目に見えない現実

2023年1月29日(主日)
主日礼拝『 特別礼拝 』

列王記下 6章8~17節
宣教師 郭修岩

 皆さん、明けましておめでとうございます!神さまからの恵みが豊かな一年となりますように。再び志村教会の礼拝に出席でき、またメッセージを語る機会が与えられることを、心より感謝致します。それと、今まで東京北キリストのために、お祈りとお支えをありがとうございます。まず少し自己紹介をさせていただきます。私は郭 修岩(カク シュウガン)と申します。中国の大連の出身です。2019年からIJCSの派遣宣教師として、東京北キリスト教会で仕えさせていただいています。実は私がシンガポールにいた頃、伊藤世里江先生はメッセージの中でよく志村教会のことを語ってくださいました。先生の志村教会への深い愛情が私によく感じられたのです。一体どのような教会だろうと思いました。前回伊藤先生と一緒に志村教会の礼拝に出席した時、とても歴史があり、信仰熱心、熱意がある教会だと感じられ、とても励まされました。

 時間が経つのは早いものです。2023年1月もまもなく終わります。新しい年に入ると、私は一箇所の聖書のみことばを選び、今年目指した目標として歩んでいく習慣があります。今年はコリントの信徒への手紙二4章18節を選びました。なぜこの箇所を選んだかというと、私はよく見えた環境に左右されやすいからです。実は今日皆さんと見ている聖書箇所も見る、見えないという言葉と強く関わっています。私たちは今コロナウイルス変異株の流行、ロシアとウクライナの戦争、ミャンマーの内部紛争、貧困者の増加、世界的な経済ダウンなどに直面しています。これらを見た時、また私たちの日々身の回りに起こっていることに対して、どう見るべきでしょうか。また、クリスチャン、キリスト者として、目に見えない現実をどう受け止めるべきかと皆さんとご一緒に列王記下6章8-17節を通して、考えていきたいと思います。

肉眼に見えるものは人生の困難
 皆さん、ご存知のように、列王記下に入ると、すぐに預言者エリシャが預言者エリヤの働きを引き継ぎました。エリヤの後継者とされたエリシャを通して、主のみわざも多く起こされました。今日の内容も主のみわざの一つです。8節には、「アラムの王がイスラエルと戦っていた時のことである」と書いてあります。北イスラエルをたびたび脅かしていたアラムが、また登場しました。このときのアラムの王は、軍司令官であるナアマンの癒しの時とは違い、北イスラエルに用意周到に攻め込みます。イスラエルに敵対する典型的な異邦人の姿だとここで言えます。そこで、イスラエルの王は、繰り返されるアラム軍の侵略行為に困っていました。そのため、家臣を集め、対応を協議し、陣を張って侵略者を撃退しようとしました。これに対して、エリシャは、使いを遣わし、陣を張るために、イスラエルが通ろうとしている道を通らないように警告を与えました。エリシャは積極的に北イスラエル王を助け、国土を防衛します。「イスラエル人対異邦人」という伝統的な戦いの構図のなかで、エリシャに現れる主の御業は、アラムのすべての策略を言い当てるものでした。いつもアラム軍が攻め上る道を見破られていました。怒り狂ったアラム王は、まずエリシャを除くために、エリシャがいるところに軍を差し向けます。サマリアよりさらに北方の街、ドタンが大軍に囲まれることになりました。

 このアラム軍によるドタンの包囲は夜のうちに行いました。エリシャに仕える召使いは朝早く起きて外を見るとアラムの軍馬や戦車にすっかり包囲されていたので、大軍を目前に恐れを抱いてエリシャにこう言いました。「ああ、御主人よ(アハー、アドニー)、どうすればよいのですか(15節)」。周りの厳しい環境を見ると、行動した召使いの姿は私たちもよくある姿ではないでしょうか。ここで召使いが見たアラム軍は今の皆さんにとっては、持病や病かもしれません、職場の人間関係かもしれません、自分のプライドかもしれません、また今直面している問題かもしれません。実は私たち夫婦は、日本宣教に行く前2018年に、目の前にたくさんの困難に直面しました。2年間をかけて色々な資料を準備し、2018年3月からある宣教団を通して日本の奉仕教会を申請しました。半年を過ぎても、何も返事がありませんでした。ずっと心配と焦っていました。その年の9月に急に教会の件がダメだったとの連絡が入りました。この結果とまたこれからの日本宣教の進路に直面する時に、絶望の中に落ちてしまいました。また、5月には妻の左の目に小さい腫瘤ができ、だんだん腫瘤が大きくなって、何度眼科に行っても、原因不明との返事でした。シンガポ-ルの治療費がとても高くて、色々なことを重ね、どうすれば良いかと毎日不安の中で絶望と無力を味わったのです。身の回りの環境を見た時に、私たちは神様に捨てられたのではないかと思いました。私たちの目は、よく敵を支配し、これに勝利することのできる主を見ることができず、現実に包囲している困難や問題しか目に入りません。これに対し、私たちはどうすれば、この状況を変えることができるのでしょうか。

