詩編62編 1〜13節
この詩編は1節に、賛歌、ダビデの詩とあります。しかし、必ずしもダビデが歌った歌というわけではなく、周囲から攻め寄せてくる多くの敵を前にして小国ユダヤの王の立場をとって歌った詩人の歌にダビデの名を冠したものだと考えられています。その前のところに「指揮者によって、エドトンに合わせて。」とありますが、エドトンというのは、宮廷楽人の一人の名前で、エルサレム神殿にはじめて聖歌隊を作った人だと言われています。彼の名前がその後聖歌隊そのものを指すようになっていったようです。
この詩編にその名を冠したダビデについては、私たちはいろいろなイメージを持っていると思います。羊飼いの少年だったダビデは、ペリシテ人の大男ゴリアトを石投げ紐と小石一つで打ち倒してしまいました。その後、初代の王サウルに仕え、サウルの息子ヨナタンとは深い友情で結ばれていましたが、サウルに命を狙われ続けました。またサウルの後を継いで王となってからは、今度は自分の息子アブサロムに命を狙われるようになるのです。ダビデの生涯には絶えず誰かに命を狙われる危機的な状況があったわけです。
(4〜5節)「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う。」ここからは、敵に追われているダビデの立場や状況を想像することができます。彼は仲間に捨てられ、迫害され、窮地に陥っています。彼は自分の存在がまるで、今にも倒れそうな壁、倒れそうな石垣に思えました。友人たちは親しげにふるまいますが、心の中は偽りと憎しみに満ち、命を奪おうとして攻撃してきます。彼の信仰は危機に瀕しているのです。背景にはそのような状況がありますが、この詩人にとっての当面の敵はパレスチナの小さな国を圧迫し、自分たちを不当に扱っている国々のことです。
この小さな国を支える立場に立つ者としての詩人は、神に向かってこのように語ります。(2節)「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」(3節)「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」この詩人はただ沈黙することこそが神に向かう姿勢だと言っています。そして、「(わたしの魂は)ただ神に向かう」彼はただ神だけを頼みとして、他のいかなる助けも期待していないことを宣言します。ただ静かに神からの声に耳を傾けること、それは神を信頼しているからできることです。神を信頼できない人はじっとしていることができません。何かしないと落ち着かないのです。
詩編の中にはいろいろな祈りが記されています。私たちが知っている詩編の多くは、自分が今陥っている危機的な状況を訴え、神に助けを求めて祈るわけですが、そのように祈りながらも、その心では、神はどうして自分の祈りに応えてくれないのか、神はどうして沈黙しているのかと、すぐに応えてくれない神を恨み、右往左往している姿が描かれています。しかし、この祈りは、危機的状況にいながら、黙って神を待ち望んでいるのです。騒ぎ立て、慌てふためくのでなく、その反対で、静まって神を待ち望もうとしています。
静かに瞑想する時間を持つことは神に近づく姿勢です。沈黙というのも祈りの一つの形なのです。つまり、祈りというのは必ずしも言葉を発する必要はないということです。心を静めて黙って神の前に出ることは、神に向かう謙虚な姿であり、神の配慮を待つための大事な心構えであると思います。そしてそのためには、何かに追い立てられていたり、何かをしなければと落ち着かない状態ではなく、心にゆとりがあることが必要です。
けれども、心にゆとりがあることが大事であるとは分かっていても、現代人は日々の生活の中でとかく忙しい忙しいと動き回っています。たとえ身体は動いていなくても、その心の中ではあれこれと勝手に想像して思い悩み、パニックになっていることがあります。そういう時こそ、私たちはこの詩人の言葉に耳を傾けたいと思うのです。
実は心の中にある不安や心配といった荒波、魂の戦いというのは、神に向かうことによって治まっていくのです。人は神の前に静まることによって平静心が与えられます。2節「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」は、逆にして「ひたすら神に向かってのみ、わが魂は静かである」と訳すこともできるのです。
詩人は、ひたすら黙って神の前に出ていた時、自分の救いや支えはただ神にあることを発見していきます。彼は自分の魂が静かになることを覚えました。彼は不安と恐れから脱し、自分の足が再び固い地盤の上に立つことができたのを感じました。それでもう決して動揺しないと告白できたのです。3節「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」今、目の前にある課題、解決しなくてはいけない問題、それは自分の力ではどうなるものでもない、自分の守りも、自分が逃れる場所も、すべては神が備えてくださるのだと気づいていったのです。
人は神に目を向けることによって、自分の存在を神の方から見ることができるようになっていきます。すると人間的に見るなら、自分(あるいは自分たちの国)は今にも倒れそうな壁、あるいは崩壊寸前の石垣であるかのようであっても、そういう絶望的な気持ちが消えていき、神の力が背後で支えていてくださるのだから倒れることはないのだ、「わたしは決して動揺しない。」という信仰が与えられるのです。
