大いなる日が来る

2022年12月4日(主日)
主日礼拝『 待降節第二主日・主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 6章1~17節
牧師 常廣澄子

 ヨハネの黙示録は、著者ヨハネを通して示された幻が書かれています。この幻は神から与えられた啓示ともいうことができます。しかしこの幻は大変奇妙で不思議な幻ですので、書かれたものを読んだだけではなかなか理解できません。いや、見方を変えれば、理解できないように書かれていると言った方が良いかもしれません。

 さて前回は、御座におられる方の右手にある巻物を受け取って、その封印を解くことのできる者がこの世界のどこにもいないという絶望的状況の中で、激しく泣いているヨハネの姿がありました。それに対して長老の一人が「泣くな」と言って、唯一この巻物を解く資格と力を持っているお方、ほふられた小羊がおられることを示してくれました。この「ほふられたような小羊」(5章6節)とは、もう既にお分かりのように、神から離れていた人間を愛し、何とかして彼らを罪から救いだそうとご自身をいけにえとしてささげられたお方、イエス・キリストの姿です。預言者イザヤが「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(イザヤ書53章2節)と語っているように、威厳に満ちた輝く王者の姿ではなく、そのような資格や力があるとは全く思えないような「ほふられた小羊」のみじめな姿でした。しかしその小羊が行動を開始したのが今朝のみ言葉です。

 小羊は御座に座っておられる方からその巻物を受け取ると、一つずつ開いていきます。ここは天の大法廷です。ここからは巻物に書いてあることが読み上げられ、審きが始まるのです。4章で見て来ましたように、天には玉座があり、そこに座っておられる方の周りには二十四の座があって二十四人の長老が座っています。またその周りには四つの生き物がいました。この生き物は玉座の警護役かもしれませんが、ここでは呼び出し役として働いています。「(1節)また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。」「出て来い」という召喚状が発せられますと、次々と登場してくる者たちがいるのですが、ここで大変興味深いのは白や赤や黒、そして青白いというようにいろいろな色の馬が出てくるのです。

 黙示録の幻の背景には、旧約聖書の預言者たちの思想や信仰があることはよく知られているのですが、例えばこの個所からは、ゼカリヤ書の1章や6章に出てくる描写が思い起こされます。ゼカリヤ書ではこれらは天の四方に向かう風だと書かれていますが、白や赤や黒などの色や馬が出てくることでは、大変よく似ている幻です。

 まず最初に現れたのは白い馬です。「(2節)そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。」この白い馬に乗っている者は、弓を持っています。弓は相手を倒すためです。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出ていきました。これは災いに先立ってキリストの勝利が約束されているのだと読むこともできますが、弓という武器を持っていることは災いでもありますから、災いが勝利するのは変かもしれません。幻はこれはこういうことだと断定することは避けなければなりません。

 次に小羊が第二の封印を開き、第二の生き物が「出て来い」と言うと「(4節)すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。」赤い馬に乗っている者は戦争を表しているようです。私たちが住むこの世界は、今本当に恐ろしい時代になっています。戦争の世紀だと言われた20世紀が終わり、21世紀は平和な世界になるかと思っていましたが、全く逆です。今、世界は至る所で争いに満ちています。地上から平和が奪われているのです。

 第三の封印が開かれ、第三の生き物が「出て来い」と言うと、「(5節)そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。」秤はものを測る道具です。黒い馬は正確な測量をするために、正しい尺度で考えるように促すためにやってきたようです。「(6節) わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。『小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。』」一コイニクスは一人分の一日の食料で、一デナリオンは一日働いて得られる賃金です。一日働いた賃金が一人分の食費にしかならないのです。家畜のえさとされていた大麦でさえ、高騰しています。黒い馬に乗った者は飢饉を表しているようです。

 さて第四の封印が解かれると、「(8節)そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。」青白い馬にのっている者は「死」という名でした。この者は死の宣告をして執行する権威を持ち、それに陰府が従っていました。つまり陰府に引き渡す力を持っているのです。

 このように小羊によって封印が次々と開かれていきます。今日は12月の第一主日ですから、後ほぼ一か月で2022年も終わりとなります。今年は私たちにとってどういう年であったのでしょうか。ヨハネによる福音書12章31節には「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。」とありますが、この世界には神の裁きが始まっているのではないかと思わせられます。

 神の裁きは既にキリストの十字架と共に始まっています。今私たちは地上に生きていますから、この世の現実をしっかり見定めなければなりません。主を信じる者は、現実を冷静に生きる中で神のご支配を見ていくのです。滅びつつある社会の中にあってもなお神の救いの計画を見ていくのです。今、この世界の状況は大変厳しくて、各地に世の終わりだと思えるような出来事も起こっています。そういうことはこれからますます多く厳しくなっていくでしょう。

