神の王国の到来

2025年5月18日(主日)
主日礼拝
ルカによる福音書 17章20~30節
牧師 永田 邦夫

 本日の説教箇所は、すでに示されていますが、これにさらに18章1節から8節までを加えますと、「人の子イエスが再び来られる日まで、あなたはその備えができていますか。その日まで信仰と忍耐をもって祈り続けなさい。」との一貫したテーマとなっています。

 では早速、本日箇所に入っていきましょう。20節、21節を読みます。
この箇所で21節後半「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」は、その意味が種々と解釈できるとして、神学者間で問題視されてきた箇所とのことです。下線部分のみを記しますと、“あなたがたの只中にある”、“手の届く範囲にある”などに解釈できるとのことです。
 因みに岩波版聖書には、「見よ、神の王国はあなたたちの[現実の]只中にあるのだ。」とあります。考えてみますと、わたくしたちが、御子イエス・キリストによってもたらされた福音を信じて受け入れる時に、神の国の方から、わたくしたち自身に近づいてくださるものと思わされています。

 主イエスがガリラヤで伝道を開始された時、言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)とです。
後は、主イエスがわたくしたちに伝えられたお言葉を、わたくしたちが信仰の心をもって信じ、そして受け入れ、心の中に(心の只中に)神の国の教えを迎え入れるかどうかにかかっているのです。

 22節、23節を見ましょう。「それから、イエスは弟子たちに言われた『あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。』とあります。

ここで「人の子の日」について補足します。「人の子」という言葉は、主イエス自身が頻繁に使われた言葉です。本来は黙示思想(今まで隠されていたことが、わたくしたちにはっきり示され、啓示されたこと)から出た言葉です。

 要するに、終末の出来事、再臨の主の到来の出来事などは、わたくしたちが他者から言われて、どう、こうと動かされる問題ではない、ということです。わたくしたち一人ひとりの信仰の問題なのです。
以上、22節の後半部分は、主イエスが弟子たちに告げ教えられた、“世の終わりのこと”すなわち、終末論的な教えなのです。

 ここで、第二次世界大戦直後、すなわち1945年から今日までの80年間の経験を要約して振り返ってみることにします。
終戦直前の世界大戦で経験した悲惨な経験、すなわち、人類初の原子爆弾の被ばくによる多くの犠牲者を出した経験をもとにして、今後わたくしたちは、原始爆弾を、①決して作らない、②保有しない、③使用しない、の三つを誓った筈です。しかし、今日の世界、各国はこれを厳守しているでしょうか。これには大きな疑問があり、非常に残念なことです。わたくしたちは、このことが約束通りに守られていきますようにと願いつつ祈っていきましょう。

 聖書に戻りまして、本日箇所、ルカによる福音書17章22節、23節には、「人の子の日の到来」(再臨の主の到来)に先駆けて起こるであろう、諸々の前兆、あるいは“しるし”(諸現象)が記されています。しかし、「人々がそれを一日だけでも、見たいと望んでも、それを見ることができないであろう。」そして、「見よ、あそこだ」、「見よ、ここだ」と言うかもしれない。
しかし、あなたがたは、それを見ようとして、決して「出て行ってはいけない」また、「その人々の後を追いかけてもいけない。」と記されています。

 なお、この終末にも関連することとして、社会の人々が、キリストの信仰とは関係なく、種々と噂を広げ、そして社会の人々の不安を煽るような現象が、1990年代の終わりの頃にあったことを思い出します。そのようなことが再び起こらないようにと、これも願うばかりです。

 なお、ルカによる福音書以外にも,終末に関する記事が、「終末の徴(しるし)」として記されています。それは、マタイによる福音書の24章3節~14節、マルコによる福音書13章の3節~13節です。これらの箇所については、どうぞ皆さん各自でお読みください。

 次へ進みます。24節、25節では、「人の子の到来」すなわち、再臨の主の到来時に起こるであろう、より切迫した徴(しるし)のことが述べられています。
24節には「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」とあります。これは再臨の主が来られるときに起こるであろう、“天変地異”を表し、その切迫した現象を表しているのです。

