神のものとされた者

2023年1月15日(主日)
主日礼拝

ヨハネの黙示録 7章9~17節
牧師 常廣澄子

 新しい年が明けてから、早くも二週間が過ぎてしまいました。元旦には、私たちはここで新年礼拝を捧げましたが、コロナ禍とはいえ、お正月三が日には老若男女多くの人たちが神社仏閣にお参りされたようです。今世の中には問題が山積みですから、神様にお願いすることばかりです。新型コロナウイルスの感染者は、減るどころか、今年に入ってますます増加していて、亡くなる方も増えていますし、ロシアとウクライナの戦争も終わる気配がないまま年を越してしまいました。日常生活においては、物価が高騰していて生きていくのに四苦八苦している方々や、コロナ禍の影響もあって、孤立する方々が増えています。私たちの世界はこれからどうなっていくのでしょうか、不安や心配が後を絶ちません。

 お参りに行かれた方々は何よりもコロナの収束と世界の平和を祈願されたことでしょう。それから、この一年間の無病息災を願い、我が家あるいは我が会社が繁栄しますように、少しでも世の中が明るく平和な世の中になりますように、経済的不況から脱出できますように等々、多くの人たちはお賽銭を奮発して一生懸命お願い事をしたと思います。けれどもこの中では、どこにも神を神として崇め、神の栄光を称える言葉や行為は出てきません。そこにはまず私の思いや私の願いがあって、それを満たすことを神様に要求し、従わせようとしているだけです。そこにある祈りや願いは、先ず我ありきという人間本位のあり方ではないでしょうか。

 それに対して今私たちは、ヨハネが見た幻を通して天上の礼拝を見ています。今お読みしたところでは、国家や種族、民族、言葉の違いを超えて、神に招かれた数え切れない人たちが神を賛美しています。「(9-12節) この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。』」

 ここにいる大群衆は、救いは神と小羊イエスのものであることを体験した人たちです。14節にありますように、この人たちは大きな苦難を通ってきて、悩み苦しみ傷ついてたくさんの涙を流してきた人たちです。今その人たちは皆白い衣を身に着けています。「彼らはその衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と説明されています。イエスのもとに来る人たちの衣は皆白くされます。十字架で流された御子イエスの血潮が人々の罪をすべて洗い流してくださるからです。また、なつめやし(棕櫚のこと)の枝を手に持って玉座の前と小羊の前で大きな声で心から賛美しています。なつめやしの葉は人間の手の形をしているところから、それをかざして、古代から勝利を祝う時や神の栄誉を称える時に用いられてきました。イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場された時も、人々は棕櫚の枝を振ってお祝いしたことを覚えておられると思います。

 私たちは今、地上にある教会の礼拝の場にいますが、この礼拝は天の礼拝につながっているのです。なぜなら「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」これに応えて天使たちが「アーメン」と言ったように、私たちも「アーメン、本当にそのとおりです。」と信じているからです。私たち人間の究極の救いは、私たち人間を愛する神と、地上に降って来られ十字架にかかってすべての人の贖いとなってその救いを完成させた御子イエスにあるからです。このイエスの他に救いはありません。

 私たちは今命を与えられて、この世に生きています。生きていると実にいろいろなことが起こり、
楽しいことだけではなく、人生こんなはずではなかったと思うような出来事にも出会います。自分の人生はもうめちゃめちゃだと感じるような時もあるでしょう。悲しみや痛みや苦しみだけではありません。辛くて悔しくて憤りで人は泣きます。私たちの心の中はどれだけ涙を流しているでしょうか。

 そういう時、私たちの心の目はいつのまにかうつむき加減になり、上なるお方を仰ぎ見ることを忘れてしまうのではないでしょうか。しかし主の日の礼拝は、そういう私たちの、一週間の旅路を終えて疲れた肉体や魂、仕事に追われていた心や身体、思い煩いに満ちていた心が静められて、この聖なるお方を見上げる時なのです。パウロはコロサイの信徒への手紙3章1節でこのように書いています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」二千年前に語られたこの言葉は、今も私たちに語られています。全世界、全被造物が呻き苦しんでいる中にあって、私たちはこのお方を仰ぎ見て慰めと安らぎを得るのです。

 主の日の礼拝は聖別された時間です。私たちは今いっさいの手を休めて、荘厳な神の御座におられる私たちの救い主イエスを仰ぎ見ています。しかしそのお姿は豪華な王の姿ではなく、見る影もなく痛々しい屠られた小羊のお姿です。それは私たちに代わって処罰を受けられた方のお姿だからです。5章6節には、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、その屠られたような小羊が立っていることが書かれていました。そして6章9-10節では、小羊が立っている祭壇の下に、その信仰の故に殉教した人々の魂たちがいることが書かれていました。そして彼らには白い衣が着せられていました。また本日お読みした個所の前に書かれていますように、その額には印が押されているのです。どのような印が押されていたのかわかりませんが、印というのは所有者を表すものです。この者たちは神のものであるという印とともに、白い義の衣が着せられていたのです。

