2025年6月1日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 22章8~21節
牧師 常廣 澄子
2022年から月に一度のペースで読んできたこのヨハネの黙示録は、本日で結びの部分となります。
ここは黙示録の最後であり、新約聖書の最後にあたります。迫害を受けていた初代教会の人たちはこの書物を通して何を聞き取っていたのでしょうか。彼らは最も神の御言葉が届けられにくい時代、御言葉を聞き取りにくい困難な時代を生きていた方々です。そういう時代にあって、ヨハネが見た幻をもとに書かれたこの黙示録から、神の教えを学び、御心を聞いていたのです。
それから二千年の時を経て、今の私たちにつながっています。もしこの間に生きておられた聖徒たちが、黙示録だけでなく聖書のみ言葉をしっかり聞き取ってその信仰生活を正してきたならば、神の教会としてもっと成長し、豊かな歴史を築いていたかもしれません。しかしながら残念なことに教会は安逸を貪り、危機意識を感じることもなく漫然と生きて来てしまったようなところもあるように思います。とりわけ黙示録は大変奇妙なことが書いてあってわかりにくいからと、ここから聞くことを遠ざけてきてしまったかもしれません。
「22:8a わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。」まずヨハネは、この黙示録を書いたヨハネ自身であり、神の幻を見聞きすることを許された者であるとはっきり述べています。その上で、この自分に神の幻を示してくれた天使の足もとにひれ伏して拝もうとしたのです。すると天使はこの行為を厳しく叱りました。「22:8b聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。22:9 すると、天使はわたしに言った。『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。』」天使が言ったことは、「自分もあなたと同じように神に仕える者である。ただ神だけを礼拝しなさい。」ということです。
礼拝するお方はただ神だけであって、人間は本来、神以外のものを拝んではならないのです。しかし人間は自分が恐れる対象を(それが物であろうと人であろうと)拝もうとします。私たち人間は圧倒的な力を持つ者に対しては、簡単に頭を下げて崇め奉り始めるのです。また偉大な功績を残した人の銅像などを見ると、まるでその人が生きているかのように拝んだりします。偶像崇拝はどこの国でもありますが、真の神ならざる者を神とするような人間崇拝に陥ってしまうことは大変危険なことだと思います。
この黙示録を書いたヨハネが、天使をも拝もうとした自分の過ちをきっぱり認めて語っているのは、人間を惑わして神のように振る舞うものがたくさんいる(ある)からです。ヨハネは自分が見たこと聞いたことこそが真実なのだということを伝えようとしています。天使は22章6節で「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。」と強調しています。つまりここに述べられていることは信じるに足ることであり、信じることが正しくて大事なことだと語っているのです。
では今まで黙示録で学んできたことを少し振り返ってみましょう。まず世界ははっきり二つに分かれていました。一方には神とキリスト、そしてキリストに忠実な者たちがいます。神の民と新しいエルサレムです。他方にはサタンと獣、それに従う者たち、神に背く淫婦バビロンがあります。天には玉座があり、そこに神とキリストがおられます。キリストは屠られた小羊の姿をしています。これは十字架で死なれて復活されたキリストです。キリストは巻物の封印を解きながら幻を見せてくださいます。つまり終わりの時に起こる出来事を支配しているのはキリストなのです。
一方、世の中では竜と呼ばれるサタンが勢力をふるっています。神に敵対するものたちは自分たちを神に似せて装い、獣を礼拝させますので、サタンに惑わされた人々は獣の刻印を押されてしまいます。しかし獣が支配する期間は限られています。終わりの時にはこの二つの勢力が戦って神が勝利を収めます。そして最後の裁きが行われるのです。命の書に名が書かれている者は救われ、名が記されていない者は第二の死に渡されます。死も陰府も滅んでしまいます。死が無くなるのです。最初の天と地は過ぎ去り、新しい天と地が現れます。そこは神自ら、人と共におられる世界です。キリストご自身が言われます。「22:13わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして最後の者。初めであり、終わりである。」このような慰めに満ちた言葉はどこにもないでしょう。キリストがすべての始まりであり、終わりであられるということは、何事も私たちはその御業に与るだけです。神はすべての時を支配しておられます。時間も空間もすべてのことは神の御支配の中にあるのです。
思い返せば、この黙示録は1章1節で「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」という言葉で始まっていました。6節後半にも「預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。」と書かれています。「すぐにも起こるはずのこと」と言えば、事の緊迫性を感じます。聖書が語る「すぐ」という言葉は、「決して遅れない」「後回しにはしない」というように迅速性が意味される言葉ですから、この言葉は、苦しみの中にいる教会に慰めと励ましを与えてくれたのです。その頃の教会は、神に敵対する勢力が支配している世界に生きていましたから、人々は切実に「22:12 見よ、わたしはすぐに来る。」と約束されたお方を待ち望んでいたのです。
7節に「この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」とあります。14節にも「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」と書いてあります。 この黙示録は、私たちを幸いな者となるように導き、幸いな生き方をしなさいと勧めているのです。「幸いである」という言葉はこの黙示録に7回出てきます(1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7節、22章14節)。イエスも山上の説教の冒頭で「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書5章3-4節)と語り始められ、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(同11-12節)という言葉で終わっています。