また、この詩人は2〜3節にある神への祈りの言葉を、その後6〜7節で再び繰り返しています。それは「神にのみ、わたしは希望をおいている。」と自分に言い聞かせているかのようです。置かれたところにじっと留まって、主に期待しながら生きる姿勢です。やれることをやって、後はじっと待つのです。新型コロナウイルスの時代に生きる私たちも、私たちにできることをしながら希望を持ち、神の時を待ちながら生きていきたいと思います。
沈黙してただ神に向かった彼の心の動揺は静まりました。彼がこの体験から学んだことは、救いは神のもとにあり、神から来るということです。生きる土台と目的が真の神に置かれるならば、人生のすべてが希望と平安で満たされるということです。詩人はこう語ります。8節「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」自分の救いも、自分の栄誉もすべては神にかかっている、そして神のもとに自分の力、頼み、避けどころとする岩があるのだと言います。ここで力と訳されているのは、ヘブライ語で「オーズ」という言葉で、神の守りという意味もあります。12節の「力は神のものであり」の時も同じ言葉が使われています。この力は人間の中から出る力ではなく、神から与えられるものです。
詩人はこの素晴らしい体験を隠すことができません。自分と同じように心を神に向け、神に聴き、神への信頼に生きるように呼びかけます。9節「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎだせ。神はわたしたちの避けどころ。」この民に向けられた言葉は口先だけでなく、心からの確信に満ちた言葉です。民よ、私に倣って神に望みを託そうではないか、ということです。「御前に心を注ぎだせ」というのは、神を信頼して、神に心を開き、心にある不安や悩みをすべて打ち明け、ありのままの自分を神にさらしなさい、ということです。
(10節)「人の子らは空しいもの、人の子らは欺くもの、共に秤にかけても、息よりも軽い。」「空しいもの」というのは外側だけで中味の無いこと、「欺くもの」とは外形と中味が一致していないことで、「人の子ら(人間)」がはかない、頼りにならない存在であるということです。ここは口語訳聖書では「低い人はむなしく、高い人は偽りである」となっています。(身分の)高い人であろうと低い人であろうと、この両方を合わせて秤にかけてみても、息よりも軽いのだというのです。
神に向かって生きることの素晴らしさは、人と比べて生きる空しさから解放されることです。人間はともすると人と比べて生きています。どちらが偉いか、どちらが得か、どちらが幸せか、どちらが儲かるか、、、、そのように人を勝ち組、負け組に分けようとします。自分が上にいれば安心し、下にいれば慌てふためいて妬みの心が生じるのです。そういう価値観そのものが中味のない、息のようなものです。そのように勝ち負けを決めたところで、そこに本当の慰めがあるでしょうか。人の価値や力、能力はその人自身から出てくるものではなく、神から与えられるものではないか、だから大事なことは神により頼むことなのだ、詩人はそのように語っているのです。
(11節)「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。」詩人は神の真理を尺度として人の世を冷静に批判しています。人間存在の空しさは、人間が権力を行使して暴力を振るい、他者を搾取し、力が力を生むことに心を奪われるという力のメカニズムによるのだと指摘して、その恐ろしさを警告しています。これはまるで今の香港で起きている出来事を表しているかのようです。そして権力や武力に依存するなと警告します。それらのものが永遠に存続しない空しいものであることを見通しているからです。
最後に12〜13節「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた、力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と、ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる、と。」詩人は神から授かった教えを語ります。
神の側から見るならば、一度語られたならばそれで十分ですが、人間の聞き方は十分ではありませんから一度では徹底しません。それゆえ神はふたたび語られ、詩人はふたたびこれを聞いたのです。第一に力と慈しみも神のものだということです。慈しみの無い力は信頼に値しませんし、力の無い慈しみもまた信頼に値しません。そして第二は神が人間一人ひとりにその業に従って報いをお与えになるということです。
私たち人間は、神の前にある小さな存在にすぎませんが、神の御子の命が捧げられるほどに尊い存在です。そして神に信頼をおいて生きることが許されています。愛と力に満ちた神は、神を信頼して従ってくる人を見捨てず、豊かな恵みを持って応えてくださるのです。この詩人は自分の前に起こった事実をありのまま見て、またこれを実際に体験して、確信と希望を持って、人々を神の力と慈しみの中に生きるように招いているのです。今朝、私たちもまたその恵みの御座に招かれています。私たちはいつも神の愛と力に護られていることを感謝し、神への希望をもって生きていきたいと願っています。
(牧師 常廣澄子)