本国は天にある

フィリピの信徒への手紙 3章17〜21節パウロはあちこちで、神に受け入れられるために必要なのは律法を完全に守ることである、という誤った律法主義を批判しています。救いを得るには律法をしっかり守ればよいのだという律法主義はキリストの恵みの福音とは全く相反する考えです。しかし、パウロがここで「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです(18節)。」と語っているのは、そういう律法主義者ではなく、キリストを信じて教会の仲間になっている人たちの問題なのです。そういう人たちの中に、キリストの十字架、その愛と赦しを否定するような生き方をしている人たち、キリストの十字架を無用とするような生き方をする人たちがいたことが問題となっています。

信じたとおりになるように

イエスが「山上の説教」を終えられ、カファルナウムに戻られた時の出来事です。当時カファルナウムがあるガリラヤ湖周辺地域は、ヘロデ・アンティパスという領主が治めており、そこにはローマ軍が駐屯していました。その軍隊の百人隊長が、イエスが山から下りて来られるのを待っていたかのように、近づいて来て懇願したのです。(6節)「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」彼は文字通り百人ぐらいの部隊の隊長ですが、どうも権威を笠に着て威張っている人間ではないようです。自分の部下が病気になったことを心配しています。兵隊の多くは傭兵だったようですが、彼は部下を極力大事にしていたに違いありません。ともに戦場を駆け巡って忠実に働いている仲間を何とか助けてやりたいと思ったのでしょう。その思いは、彼が直接イエスの所に出向いたことでわかります。

良くなりたいか

エルサレム神殿の東側に「羊の門」という門があり、すぐそばにベトザタと呼ばれる池がありました。この池の底からは鉱泉が沸き出ていたようで、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても癒されると言われていました。それで池の周囲の回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。これらの病んだ人々は治りたい、病をいやされて人間らしく生きたいという望みをもって、水が動くのを待っていましたので、そこには自分が誰よりも先に入りたいという生きるための戦いがありました。

水がぶどう酒に

イエスは30歳頃に家を出られ、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられました。その頃からイエスの周囲に弟子たちが集められていきました。そしてそれらの弟子たちと共に行動されるようになって、イエスの公生涯が始まって行ったと言えます。そしてその最初になさった御業がこのカナの婚礼での出来事です。ここでの舞台は、結婚式というより結婚式後の披露宴、結婚を祝う宴会での出来事です。当時の結婚の宴会は大変華やかで、豊かな家では宴会が七日間も続いたそうです。この物語では、婚宴に招待した人数を考えて、たくさんの食べ物や飲み物が用意されていたのでしょうが、宴会の途中でそれが足りなくなってしまったのです。母マリアがそれに気づいてイエスに伝えますと、イエスはそれを咎めるどころか、すぐに召し使いたちに命じて清めのための水がめ六つに水を満たすように言いました。主の御業の陰にはいつでも、御言葉に従順な人の姿があります。それを汲んで世話役に持っていくと、何と今までのぶどう酒よりももっと上等の美味しいぶどう酒になっていたという奇跡です。

神が望んでおられること

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(16-18節)このみ言葉はクリスチャンの誰もが愛唱する聖句です。この手紙を書いたパウロ自身が、いつもそれを願っていたのではないでしょうか。このテサロニケの信徒への手紙は、パウロが書いた最も初期の手紙だと言われており、最後の手紙はフィリピの信徒への手紙だと言われていますが、その4章4-6節にも同じように喜びと祈りと感謝について語っています。テサロニケの信徒への手紙を書いた時から、時が移り、事情が大きく変わっていてもパウロの生き方の根本精神は全く変わっていなかったのです。「喜ぶこと、祈ること、感謝すること」はパウロの信仰の骨幹をなす精神だったのだと思います。

すべての人への憐れみ

ローマの信徒への手紙の9章~11章は、“全人類の救い”を大きなテーマにしておりまして、11章25-26節「すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」はその結論に当たります。 そして、神に先に選ばれたイスラエル、および異邦人が、御子イエス・キリストを通して与えられた福音に、どのように応えてきたか、また一方、神はその両者すなわち、イスラエルと異邦人をどのように救いへと導いて来られたか、これが全体の内容です。 では結論に至るまでの全体の要点を先に確認しておきましょう。9章の冒頭で著者パウロは、心の内にある同胞イスラエルの現状を思い、心の痛みを吐露しつつも、偉大な神への賛美で始まり、そして、11章の最後も神賛美で終わっています。要するに“全人類の救い”は人々には計り知れない神の大きな計画の中にあって、恵みと憐れみに満ちた出来事なのです。では要点を見ていきます。

わたしの父の家

この世界には多くの人々に感動を与える人生を歩まれた素晴らしい人たちがたくさんいます。そのような偉大な人の一生は伝記として出版され広く読まれています。私たちはイエスの幼少期や若い頃に興味を覚えますが、残念ながら聖書には、イエスの誕生物語と公生涯に踏み出されるまでの間には長い空白期間があり、ルカによる福音書2章だけが少年イエスについて語る唯一の箇所です。

導かれる幼子イエス

イエス様の誕生を祝って真っ先に駆けつけたのは、野原で羊を飼っていた羊飼いたちでしたが、その後で、占星術の学者たちもはるばると遠い東の国からお祝いに詣でたことが書かれています。彼らを迎えたユダヤの王ヘロデは、ユダヤの王の誕生と聞いて、自分の地位を脅かすものとして恐れます。占星術の学者たちは宮殿を去り、ベツレヘムに行って幼子イエスに会うと、夢のお告げによってヘロデの許に帰らず、別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。一方、ヨセフの夢にも主の天使が現われ、ヘロデがイエスを探し出して殺そうとしているから、エジプトに逃げるようにと告げたのです。ヨセフは驚いて、夜のうちにイエスとマリアを連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいました。イエスは常に神の護りと導きの中にありました。

イスラエルの残りの者

ローマ書9章~11章は、いわば“全人類の救い”を大きなテーマとして進められており、その11章に入った1節で、直前の段落までの“異邦人がイスラエルより先に神の義を得ている”と記されていることなどを踏まえつつ、「では尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」と、問いを発し、その直後に「決してそうではない」と否定しておりますが、それは、詩編94篇14節の、「神は御自分の民を決しておろそかになさらず、御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。」に基づき、「神は、前もって知っておられた御自分の民を決して退けたりなさいませんでした。」と、神の普遍的な愛を示しております。続いて2節後半では、「エリヤについて聖書は何と書いてあるかを知らないのですか」と、列王記上17章から19章に記されている、いわゆる“エリヤ物語”の中で、神がエリヤに示されて大きな恵みと、愛のことを喚起させようとしております。

天に栄光、地に平和

ルカによる福音書が伝える、イエス・キリストの誕生のメッセージについて、2019年度のクリスマス・イブ礼拝の説教からお届けいたします。 第一に、イエス・キリストの誕生のできごとは、“神が人となって世に降って来られた”出来事です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)と示されていますように、神は、すべての人を救い、永遠の命を与えるために、その独り子を惜しまず世に遣わされました。