歴史からの教訓

2023年3月19日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙一 10章1~13節
牧師 常廣澄子

 イースターを前にして、私たちは今受難節(レント)の時を過ごしています。私たちの救いのために神の御子が十字架に向かって進んでおられるのです。私たちの信じている神は、天の高みにおられてはるか遠くから私たちを見下ろされているような方ではなく、天から降って人間世界に飛び込まれ、ご自分の命さえも捨てることがおできになるお方なのです。そのような愛の神を信じて生きる者がどんなに祝福された者かを、今朝はコリントの信徒への手紙から見ていきたいと思います。

 私たちは今その愛の神を信じ、主イエス・キリストの父なる神を礼拝するためにここに集っております。私たちのその信仰はどのようにして与えられたのでしょうか。「苦しい時の神頼み」という言葉がありますけれども、辛く苦しい出来事が起きて、そういう時に神を求められた方もおられるかもしれません。家族に勧められて漠然と神を信じていたけれども、人生のいろいろな悩みや挫折の体験を通して信仰が深められ、神を信じる喜びを心から味わえるようになったという方もおられるでしょう。またこれとは反対に、生活が万事好調で何の苦労もない時には楽しく教会生活をしていたのに、仕事に失敗したり肉親を失ったり、突然何らかの不幸が訪れた時に、その方がさらに強く神を求めるようになるかというと、そうでないことがあるのです。その辛さの中で、その方はきっと神も仏もあるものかと思われたのかもしれませんが、教会から離れていかれた方を私は知っています。私たちの人生に起きるいろいろな苦難に対してどう立ち向かうかということは、私たちの信仰がどういうものであるかということを表していることでもあると思います。
 
 パウロは9章で自分の信仰生活のあり方を率直に語っていました。すなわち彼はキリストによって全く自由な者とされたことを喜び、律法からも死からさえも自由になっています。しかし彼はその自由な生き方を、神や人を愛する愛の故に自制していると語っているのです。彼は天における朽ちない冠を得るために自分を律して生活していると語っていました。

 本日はその続きの10章ですが、ここでは別のことを語っているのではなく、イスラエル民族の歴史を回想しながら、キリスト者への奨励と警告を与えています。つまり、イスラエル民族は神の民として選ばれたにもかかわらず、その義務を果たすことができませんでした。エジプトでの奴隷の絆から解き放たれることは喜びましたが、その後の生活で、神の民として、神のみ心にそって生きる責任を果たすことできなかったのです。それは救いと同時に忍び込んでくる誘惑や試練に押し流されてしまったからです。

「(1-4節)兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」

 ここには、イスラエル民族の先祖がエジプトの苦役を逃れて、乳と密の流れる約束の地カナンに向かって旅をしている時の回想が書かれています。この出エジプトの事件は、信仰者にとっては誠に意義深い出来事です。彼らはモーセに導かれてエジプトを出ると、昼は雲の柱、夜は火の柱に守られ導かれて旅を続けました(出エジプト記13章21節、14章19節)。また、紅海の水が二つに分かれてその中を無事に通り、追ってきたエジプト軍から守られました(同14章21-29節)。また彼らは天から降るマナで養われました(同16章12-16節)。レフィディムではモーセが岩を打つとそこから水が湧き出て渇きをいやすことができました(同17章1-6節)。さらに旅の間、神は至るところで、思いがけない方法で水を備えてくださったのです。

 4節に「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」とありますが、パウロはイスラエルの民を導いておられる神の中にキリストを見ています。パウロの時空を越える信仰のすばらしさを思います。水がほとばしり出る岩というのは遠いところにあるものではなく、信仰の目を上げれば私たちのすぐ近くにあるということです。この世の栄誉も富も力もそれらは一時のことです。それらはしばしの間は確かに人の心を潤おし満足させてくれるでしょう。しかし人生の厳しい日照りの時が来るとその心は必ずまた渇きます。けれどもキリストにある命の水を飲む人は、永遠に渇くことがないのです。

 イスラエルの民は、安住の地を求めて旅をしていました。その荒れ野の旅を始めから終わりまで神の恵みが覆って守っていてくださいました。その旅路は、永遠の神の身許に帰ることを目指して歩んでいる私たちキリスト者の人生の旅と似ています。私たちは、神の一方的な憐みによって救われ生かされています。すなわち、天から来られたイエス・キリストという命のパンによって真の命を与えられ、養われ、生ける命の水をいただきながら日々生かされているのです。

 しかし、そのような豊かな神の恵みを受けていたにも関わらず、イスラエルの民の多くは神の御心に適わずに約束の地に入ることができませんでした(5節)。この先祖たちの失敗は遠い昔のことではありません。今の私たちもまた同じように、イスラエルの民が陥った誘惑に囲まれています。ここには、恵みのもとにいる私たち人間がどのように生きているのか、またどんな形で罪を犯すようになるのかが語られ、今の私たちに警告を与えています。6節にはっきり書かれています。「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」きっと当時のコリント教会内にも悪に対する誘惑が多く存在していたのでしょう。この手紙を通してパウロは鋭く反省を迫っているのだと思います。