私たち人間は誰もが幸福に平和に生きていたいと願い、神から幸いをいただきたいと願っています。確かにイエスはここで「…は幸いである」と語ってくださっていますが、それらはどう考えても、私たちが普通考えている幸いとは違うように思います。では神が言われている幸いとはどういうことなのでしょうか。本当の幸いは、アルファでありオメガであるお方、初めであり終わりであるお方のふところにすっぽり抱かれて生きることです。キリストはこの世に来られて、十字架にかかって私たちの罪を贖い、復活されて今天におられます。そこからすべての人々を神のふところに招いておられるのです。この招きに応じて神のご支配の中に生きること、これが神の言われる幸いです。失われることのない本当の幸いです。神は人が滅びることを望みません。神はすべての人がこの幸いに生きることを願っておられます。すべての人がキリストの贖いを知り、赦されて生きることを願っておられるのです。
天使はヨハネに言います。「22:10 また、わたしにこう言った。『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。』」時が迫っている、命の分かれ目が迫っているのだと言います。ちょうど光が強くなると、光と闇とが際立つように、不正を行う者、汚れた者、正しい者、聖なる者がはっきり分かれてくるのです。ですからキリストを信じる者は、キリストの十字架の赦しと復活の命を自分だけのものにしておいてはならないのです。すべての人に知らせなければいけません。キリストは「22:12見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」と言われています。私たちはすべての人がキリストの救いを知って救いに与れるように祈り、励まなくてはなりません。
それは難しくて大変なことかもしれませんが、私たちには希望があります。「22:14 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」私たちの衣を洗い清めてくださるのはただキリストだけです。キリストによって私たちは都に入ることができ、命の木の実をいただくことができるのです。「わたしは門です。」と言われたイエスのお言葉を思い起こします。
しかし今なお、門を入らず、多くの人が都の外にいます。「22:15 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」その人たちの所には、キリストご自身が行ってくださいます。あの日、キリストは都の外で十字架に架けられました。都の外にいる人たちのために血を流され、その罪を贖ってくださったのです。その光が輝いている都の門は決して閉ざされることがないのです。何と有り難く感謝すべきことでしょう。
「22:16a わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。」ここに書かれている「使い」とは誰のことでしょうか。天使も預言者も、幻を見て黙示録を書いたヨハネも、キリストが遣わされた使いの一人です。神は人間を用いて神の愛と救いを語られるのです。すべてキリストを信じる人たちを、キリストは用いられます。私たち一人ひとりがキリストの証人としてこの世に遣わされているのです。
キリストはご自身を紹介して言われます。「22:16bわたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」旧約時代から延々とイスラエルの民はどんなに長い間ダビデの末から現れるメシア(救い主)を待ち望んでいたことでしょう。そのメシア待望の長い期間を経てイエス・キリストが来られました。そのキリストがもう一度来たり給うて終末的な決着をつけられるのです。
今の時代はまさに終末を思わせるかのような暗黒の中にあります。私たちはその中で光を求めています。明け方、あたりがまだ真っ暗な中、太陽が輝き出るのに先立って金星が輝いているのを見ることがありますが、その明けの明星が輝くと夜明けが近いことがわかります。今がどんなに暗い闇の中であっても、この闇が永遠に続くのでないことがわかります。明けの明星は「もうすぐ朝が来る」ことを告げ知らせているからです。主イエス・キリストこそが私たちの望みの星です。そしてこの星を真っ先に見つけるのは、主の花嫁である教会と、内におられる御霊です。「22:17 ab“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。」明けの明星を真っ先に見つけた霊と花嫁は「来てください」と言います。その声を聞いた人たちも言います「来てください」。その声は水の波紋のように全世界に広がって行くのです。
「来てください」という私たちの声が波のように広がって行く時、すべての人に聞こえるように、キリストの言葉が聞こえてきます。「22:17cd渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」21章6節にも「渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。」とありました。私たちは渇いています。人間はどれほど長い間渇いた心で生きてきたことでしょう。ついにキリストが来られて命の水を飲ませてくださるのです。この水を飲むのに代価はいりません。値なしにただで飲ませていただけるのです。この水がただで飲めるのはなぜでしょうか。それはキリストが代価を支払ってくださったからです。イエスはサマリアの井戸のそばで女に言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)
救い主イエスは復活して天に挙げられましたが、再び来てくださいます。イエスは言われます。「22:20 然り、わたしはすぐに来る。」その言葉に応えて私たちは言います。「アーメン、主イエスよ、来てください。」私たちは主イエスが早く来てくださることを切に待ち望んでいます。
この後で主の晩餐がありますが、御国での祝宴を思いながら、心から感謝して晩餐に与りたいと思います。そして主が来られて神の国が来るのを「マラナ・タ(主よ、来てください)」と待ち望みつつ、生きていきたいと願っております。