です。今、自分が生きていること、一人ひとりが置かれているその立場のこと、それは何に基づいているのかということです。

 私たちは皆それぞれがそれぞれの生き方をしています。では今自分がこのようにここに置かれているのはどういう理由によるのでしょうか。自分が希望したからでしょうか、成り行きでしょうか。偶然の結果なのでしょうか。自分が希望して計画して、思い通りに生きている人はどれだけいるでしょうか。大部分の方は、今、このように生きているのはまったく思いがけないことでした、と言うのではないでしょうか。自分が願ったことではなく、その時その時のどうにもならない力で動かされて今の自分があるのだ、と思っている人が多いのではないでしょうか。

 たとえ自分が願うような形にしたいと思ったとしても、それがどれだけ叶えられるでしょうか。確かにああする道もあったし、こうする道もあったかもしれない。しかし結局どれも同じことで、これでなくてはならないこと等ないのではないだろうか。いつの時代でも人間は自分の生き方についていろいろ考えます。結婚したことがよかったのだろうか、独身でいた方がよかったのだろうか、悩みます。そういう私たちの人生について、神の御心はいったいどこにあるのでしょうか。

 そういうことに加えて、この当時の信仰者にとっては、もう一つ深刻な問題がありました。それは割礼の問題です。イエスを信じる者になっても、ユダヤ人として割礼を受けなければならないのか、あるいはむしろ割礼のあとを無くしてしまった方が良いのか、という問題です。これらはユダヤ教、キリスト教という信仰に関係があることです。従って救いに関係しています。たぶんこのことは先ほどから語られている結婚や離婚や独身問題よりも重要なことであったに違いありません。

 神はこういう問題について、どのような御心を示されているのでしょうか。その答えが17節「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」です。そして「これは、すべての教会でわたしが命じていることです。」と言われています。つまりすべての立場にいる者に与えられた道なのです。

 ここには大事なこと二つ書かれています。一つは「おのおの主から分け与えられた分に応じ」ということで、もう一つは「神に召されたときの身分のままで」ということです。聖書の中では「召される」というのはとても大切な言葉です。「召される」というのは、神が私たちをお呼びになるということで、ご自分のものになさるということです。ですから「召される」というのは神のものになることなのです。

 昨日、岩﨑定良さんの告別式で、「主に結ばれる者」と題してまことのぶどうの木につながる私たちの信仰についてお話ししました。この「主に結ばれている者」というのが、ここで言われている「召されて神のものになっている者」のことです。

 では反対に、神に召されていないなら(神を信じていないなら)、私たちは誰のものでしょうか。「自分は自分のものだ」と思っているかもしれません。しかし、ほんとうにそう言って大丈夫でしょうか。確かに自分は自分のものに違いありませんが、自分がいかに頼りないものであるかは、自分が一番わかっているはずです。物事の判断をする時、大事な決心をする時、自分がどこに立って考えるべきか、わからなくなる時があります。自分で自分の置かれている立場がはっきりわからず、定まっていないからです。親に相談したり、友に相談したりして何とか生きていくわけですが、結局自分がだれのものかわからないからさまよっている状況です。

 そういう人間が「神に召されて神のものとなる」ということが神の救いです。神のものとされたのですから、そこを足場にして生きていくことができます。もうあちこちさまよわなくて良いのです。自分は「神に召されて神のものとされている」そういう立場を与えられたのです。不安定な人生、足場のない生き方ではなく、神が召してくださり、神が必要としてくださる人間としてのしっかりした立場があるのです。そういう人間の立場が分かってきますと、19節の「 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。」ということが分かって来るのではないでしょうか。

 しかしながら「割礼があってもなくてもよい」と気易く言えるのは、それが私たちには関係ないからです。当時のユダヤ社会では大変な事でした。割礼が無ければ神の民となみなされなかったのです。イスラエルの民とは認められなかったのです。それはつまり神に救われていないということでした。割礼は神が召してくださったしるしであって、それこそが救いのしるしだったのです。

 しかしそこで大切なのが、神に召されるということです。割礼というのは、ただ身体のしるしでしかありません。大切なのはその人が神のものとされているかどうかです。真の割礼、心の割礼を受けることこそが大事なのです。それは今の時代ではバプテスマを受けることにあたるでしょう。それはその人が召されて神のものになったということです。今、その人は神に属しているのです。自分がどこにいるのかわからないような不安定な状態でいた人が神のものとされる、これは本当の人間のあり方にもどったことです。しっかりしたまことのぶどうの木につながったということです。

 そこで、これからどう生きていくかが問題です。神のみ心に聞きながら生きていくことです。これは神に造られた人間としては当たり前のことですが、今の時代、それは当たり前でなくなってきました。神の戒めを守ることはあまり楽しいことだと思われないからです。しかし召された私たちは神のなさることを喜び、戒めを守ろうと努めます。信じる者にとっては、神の戒めを守ることは神を讃えることにつながり、生きる喜びになるのです。

 さて、このように割礼の有無は関係ないということがわかりましたが、それと同様に、この後には奴隷であっても自由人であっても何の違いもないということが語られています。なぜならば皆同じように神のものだからです。どういう立場であろうと、人間としての値打ちには何も変わりがないということです。

 こういう考えも、今の時代に信仰を持った私たちには当然のことですが、まだ奴隷制があった当時の社会では、奴隷と自由人は全く違う身分でしたから、ここで言われているように、奴隷も自由人も皆同じであると言うのは、全く驚くべきことで考えられないことでした。ではどうしてそう言えるのでしょうか。それはどの人間もキリストに救われたならば神のもの、すなわちキリストの奴隷だからです。私たち一人ひとりは皆キリストの奴隷、神の奴隷になったのです。

 パウロはここで信仰の大事な奥義を語っています。「(23節)あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」身代金を払って買い取られたというのは、身代金を払って買い取られなければならないような状態にあったということです。つまり神から離れていた人間のことです。自由に生きているつもりでも実は罪の奴隷でした。従って身代金を払って買い取られないと自由になれなかったのです。ではその身代金とは何でしょうか。それはキリストの死と復活です。人間はそれを払わないなら(キリストの死と復活を信じないなら)罪の奴隷から神の奴隷、神のものになることはできないのです。キリストに救われて神の奴隷になったときに、その人は初めて誰の奴隷でもない自由人になることができるのです。

(牧師 常廣澄子)