 彼らが陥った罪とは何でしょうか。具体的にどういうことか考えてみたいと思います。彼らが悪をむさぼったというのは、毎朝天から与えられるマナに満足できなくなったイスラエルの民が「ああ肉が食べたい」と不満をもらした事件を想起します。これは民数記11章に書かれていますが、「(4-6節)誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」これは感謝の言葉ではありません。目の前に神が与えてくださったマナがあるのに彼らは呟いています。このように私たち人間は神の恵みの中にいてもそこに満足せず、そこで生きることができなくなってしまうのです。これが人間の本当の姿です。

 肉を求めて泣く民の願いを神は聞き入れます。そこには「(21節)男だけで60万人」もいたのですが、そこへうずらが飛んできます。二日二晩かかってやっと集められるほどの大量のうずらです。その肉を彼らは貪り食います。至る所うずらの山で、うんざりするほどの肉に囲まれています。しかし、彼らがその肉を食べている最中に疫病が彼らを襲うのです。泣きながら求めた肉に囲まれながら、彼らは神の裁きを受けたのです。この出来事を私たちは笑うことはできません。私たちが求めれば、その欲望を満たすものを神は飽きるほど与えてくださるかもしれません。しかし、その中で私たち自身は死んでしまうかもしれないのです。

 貪ることの罪に続いて偶像礼拝があります。偶像礼拝というのは、自分の欲望を満足させるために勝手な神を創りだして、これを拝することです。したがってそれは人間の欲望と結びついて不品行となります。そのことは真の神を汚すことであり、試みることでもあります。7節の『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』というのは、出エジプト記32章に書かれている言葉です。イスラエルの民は、山に登ったモーセがなかなか下りてこないので、金の子牛像を造って偶像の祭りをして踊り狂っていたのです。また、8節にあるみだらなことをした者が二万三千人も死んだという事件のことは、民数記25章に書かれています(民数記では二万四千人となっている。)イスラエルの民がバアルを信じるモアブの娘たちとみだらなことをしたからです。とにかく偶像礼拝と性的腐敗はどこであってもいつの時代においても、密接な関係があります。

 イスラエルの先祖たちのある者は、旅の苦しさに負けて主なる神への信頼を失ってしまう者も出てきました。そのために多くの者が蛇にかまれて死んでしまったこともありました(民数記21章4-6節参照)。あるいは不平や不満を抱いて、自分たちの破滅を招いたこともありました(民数記16章参照)。想像するに、たぶんコリント教会内には、パウロに不平や不満を抱く者がたくさんいたのでしょう。しかし彼らの多くは自分たちの不道徳を責められるのは嫌だったに違いありません。パウロはこれらの人たちに、御言葉をもって先祖がやったこととそれに対して神がなされたことを思い出させているのだと思います。11節には、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」とあり、これらの事柄が起こったのは神の警告であって、それが書かれているのは、私たちへの戒めのためであるのだとパウロは語っています。

 古代イスラエル民族がたどった歴史は、単なる過去の出来事ではありません。歴史はまた繰り返します。これらの出来事を顧みることは大切な学びなのです。だから自分は大丈夫だと思っていても気をつけなければなりません。自信のある人ほど倒れやすいからです。自信に満ちているコリント教会の人達に対して、パウロは鋭い警告を与えています。「(12節)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」

 悪をむさぼる心や偶像礼拝、不品行や不平不満やつぶやき、これらは人間に普遍的な罪の姿です。
イスラエル民族が目的の地カナンを目前にしながらそこに入ることができず、40年もの間、放浪の旅を続けたのもこのためでした。今日の私たちも同様です。神の国の約束を知りながらも、前進することができずにいるのは、まさにこのような罪の性質があるからだと思います。

 パウロは、試練に対する積極的な励ましの言葉を述べてこの段落を結んでいます。「(13節)あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 先ず試練は誰にでも臨むものだということです。イエスは神の御子であられたにもかかわらず、苦難を通じて従順を学ばれました(ヘブライ人への手紙5章8節)。私たちも信仰をもって生きていこうとするなら、そこには試練があります。コリント教会の人達にとっては、偶像礼拝への誘惑があり、それを拒否する者への迫害もあったでしょう。この世の歓楽的な生活と信仰生活の衝突もあったでしょう。それから逃れることは大変なことだったと思います。確かにそれらは大きな試練です。しかし私たちの信じる神は真実なのです。人間のように嘘や偽りがありません。大胆に信じて裏切られることはないのです。

 試練は人を陥れるためではなく、鍛え上げるためです。人は様々な試練を経てはじめて、信仰も人格も成長します。ですから試練があっても恐れる必要はありません。神はどんなに試練が厳しくても、それに耐えられるように逃れの道、不思議な解決の道を必ず備えてくださるからです。その試練を乗り越えていく力を与えてくださるのです。さまざまな人生の闘いの中にある者にとってこの言葉はどんなに大きな慰めであり励ましでしょうか。この言葉がパウロの深い信仰生活の体験から語られていることを忘れてはならないと思います。

 イエスが私たちのために祈られた祈りをお読みいたします。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(ヨハネによる福音書17章15節)イエスはいつも私たちと共に歩んでいてくださいます。私たちは誘惑や試練の中で闘うのではなく、むしろ「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙12章2節)主を仰ぎ見ながら生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)