神の義を求める信仰

ローマの信徒への手紙 9章30節〜10章4節

 ローマ書の中心的なメッセージは、“信仰義認”の言葉に要約することができます。そしてその根拠は、神の義に基づく福音の到来です。1章16節、17節に、福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であり、福音には神の義が啓示されております。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです、とあります通りです。

 さらに、本書1章から8章までは、個人の救いについて、また9章から11章までは全人類の救いのことが記されています。そして8章の最後の段落、37〜39節には、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方(神)によって輝かしい勝利を収めています。そして、どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。との言葉がありました。

 ところが直後の、9章1節〜5節でパウロは、“心に絶えることのない深い悲しみ、痛みがあります”と、未だ福音を信じていない同胞イスラエルを思う心境の告白がありました。これはまた、神による全人類の救い、という視点で、先に神に選ばれ、栄光や律法を神からいただいたイスラエルが、今後一体どうなるのだろうか、とイスラエルを思う心の痛みです。その後、9章30節まで、福音の源である、神の義、神の主権によって示された数々の業が示されておりました。

 これに続いて、30節「では、どういうことになるのか。」と、神の義、福音に対して、異邦人とイスラエルが、それぞれどのように応えて来たかが記されております。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」と、まず両者の比較があります。

 異邦人は、義を求めるのではなく、イエス・キリストの十字架と復活によって実現した福音を信じ、そしてそれを受け入れたのです。しかし、一方のイスラエルは、“義の律法”を追い求めていたのに律法に達しませんでしたとあり、悲しい結果となっております。「義の律法」この言葉は聖書でここにしか登場しないことばです。繰り返しですが「義」は神の義であり、イエス・キリストを通しての福音の実現となりました。そしてこれを信じる全ての者は神によって「義」としていただけるのです。一方のイスラエルは、この義と律法を結びつけ、律法を行うことによって、自分の力で義を得ることができる、と思い込んで律法を行ってきたために、「義」はおろか、律法にも達しなかったのです。すなわち、イエスさまの貴い頭石を“つまずきの石”にしてしまったのです。わたしたちは、値なしに義としてくださるイエス・キリストの福音を信じて受け入れて、さらにこれからも福音に根差した力強い歩みを続けて参りましょう。

(協力牧師 永田邦夫)