信仰の目が開かれ、神のみ業が見える
 さて、16-17節には「するとエリシャは、恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が彼らと共にいる者より多いと言って、主に祈り、主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と書いてあります。恐れてはならない!召使いも私たちも肉体の目に見えているのは、敵の大軍に包囲されて、もうどうしようもない、自分はもう滅びるしかない、という現実です。その現実が主に守られていることを見ることができなくなります。そういう苦しみの中で私たちは、恐れを感じ、慌てて、パニックに陥るのです。しかしその私たちには、見るべきものが見えていません。目が閉ざされてしまっているのです。困難や問題しか見ないと、主の恵みと導きを体験することができないのです。

 日本の宣教がとても難しいとよく言われています。日本の教会の信徒が少ない、若者がいない、資金も足りません。以前も今もこれからもたくさんの困難に直面しています、もし、私たちがこれらのことを目に集中しすぎると、今までの主の守りと導きを見ないで、困難と問題しか見えなくなります。キリスト教の歴史上、偉大な詩人の一人であるファニー・クロスビ-のことを思い出します。彼女は目が見えませんが生涯で3,000以上の讃美歌を書きました。そのうちに日本語で有名なのは 「み栄えあれ、愛の神」(新生讃美歌16番、英語To God be the Glory)のようによく歌われるものは少なくありません。もし、自分の目が見えないならば、讃美歌を書くどころか、生きる勇気さえ失ってしまうかもしれません。彼女はなぜできるのでしょうか。全く周りの環境に囚われず、信仰の目で、神のみわざを見、信頼し、喜びを持って、歩んできたのです。彼女の生涯に渡る神に対する経験は、失明によって制限されることなく、主に専念させられ、さらに広がりを見せました。彼女は、「人生の暗闇の中で、目が見るものは心を恐怖で満たすが、信仰が見るものは心を詩で満たす」と言われました。彼女の肉眼は失明でしたが、信仰の目で神のみわざを見、神の臨在を感じ、神の栄光を見ることができました。
ファニー・クロスビ-は困難と問題に囚われないからこそ、見るべきものが見えたのです。なぜなら、私たちと共にいる者の方が彼らと共にいる者より多いからです。つまり、敵を支配し、全てに勝利することのできる主がいるからです。私たちもどんな状況であれ、全てに勝った主にフォーカスすれば、きっと乗り越えられるのです。

 日本宣教のために、たくさんの困難に直面した私たち夫婦に先生から電話が掛かってきて、心配しないで、一緒に祈りましょうと言われました。目から鱗が落ちたように、主にフーカスし、委ねるべきだと気がついたのです。その後毎日妻と心を合わせて祈りを捧げたのです。12月のある日に、ある姉妹から連絡がありました。その姉妹はある時に妻の目の腫瘤に気づき、今の状況を心配して、電話をしてくれました。私たちをびっくりさせたのは、一回しか会ったことがない姉妹はこんな小さいことでも心配してくれたことなのです。そして、その後良い病院と医者も紹介し、費用も全部負担してくれました。彼女のおかげで、妻は無事に目の手術を受けて、最後に完全に回復しました。一方で、IJCSでは、全く宣教師を派遣する経験したことがないのに、皆さんが私たち夫妻のためにたくさんの時間をかけて、会議し、祈り、宣教師を派遣するために、ミッションチームまで作ったのです。色々な困難に囚われていた私たち夫妻にとってものすごく力を与えてくれました。祈りの中で、主が色々な方を通して、私たちの信仰の目が開かれ、勇気が付けられ、主からの深い愛が感じられ、必ず日本宣教の道を開いてくださるという信念を持つようになりました。その後、主は素晴らしい計画も立ててくれたので、今このように、日本の教会の講壇に立つことができたのです。そして、主の恵みと導きを深く体験することができたのです。