 わたくしなどは田舎育ちですから、稲妻のひらめき、雷など、天変地異的な現象は、幾度となく経験しました。そして段々それが馴れっこになっていました。実際に落雷によって、死者が出た事故もありました。このような事故は、周りの人々にとって、“自然現象を見縊(みくび)ってはいけない”という教訓と戒めでもあったと思います。

 次は25節を見ていきましょう。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」とあります。この箇所は、主イエスが現実の社会で、最初に活躍された当時のことが多く反映されているように解釈できます。それはほかでもなく、迫害からの逮捕を経ての十字架上の苦しみです。

 上記の出来事の中で、主イエスが最初に来られて、活動されたその最期に、多くの苦しみを与えた、その相手は他でもなく、長老、祭司長、そして律法学者たちなど、当時の社会の上層部の人たちでした。

 しかし、この本日箇所で述べられている、その相手とは、「今の時代の者たち」として、一般化された言葉で表されているのも特徴です。
“今の時代”とは、この聖書が記された時代だけではなく、文字通り、今の時代、現代をも表しています。すなわち、社会民衆の発言力、そして、実際の力が強くなってきている今の時代を反映しての言葉でしょう。

 26節以降に入ります。26節には「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。」とあります。この“ノアの時代”というのは、文化が進み、社会の人々の力や発言力が強くなっているのがその一つの特徴です。それは、つい先ほどお伝えしてきた「今の時代の者たち」との共通点として見ることができます。

 では、ノアの時代にどういうことが起こったかを見ていきましょう。(創世記5章から9章を参考にしています。)
 ノアはアダムから10代目の人物です。当時の堕落していた世界を神がご覧になって、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」として、神は人への裁きを決断され、そしてそれを実行されたのです。
 しかし、神が注目されたノアは、神の命令に従って、その指示の通り、箱舟を造り、その中に、家族と、そして指示された動物を避難させたことにより、大洪水の被害から免れることができたのです。
 そして神は、ノアへのこの裁きの後、人の一生を百二十年とされたのです。(創世記6章3節)ノアはまたさらに、新しい人類の祖ともされました。すなわち、人類の第二の段階がノアの時代から始まったのです。
 続いて、ロトの物語(創世記19章1節~38節)を見ていきましょう。
ロトはアブラハムの甥で、アブラハムと共に、カナンの地に移住した後、財産が増えたために、アブラハムと別れて、“悪徳の町”とも言われるソドムに住んだのです。(創世記13章12節)
 そしてロトは、ソドムとゴモラの滅亡寸前に、ヤハウェなる神からの遣いの指示によって、家族と共に、ソドムから出て行ったその日に、「火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」と、ルカによる福音書17章29節後半に示されています。因みに現在でも、死海からほど近い場所(小高い山の中腹)にロトの像が建てられています。

 では、本日箇所の要点を整理し、確認いたしましょう。
 ファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」の問いに対して、主イエスは、「神の国は、見える形では来ない。」具体的に「あそこにある」「ここにある」と言うようなものではない、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と、ちょっと不思議な答え方をされました。
 それから弟子たちに向かっては、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む日が来る、しかし、見ることはできない。」と答えられました。主イエスがここで弟子たちに言われた言葉の意味は、歴史の中に登場し、旧約聖書にも記されている、ノア、そして、ロトの日々のように世の人々に強い印象を与えたのと同じことが、「人の子」の場合にも必ず(再び)起こるということです。

 しかし、弟子たちがその日を一日だけでも見ようとしても見ることができない、と告げられたのです。ここで主イエスが言われていることは、再臨の主(イエス)が再び来る時がある。しかし、あなたがたは、確かな信仰の目と心をもって見なければ、それらを決して見ることはできない、ということです。
 以上の言葉を、そして命令を、わたくしたちは、自分のこととして聞きながら、これからも確かな信仰を持って、共に生きて参りましょう。