 ここで注目すべきことは、先ほどお読みした7章9-10節にある、数え切れない大群衆が捧げる大合唱です。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」という信仰を、数え切れない大群衆が賛美しています。この幻こそが、今苦難の中にある私たちへの約束です。この完成された天の礼拝を目指しながら、私たちは地上の旅を続けていくのです。

 天の礼拝の荘厳さ、素晴らしさは、既に5章11-12節でも見てきました。「また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。『屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。』」続く13節にも賛美があります。「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。『玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。』」天の玉座をとりまくおびただしい群衆がささげる歓喜の大合唱、それはこのお方こそが私たちを救い得る唯一のお方であるという喜びの現れです。

 ヘブライ人への手紙12章1節には「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と書かれていますが、神を信じる私たちは、時に孤独を感じるかもしれませんが、いつも目に見えない雲のような証人たちにとり囲まれているのです。そして御子イエスは、私たち一人ひとりを愛してその罪を贖い、これらのかけがえのない神の民の一人として受け入れてくださったのです。

 ところで、毎年年末になるとヘンデルのメサイヤが歌われ、あの歓喜の合唱がついているべートーベンの第九交響曲「合唱」が歌われます。これは今では年末の恒例行事のようになっていますが、どうしてキリスト教を信じていない多くの人達がメサイヤや第九の合唱を歌ったり聞きに行かれるのか大変不思議に思います。みんながすることを、格好いいからと自分も真似をしているのかもしれませんが、考えてみましたら、これは全世界の人々の呻きの叫びのように思えてきました。本当の救い、本当の喜びを求めて全世界の人々が祈りの心で歌っているのではないでしょうか。

 このヨハネの黙示録を通して、天上の驚くべき大合唱を聞く時に、これこそ救い主イエスに対する本当の信仰告白であり、喜びの賛美であり合唱であると思わされます。聖書が語っている天上の礼拝、神への讃美の合唱は、全人類の切なる願いや呻きに対する答えではないでしょうか。つまりここにこそ本当の救いがあり、このお方こそが真実の救い主であるということです。私たち人間の暗闇に、このお方から輝く光、大いなる喜びが届いたのです。大群衆の大いなる賛美の中味は、「(10節)救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」これです。「我らの救いはいずこより来たるや」と、救いを求めているすべての人に対して、この答えがあります。

 今世界は混沌としています。いよいよ先行き不透明で、むしろ闇の部分が増しています。為政者
は治安を守るどころか、秩序を乱して混乱に拍車をかけています。神を信じる宗教家といえども存
在価値がありません。しかしこの事柄をよく見つめるならば、それは救いの何たるかを知らず、救いがどこから来るかを知らないからです。いや、知らないどころか、救いを必要としていない人が多いのです。しかしこのお方がおられなかったら、全人類に未来はなく、一人ひとりの救いもあり得ません。このお方以外に救いはないという賛美と告白は、あまねく世界中に届けられなくてはならないのです。

 しかし今世界では、神の素晴らしさ、天上の輝かしい栄光の姿がどれだけ鮮やかに示され、証しされているでしょうか。代々の教会が告白してきたこの聖なる唯一の神、私たちを愛し救われる義なる神への賛美はどこに行けば聞くことができるでしょうか。私たちはつたない賛美であろうと、私たちの卑しい口で歌う賛美であろうと、日々主への賛美を捧げたいと思います。私たちをこよなく愛しておられる主なる神は、心から喜んで受けとめてくださいます。そして額に印を押し、白い衣を着せて、私たちを迎え入れてくださるのです。

 これらの人たちが行きつく所が15節以下に記されています。「(15-17節)それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」まだこれからもさらなる災いが示されていきますので、ここに記されているのは終わりの時に来る新しい天と地の有様の一端ですが、しかしここには信じる者にはいつも神が共におられるという約束が書かれています。旧約時代、イスラエルの民が荒れ野で旅をしていた時は常に幕屋を運んでいきました。ここでは「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」と、神ご自身が私たちの中に住んでくださり、神と離れ離れになることはないとその守りを約束しておられます。

 また小羊イエスは私たちの牧者となって導いてくださいます。地上の人生を歩む時だけでなく、死を越えてなおその先にある永遠の命の泉へとイエスは私たちを導かれます。この世のあらゆる手立てが失われ、もうどうすることもできなくなった時、私たちは「よろしくお願いします。」とすべてをイエスの御手に委ねる事ができるのです。その時神は私たちの目から涙をことごとくぬぐってくださいます。私たちは今神が与えてくださった約束の中に生きています。どうか新しい週もこの希望を持って生きていくことができますようにと心から願っております。


(牧師 常廣澄子)