イエス、死と復活を予告

2022年12月11日(主日)
主日礼拝『 待降節第三主日・誕生日祝福 』

ルカによる福音書 9章21節~27節
牧師 永田邦夫

 本日は、待降節の第三週の主日礼拝です。また、クリスマス礼拝も二週間後に近づいています。そのことにも思いを馳せながら、この時期を過ごしていきたいと願っています。

 本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。なお、本日箇所は9章の21節からとしておりますが、内容的には、直前の段落も関係しておりまして、注解書、あるいは説教者によっては、18節から22節までを一つの段落としておりますので、このことも踏まえながら、関係する部分は前の段落を見ていきます。

 早速21節に入ります。「イエスは弟子たちを戒め、このことはだれにも話さないように命じて、」とありますが、この節での“このことは”と、直前の段落のことも意識しながら、これから伝えることは、だれにも話さないようにと命じた上で、22節へと進めています。

 では、直前の段落の要点を先に確認しておきましょう。18節、イエスがひとりで祈っておられたときのこと、イエスさまは、そこに一緒にいた弟子たちに向かって問いました、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とです。すると弟子たちは、バプテスマのヨハネだ、とか、エリヤあるいは昔の預言者が生き返ったのだ、等々、言っていると答えました。今度は、弟子たちに向かって、同様のことを問いました。すると、ペトロは「神からのメシアです。」とはっきり答えたのです。なお、この“メシア”とは、「油を注がれた者」の意味で、旧約聖書の時代には、ダビデをイメージした、王的なメシアを指していました。

 なお、18節以下の段落で、主イエスに対する群衆の評価、すなわち、洗礼者ヨハネだの、エリヤあるいは、他の預言者の一人など、群衆が言っている、そのことを、すでに、ガリラヤ領主ヘロデも聞き及んで、戸惑いを見せ、「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主(ぬし)は。」と言っていたことが、9章7節から9節の段落にありました。

 以上の状況の中で、主イエスさまは、ご自身に対する噂が、これ以上に種々と飛び交うことのないように、弟子たちを戒め、そして「このことはだれにも話さないように」と口封じをされてから、次の22節のことを弟子たちにお伝えになりました。

 では早速、主イエスが弟子たちに告げたお言葉である、22節を見て参りましょう。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」とあります。ここでの、「人の子」とは、勿論、イエスさまご自身を表わしています。そして、これから弟子たちに伝えようとしている、ご自分が歩まれる道筋は “王的メシア”とは程遠い、“苦難の僕”を表す、メシアの姿です。

 次は、22節の内容について、人の子は、①「必ず多くの苦しみを受ける」について、既にそのときに至るまでに、イエスさまご自身の伝道で経験されてきましたが、御国の福音は、すぐ多くの人に受け入れられるというよりも、むしろそれを拒む人々が多くいたことも事実です。時には、命からがら脱出する、という場面もありました。それは、すでに旧約聖書の時代に、預言者イザヤによって伝えられていたことでもあります。イザヤ書53章2節3節に「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とある通りです。

 ②次は「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、」とあることについて。ここに列挙されている職責の人々はみな、国の議会である最高法院のメンバーたちです。

なおこの後、実際にイエスさまが辿られた道では、ファリサイ派の人々と並んで、律法学者たちも、主イエスさまの伝道の途上で、たびたび中傷し、非難してきました。最後は、弟子のユダ(イスカリオテのユダ)でさえ、主イエスさまを敵に渡すことになり、イエスさまの逮捕へと繋がっていきます。そしてイエスさまは、十字架への道を歩まれ、殺されたのです。

 そして最後③は「三日目に復活することになっている。」とあります。この最後の言葉、“〇〇することになっている”は、原語に忠実な、岩波版の聖書では、「三日目に起こされねばならない、」と訳し、神のご計画の中で、避けることのできない事柄として、すでに定まっていたことを表しています。

 次の23節以降に入ります。ここからは冒頭でもお伝えしてきましたように、二つの段落に分けた場合の、二段落目に相当します。23節の初めに「それから、イエスは皆に言われた。」とありますように、(先の段落では弟子たちに伝えてきたのに対して)これ以降は「皆の者」が対象となります。そしてここには、現在の私達も含まれていることは勿論です。

 以下、イエスさまの言われた言葉は、一気に、23節bから27節まで続いています。順番に見ていきます。先ず23節bから24節にかけては、イエスについて行きたい、従って生きたい、と願う者に対して、三つの教え、諭の言葉があります。

