テサロニケの信徒への手紙一 5章12〜24節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(16-18節)このみ言葉はクリスチャンの誰もが愛唱する聖句です。この手紙を書いたパウロ自身が、いつもそれを願っていたのではないでしょうか。このテサロニケの信徒への手紙は、パウロが書いた最も初期の手紙だと言われており、最後の手紙はフィリピの信徒への手紙だと言われていますが、その4章4-6節にも同じように喜びと祈りと感謝について語っています。テサロニケの信徒への手紙を書いた時から、時が移り、事情が大きく変わっていてもパウロの生き方の根本精神は全く変わっていなかったのです。「喜ぶこと、祈ること、感謝すること」はパウロの信仰の骨幹をなす精神だったのだと思います。
私たちはどんな時に喜ぶのでしょうか。私たちは何か良いことがあったり、欲しいものが手に入ったりすると喜びますが、このみ言葉が語る喜びは少し質が違います。「喜ぶこと、祈ること、感謝すること」と深く結びついているのは「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」であり、これは神が共におられることによって始めてなされることなのです。つまり「主と共に生きること」それが喜びであり、祈りとなり、感謝となっていくのです。これら三つは別々のことではありません。主イエス・キリストを信じるという一つの根から派生してくる生き様です。
しかし「喜びなさい」ということは命令されてできることではありません。喜びは感情ですから、どんなに努力しても意志の力でそうすることはできません。パウロが「喜びなさい」と語っているのは「喜びの源である主を仰いで生きていきなさい」という勧めなのです。だからこそ「“霊”の火を消してはいけない」(19節)と付け加えているのです。“霊”の火というのは、私たち信じる者の心の中にある、神からいただいた命の光です。私たちが自分で火をつけたのではありません。なぜなら、主の霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは言えないからです。
毎日毎日ずっと解決できない苦しみの中に置かれている方もおられますし、誰にでも悲しい事が起こります。しかし、主を信じる者には、どんなに苦しく辛い事があっても、たとえ何が起きても必ず主が共にいてくださるという約束があります。また、こんな私のために主があの尊い救いの御業をなしてくださったのだという感謝の思いが湧き起こってきます。ですから、私たちは何が起きてもいつも心の内側には喜びがあるのです。そしてその感謝は祈りとなって天に上っていくのです。
この箇所はこの手紙の結びの部分に当たり、パウロは何度も「兄弟たち」と呼びかけて、主イエスを信じる者たちの共同体を形成することに思いを傾けていることがわかります。主を信じる信仰は、主の共同体無くしては起こりえませんし、信仰の喜びは、愛する者たちとの交わりがあってこそ生まれてくることをパウロは良く知っていたのです。当時は、主イエスの再臨が近いことを思って、仕事を放り出してしまう人たちもいましたし、迫害のために臆病になっている人たちもいました。そういう弱い人たちを思いやり、広い心で相手を受け入れ、悪をもって悪に報いることのないように、全ての人に善を行うようにとパウロは勧めているのです。「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」その広い心は、御霊なる主と共に歩むことに深く根差していることをしっかり覚えたいと思います。
(牧師 常廣澄子)