 しかしそういう現象におびえることはありません。私たちは生ける主を信じる信仰に生かされているのです。私たちが恐れなければならないのは、神が裁き給うお方だということです。このことをはっきりわきまえていないとイエスの十字架はわかりません。イエスは処刑されたのです。イエスは私たちの代わりに裁かれたのです。玉座におられるお方ご自身が宣告された刑罰を、何とご自身の御子が引き受けられたのです。それは、このお方によって私たちが救われて生きていくためです。すなわちパウロによれば、私たちを苦しめる裁きの罪状書きが破棄されたということなのです。

 さて第五の封印が解かれました。「(9節)小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。」この巻物は今までの四つとは少し違うようです。封印が解かれて明らかにされたのは、これまでに神を信じてそのことを証ししたが故に殺された人々、数え切れない多くの殉教者たちの魂でした。この人たちは今祭壇の下にいるのです。この祭壇とは何でしょうか。旧約時代、神殿では小羊の血を注ぐ祭壇がありました。神の怒りをなだめるために、また民の不義と罪を贖うためのいけにえとしてささげられた小羊の血が注がれるところが祭壇でした。いま彼らの魂が祭壇の下にいるのは、これらの殉教者たちに先立ってほふられたお方、神の小羊イエスの血が注がれた祭壇にも通じているのです。

「(10-11節)彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。」彼らが叫んでいるのは、「主よ、すみやかに裁きをなして、私たちの流した血の報復をしてください。」と待望している姿です。人は苦しみに遭った時、叫ばずにはいられません。泣き叫びながら神の義という正義がなされることを求め続けているのです。それに対して彼らに対する慰めと約束とも言える二つのことが告げられています。一つは「その一人一人に、白い衣が与えられた」ということです。これはキリストの血によって白くされた衣です。彼らの叫びをキリストが受け取ってくださった、わたしに任せなさいと言われたということです。それは大きな慰めです。

 もう一つは「なおしばらく静かに待つように告げられた」ということです。これは単なる休みではなく、静かな平安に満ちた安息を意味する言葉です。激しく叫び求めている者たちに対して、静かに待ちなさい、まだ地上では信仰の戦いが続き、事柄は決着していないけれども、既に確定しているのだと。救い主が来てくださったことによって、神の介入はもうすでに始められているのだと告げているのです。白い衣が与えられ、しばらく静かに待っていなさいと言われることの背後には、神がきちんと責任をもって決着をつけてくださるという約束があります。神の救いの業には不充分な所はありません。神の救いは未完成では終わらないのです。

 人々の叫びに応えるかのように、12節以下には第六の封印が解かれた時の様子が出てきます。神と小羊の怒りの大いなる日の幻が示されたのです。太陽が暗くなり、月が血のようになって星は地上に落ちてくる、また天が巻物を巻き取るように消え去ってしまう、山も島もその場所から移される、実に恐ろしい有様です。私たちは普段大地は動かないものだと思っています。「地に足を付けて」とか「母なる大地」とかの言葉にもありますように、大地は確かなもの、安心できるものだと考えています。また、太陽も月も星も規則正しく天空を動くものだと思っています。私たちは、人間がどう変わろうとも、季節が巡り、自然が静かにそこにあるということに慰めを受けています。しかし、これらがすべて崩れ去る時が来るのだと幻は告げているのです。

 17節にある「神と小羊の怒りの大いなる日」が来ることは、古い時代から預言者たちが「主の日が来る」ということで示してきたことです(イザヤ書13章9-10節、ヨエル書2章10節、3章4節等参照)。その日にはこの世の権力者も王もあらゆる階層の者がこの大いなる裁きから逃れ得ないことが15節に書かれています。彼らはこの世では成功者、勝利者ですから、自分の力で何でもできると思っていますが、この時は地位も力も何の役にもたちません。何とかこの恐ろしい出来事から逃れようと洞穴や山の岩間に隠れます。そして山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言うのです。これはホセア書10章8節にある言葉です。山や岩は神の怒りから彼らを守ってくれるでしょうか。山が崩れれば人々はひとたまりもなく死んでしまいます。その方がまだましだという叫びでもあるのです。ここには神の裁きに遭う前に殺してもらいたいという絶望感があります。神と小羊の怒りがどれほどのものであるかを示すためにヨハネはこの幻を見させられたのでしょう。

 マルコによる福音書13章では、イエスが弟子たちに終末のしるしについて語り、大きな苦難が起こることを予告しておられます。「それと同じように、あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(マルコによる福音書13章29-31節)。」と語り、弟子たちを励ましておられます。

 17節の最後に「だれがそれに耐えられるであろうか」という言葉があります。いったい誰がこの「神と小羊の怒りの大いなる日」に耐えることができるでしょうか。世の富も力も何の役にも立たないのです。誰一人怒りを免れる人はいません。そこになお望みを持つことができるのは、この封印を解いておられるのがほふられた小羊イエス・キリストであられるということです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ここに私たち信仰者の確かな希望があるのです。厳しい社会の中に生かされていますが、新しい週も私たちへの愛と赦しを成就してくださったイエスの贖いを信じて、感謝して生きていきたいと思います。

(牧師 常廣澄子)