 エリシャは彼らを勇気づけ、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください(17節)」と願いました。霊の目が開かれた召使いが見たものは、山に満ちた天の軍勢でした。本当に見るべきもの、目が開かれたなら、見えてくることは、火の馬と戦車が自分たちを囲んで守っているということです。つまり、主が、人間を超えた強い力をもって私たちを守り、導いてくださいます。簡単に言えば、主が私たちを愛していて下さるということです。そのことが見えていないのが、私たちであって、それが目を閉ざされてしまっている私たちの姿なのです。主は、その私たちの目を開いて下さいます。主が私たちを愛して下さり、強い力をもって守り、勝利し、導いていて下さる。そのことに目が開かれるのです。いつも主に対して開かれた目を持たないと、私たちの信仰は弱くなり、恐れと問題に包まれます。そのため、主にある信仰の目が開かれる必要があります。17節で注目すべき行動はエリシャが彼らのために、祈りました。信仰の目が開かれるには祈りと深く関わっているのです。祈りは鍵のようなもので、信仰の目が開かれるため、祈る必要があります。エリシャのように、自分のためではなく、私たちもお互いの信仰のために、とりなしの祈りも必要です。
私は今東京北教会の毎週水曜日の午前と午後の祈祷会に参加しています。参加者が心を合わせて、教会のことだけではなく、社会のことや個人のことなどのために取りなしの祈りをしています。私たちの肉眼から見るとなかなかできないことですが、取りなしの祈りを通して、病人が回復していくことでも、新しい信仰者が与えられたことでも、主は私たちの祈りをお聞きになり、私たちの信仰の目が開かれました。

 私と妻は2019年4月からIJCSの派遣宣教師として、東京北キリスト教会に派遣されました。最初に訪問した東京北教会の礼拝集会所を見た時、とてもびっくりしたのです。住宅のようなビルの2階で、15坪くらいのワンルームで、礼拝、子どもクラス、食事、ミーティングなどの全てが行われていました。しかも30年間近くこの環境の中で礼拝を守ってきました。礼拝に出席する方は30名程度で、牧師の給料と家賃を払うだけ、必死でした。こういう状況から見ると、教会を建てるなんて、なかなかあり得ないことだと何度も思ってしまいます。牧師の話によると、最初教会を建てるという話をした時に、建てたい気持ちがあるのですが、現実を見るともう無理だと思う人が多いようでした。なぜかというと、東京の土地が高いし、会堂を建てるには、お金がかかるし、さらに全ての資金を自分たちで用意するにはハードルが高過ぎたからです。これらの現状を見れば、当時東京北の皆さんは教会を建てる希望を断念してしまいました。しかし、それでも、牧師と一部の信徒が教会を建てたい希望を諦めず、直面した現実に囚われずに、主が必ずなんとかしてくれると信じて、心を合わせて、祈ってきました。ちょうどその時、当時のバプテスト連盟の宣教部長が連盟の地域協働プロジェクトを東京北教会に勧めてくれた後、東京北は連盟に申請し、2018年連盟総会で承認されました。連盟が教会の建築に加わることによって、土地の資金を解決することができました。そして、その後、志村教会をはじめ、多くの賛同教会や協働教会が加わってくださり、支援を捧げ、常に東京北の建築のために祈ってくださっています。またその後に協力牧師が与えられ、宣教師も与えられ、一つ一つ必要なことが備えられ、ついに教会建築は去年3月に無事に竣工され、建築の中で、多くの信徒の信仰の目が開かれてきました。それは牧師と一部信徒が2009年から教会を建てるために、十何年もかけて祈ってきたそうです。教会の建築のことから見ると、信仰の目と祈りと深く関わっていると感じさせられました。

 もちろん、祈りをすれば、全てうまくいくわけではありません。当然今東京北教会は資金返済や地域協働の活動の推進などの困難に直面しています。コロナの影響で、対面礼拝出席者が減り、給料が下がった信徒が少なくありません。元々ギリギリな教会財政がさらに厳しくなります。もし、これらの問題に集中しすぎると、前に進むことができなくなります。この時に、教会の中でできるのは祈りを捧げることです。感謝なことですが、今年土地のセットバック部分の売却金額は300万円から560万円に上がったそうです。そのプラスの分を教会財政の部分に充てることができるそうです。この先もほかの問題に直面するかもしれません。しかし、大事なのは、今まで神さまがどれだけこの道を開いてくださったかを思い出しながら、この問題や困難に囚われず、神さまが戦ってくださり、必ず勝利できるという信仰の目を持つことが必要なのです。

終わりに
 神によって私たちの信仰の目が開かれると、人生の困難、問題から主の恵みとみわざを見ることができるようになります。しかも、信仰によって信仰の物事を見るようになります。信仰の目が開かれると、現在直面した問題や困難に囚われず、敵を支配し、全てに勝利することのできる主を見ることができるのです。また、信仰の目が開かれるには、祈りと深く関わっているのです。常に祈りも必要です。今の私たちも信仰の目で主のお働きとみ守りを見つめ、主に求める必要があります。肉体の目(肉眼)を閉じて、今の環境、問題に囚われず、祈りをもって主に従うとき、信仰の目が開かれ、私たちは必ず主の恵みと導きを体験することができるのです。

(宣教師 郭 修岩)