戸口に立つ方

ヨハネの黙示録 3章14~22節  ヨハネの黙示録には七つの教会に宛てた手紙が収められていますが、今朝の御言葉はその七番目のラオディキアにある教会に宛てた手紙です。エフェソの教会から始まって、一つひとつの教会を使者が訪問してこれらの手紙を届け、その教会の礼拝に出席して手紙を朗読したのだと思います。お気づきのように、これらの手紙はほぼ同じようなパターンで書かれているのですが、似ている所とそうでない所があります。それは、どの手紙にも最初のところに、どういうお方からの手紙かということが書かれているのですが、ラオディキア教会への手紙の冒頭は、大変重々しい表現でイエス・キリストについて表現されています。

神の国を継ぐ

コリントの信徒への手紙一 6章1~11節 聖書の民であるユダヤ人は、争い事を法廷に持ち出す前に、その地域や会堂の長老に諮って事件を解決していました。この手紙の著者パウロもまた、ユダヤ人として育ち、またファリサイ派のラビから律法を学んでいましたから、人間

主イエスを信じなさい

使徒言行録 16章25~34節 パウロは大きくまとめて三回の伝道旅行をしました。今の時代に旅行といえば、誰にとっても気分がリフレッシュされる楽しい時ですが、パウロの時代の旅行、しかもイエスの福音を宣べ伝えながらの旅行は決して楽しく楽なものではなかったと思います。今のように便利な交通手段はありませんし、宿泊場所にしても食べ物にしても、どんなに大変で困難な旅だったことでしょうか。また各地を巡りながらの伝道旅行は、パウロが語るキリストの福音を受け入れ、信じて救われる人が起こされる場合もあれば、逆に福音に反対してパウロたちを迫害する人たちもいました。

正しい裁き

ローマの信徒への手紙2章1~16節 前回は、1章の後半部分から、人間の不義ということについて考えてまいりました。神の存在を無視し、神の御心を離れた人間の心は、羅針盤を失った船のように、どこまでも人間本来の道か

種まきのたとえ

ルカによる福音書 8章1節~15節 本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。その箇所は、8章1節から15節です。「早速、本日箇所に入りましょう」と言いたいところですが、この福音書では、主イエスさまは、その伝道において大きな転換期を迎えようとしておりますので、そのことを先に確認したうえで、本日箇所に入っていきたいと存じます。

開かれた門

「ヨハネの黙示録」の著者ヨハネがアジアにある七つの教会に宛てて書き送った手紙の六番目は、フィラデルフィアの教会に書き送られたものです。これらの七つの教会は皆それぞれの教会が置かれている地名で呼ばれています。その中でもフィラデルフィアという名前は、アメリカに同じ名前の大都市がありますが、何か親しみ深い感じがします。

種なしのパン

コリントにある教会の問題は、第一には分派争いでしたが、今度は別の問題が持ち上がりました。それはある教会員が犯した不品行つまり不倫の問題でした。「(1節)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」ここに書かれている妻とは、おそらく父親よりもかなり年の離れた若い妻であったのでしょう。形式上は彼女の息子であるはずのこの男性が、母親となっている彼女と不倫の関係にあるというのです。これはコリントの教会がどんなに堕落していたかがわかる事例です。

目を覚ませ

今日はヨハネの黙示録3章のサルディスにある教会に宛てた手紙から、主の御言葉を聞いていきたいと思います。今までアジアにある七つの教会の一つひとつに宛てた手紙を読んできましたが、サルディスにある教会は五番目の教会で、先日のティアティラにある教会の東南にあり、ここからさらに東南に下ると最後の七番目の宛先であるラオディキア教会があります。ここにある七つの教会はすべて現在のトルコ共和国の西海岸近くにあります。

神が約束されたもの

イエスが十字架上で贖いの死を遂げられたのは、およそ二千年前のことですが、イエスは金曜日の午後3時に息を引き取られました。日没になると安息日が始まりますから、イエスのお身体はすぐに十字架から取り降ろされて、アリマタヤのヨセフが提供した新しいお墓に葬られました。ところが、安息日が終わって朝早くに女性たちがお墓に行ってみると、大きな石で塞いであったはずなのにイエスのお身体がなかったのです。驚く女性たちに向かって、天使が言いました。「あなたがたがさがしているイエスはよみがえられたのです。」女性たちは本当にびっくりしたと思います。最初は何を言われているのか理解できなかったかもしれません。

わたしに倣う者に

コリント教会では「私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファに。」という争いがありましたが、それもまたこの問題に関わることです。パウロから見れば「私はパウロにつく、私はアポロにつく」と言っていること自体が、自分を目立たせようとし、自分を正当化しようとしていることに過ぎない、そういう党派心もまた自分を偉く見せようとしていることだというのです。そのリーダーが自分と親しい者だと言っていることだからです。ですから3章18節でパウロは「あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」と勧めています。言い換えれば、自分が正当な一人前の人間だと思っている人は、一人前の人間になるために愚かな者になりなさい、ということです。パウロは人間の評価や判断よりも神の思いを大事にしていました。それで4章の始めで、私を裁くお方は主である、人間を義とされるのは主なる神だけだ、ということを語っているのです。