 先ず第一は「自分を捨てること」とあります。では“自分を捨てる”とはどういうことでしょうか。それは、端的に言いますと“自己否定”のことです。自己否定と言っても、自分を偽って、他者を惑わしたり、自分の係りを否定するようなことではありません。そうではなく、自分のことを優先し、自分を喜ばせることにのみ、気を配る(腐心する)こと、すなわち、“自分が第一と言う考えを捨てなさい”と言っております。これは、だれしも考えがちなことであり、また陥り易い盲点でもありす。

 第二の教え、諭しは、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい。」とのご命令です。これはどういうことか、見ていきましょう。まず、この命令は、二つに分けることが出来ます。一つは、「自分の十字架を背負っていくこと」です。“十字架を背負う”と聞きますと、わたくしたちは直ぐ、主イエスさまの十字架の出来事を、そして、あのゴルゴタの道を十字架を負わされたことを連想します。なお、この十字架刑は、イエスさまがおられた当時すでに、最も残酷で、屈辱的な処刑方法として行われていたのです。

 しかし、ここでイエスさまが、皆の者に命じておられることは、自分が生きていく上で、自分に降りかかってくる苦難や難題を避けることなく、それを受けて、自分でそれを背負いながら、わたしに従って来なさい、と言われているのです。しかも、この段落で言われていることは、自分の十字架を“日々背負って”今日も、明日も、そのように生きて行きなさい、と言われているのです。

 ここで、中村哲(てつ)さんの出来事が思い起こされます。医師であった中村哲さんは、アフガニスタンで、「NGOペシャワール会の現地代表」として、人道支援活動に長年取り組んでこられました。中村さんは、医療支援や灌漑事業(田畑に水を引き、土地を潤すこと)に取り組んでいたのです。具体的に言いますと、土嚢運びから、トラクターの運転まで行っていた、といいます。

 ところが、3年半位前の、2019年12月4日、仕事に向かう途中で襲撃に遇い、数名の者も巻き添えにあって、その命を奪われました(中村さんは享年73歳)。中村哲さんは、正にご自分の十字架を背負って、日々歩まれていた人です。ご自分の命を捧げてまで、苦難の道を歩まれた、中村哲さんのことを思うとき、本当に、胸が張り裂ける思いになります。某芸能人が現地で中村さんにお会いになったとき聞いた言葉として、「僕一人の命より、何十万人のアフガニスタン人の命が大事だ」と言っていたと、2022年4月4日付の朝日新聞に紹介されていました。

 そして最期、三番目の教え、諭しです。上記、二つの教え諭し、すなわち、“自分を捨てて”、かつ、“日々、自分の十字架を背負い”、そして、この三番目の教え諭し、「イエスさまに従って行くように」との命令です。「イエスさまに従って生きていく」、それは、すべてをイエスさまにお委ねし、イエスさまが実際に生きられた道に自分も従い、そして、イエスさまに倣いながら、日々を生きていくように、との勧めです。では、そのように生きた時に、結果はどのようになるか、そのことが、次にあります。見ていきましょう。

 24節には「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」とあり、さらにその説明が、25節に詳しく記されています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」ということにつながります。先ほど23節の「自分の十字架を背負って生きる」、との説明の中で、自己中心に生きる、たとえば、金儲けであったり、あるいは、名誉ばかり追求して生きたりすること、時にはスポーツも然りですが、そのような生活中心に生きて来た者にとって、それを失ったり、また、それが達成できなかったときの喪失観には、言い知れないものがあるのを、わたしたちは多く見てきました。イエスさまは言われました「あなたがたは地上に富を積んではならない」、そして、「富は、天に積みなさい。」(マタイによる福音書6章19節、20節)

 次は27節に移ります。「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」とありまして、これは謎めいた言葉であり、この節については、種々言われてきたと言います。しかし、その多くは省いて、その結論だけお伝えします。主イエスさまが、この世でのご生涯を終え、復活の主となられてから、父なる神と共に、約束の聖霊を送られました。それが、使徒言行録2章で伝えている、五旬節の出来事です。そこには、あらゆる地域からの人々が集まっていて、その聖霊を受けて、そこに教会が誕生したのです。

 ではここで、今までのことを確認いたします。主イエスさまは、ご自分は決して、今まで人々が望んでいたような、王的なメシアではなく、苦難の道、すなわち死を通って復活へと導かれることになっている、このことはまだ公言しないようにと口止めしながら弟子たちに伝えました。

 そして次は、多くの者に対して、イエスさまに従って生きるとは、いままでの自分本位の生き方を捨てて、従ってくるように、とお勧めになりました。わたしたちも、このご命令をいただきながら、やがて復活の主が導いてくださる、御国への招きを仰ぎ見つつ、日々、力強く生きて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)