ローマの信徒への手紙

思うことと行うこと

ローマの信徒への手紙 7章7~25節牧師 常廣澄子      私達は今朝もこうしてご一緒に主なる神を礼拝するために集まっています。真の神を信じる者とされ、日々その神に導かれ、助けられ、守られて過ごせることを心から感謝したいと思います。ところで、このような恵み豊かな信仰の旅路を歩んでいる私達ですけれども、神を信じる者の生活がいつも平安と喜びで満たされているとは限りません。

霊に従う生き方

ローマの信徒への手紙 7章1~6節 牧師 常廣澄子      ローマの信徒への手紙を少しずつ読み進めています。この6章から8章にかけての大きなテーマは、真の神を信じる信仰を与えられた人が新しい人生を歩んでいく、つまり、神の御心に添うように聖なる者となっていく「聖化」ということです。6章では、罪からの自由について書いてありました。この7章には律法からの自由、律法からの解放が取り扱われています。

神の賜物は永遠の命

ローマの信徒への手紙 6章15~23節 牧師 常廣澄子    前回は、14節の御言葉「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」にありますように、私たち神を信じる者は、罪の赦しという恵みの下にいることを教えられました。そしてこの恵みの福音に秘められた神の力は大変力強くて、私たち人間を変革していく力があること学びました

新しい命に生きる

ローマの信徒への手紙 6章1~14節 牧師 常廣澄子     ローマの信徒への手紙を書いて来たパウロは、ここまで人間の罪と神の義ということについていろいろと語ってきました。つまり、人間が神の前で義とされるのは、律法を行うことによってではなく、キリスト・イエスの贖いの御業を信じることによるのである、ということを繰り返し語っているのです。そして5章の終わりでは、「(20節)律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」というように、人間の罪が重ければ重いほど、神の恵みもまたいっそう強く働くのだと、いわば逆説的ともとれるような発言をしています。

アダムとキリスト

ローマの信徒への手紙 5章12~21節 牧師 常廣澄子    私たち人間が住むこの地球上で、今、国と国がいがみあい、人間同士が殺し合いをしています。理由がどうであれ、人が人を殺すということはやってはならないことです。一方的で独善的なこのような戦争は、誰が見ても誰が聞いても理不尽なことではないでしょうか。いったい人間の心には何があるのでしょうか。人間というものは、どうしてこのような行動を起こすのでしょうか。国と国の関係だけではありません。私たちはすぐ身近にいる人に対してさえ、妬みや憎しみという悪い感情を抱いてしまい、ついには殺人にまで発展してしまうことがあります。

神にある平和

ローマの信徒への手紙 5章1~11節 牧師 常廣澄子     4章では、アブラハムの生涯やダビデの言葉などを通して、神を信じるとはどういうことか、信仰の本質について学んできました。続くこの5章では、信仰によって救われて義とされた者の祝福と喜びについて語られています。「(1節)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」信仰によって義とされた者は「神との間に平和を得ている」というすばらしい約束です。平和(エイレーネー)という言葉は、あらゆる善と祝福を意味する言葉です。ユダヤ人は挨拶の時に「あなたに平和がありますように!」と言いますが、それは平和だけではなく、あらゆる善と祝福がありますように!という意味です。

アブラハムの信仰

ローマの信徒への手紙4章13~25節 牧師 常廣澄子 本日はローマの信徒への手紙の4章から信仰について考えていきたいと思います。今、私たちは見える世界の中にいますが、信仰というのは目に見えない世界のことです。1節に「肉によるわたしたちの先祖アブラハム」という言葉がありますが、私たち人間は身体という肉体を持っていますから、肉に従って生きています。つまり生から死へという生き方です。しかし、信仰の世界、見えない世界に目を向けた時、そこには霊による生き方、死から生へというよみがえりの人生に生きる生き方があるのです。私という人間を、神から支えられている者、神と関わる霊的な人格として認識するということです。

信仰による義

ローマの信徒への手紙 3章21~31節 牧師 常廣澄子    前回は「義人はいない」ということについてお話いたしました。人間は神から与えられた律法、あるいは一人ひとりの心にある良心によって物事の善悪を知るわけですが、人間はどんなに頑張っても神がお求めになられるような正しい生き方、つまり律法を完全に守って生きていくことはできないということです。しかしながら自分の力ではどんなに努力しても神の御心にそった生き方ができないと気づかされることによって、神の前に罪人であることを悟っていくのです。それが20節の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」ということでした。実に12節にありますように「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」というのが現実の人間の姿なのです。

義人はいない

ローマの信徒への手紙 3章1~20節 牧師 常廣澄子     前回は2章の後半の御言葉から聞いてまいりました。自分達は神に選ばれた民であり、その証拠に割礼を受けていることや、律法が与えられていることを誇って

心に施された割礼

ローマの信徒への手紙 2章17~29節 牧師 常廣澄子    私たちが今読んでいる聖書は、旧約聖書と新約聖書とを合わせて一つにまとめられていますが、旧約聖書(ヘブライ語聖書)には、律法という人間に対する神の約束ごとがいろいろ書かれています。