神を畏れる生活

ペトロの手紙一 1章13〜25節

 今、私たちの第一の関心事は新型コロナウイルスのことではないでしょうか。誰もがどこに潜んでいるのかわからない、目に見えない小さなウイルスを怖がっています。確かにそれは恐れなくてはならないものですが、今朝は信仰者が畏れるべきものは他にあることをペトロの手紙から聞いていきたいと思います。それは「神を畏れる」ということです。

 このペトロの手紙は、キリスト教会が迫害を受け始めた頃の手紙です。ペトロは(1:1)ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して信仰を守っている人たちに対してこの手紙を書き、その生き生きした信仰を喜んでいるのですが、彼らは今、イエス・キリストを信じたがゆえに、試練の中にあるわけです。そういう人々に対して、どのようにして信仰者としての生活をきちんと守っていけばよいかを心を込めて書いているのです。

 ペトロは、救いはイエス・キリストによって与えられ、イエスの再臨の時にその救いが完成するということを語ってきました。そのことを「ひたすら待ち望みなさい」と言っています。「(13節)だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」「ひたすら」というのは、「(ふらふらせずに)望みをしっかり持って」ということです。そしてその態度を、「心を引き締め、身を慎んで」と表しているのです。当時の人たちは裾の長い衣服を身に着けていましたが、走り出す時や、何か仕事をする時はそれが邪魔になりました。ですから裾を短くまくりあげて、腰のところで紐で縛って活動し易くしていました。そのように私たちの心を「引き締めていなさい」といっているのです。

「身を慎んで」というのは、しらふでいること、つまり酒に酔っていない状態をいう言葉です。実際にお酒を飲んで酔っ払って、現実から逃げるような行為をしないというだけでなく、霊的な面でも、自分自身の真実の姿を見ようせずに無自覚であったり、熱狂的な意見に惑わされて浮ついた状態になってはならないということです。つまり、いつも健全で均衡のとれた判断力を持って、神を信じる者としての堅実さを失わないようにしなさいということです。

 しかし実際に逃げないで人間の現実の姿をしっかり見るなら、私たちはたいてい悲観してしまいます。特に今の社会の姿は見るに堪えない残念なことが多いです。いろいろな発言を聞いたり、事件を知ったりする毎に心が沈んでしまいます。将来が見えず、何も期待できないからです。しかしここではそうではありません。「イエスが現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」そのようにペトロは自信を持って語り励ましています。希望を持って生きるのはキリスト者の大きな特権であり特徴です。キリスト者は希望を持って生きているからこそ、現在の試練に耐えることができるのです。

 そして、いつも目を覚まして聖い生活をするようにと勧めています。なぜなら地上での聖い生活が、天における完成に至るからです。「(14〜16節)無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」ペトロはその聖書的根拠としてレビ記11章44〜45節を引用しています。

「無知であったころ」それはどんな時でしょうか。イエスがこの世に来られる前の世界について考えてみましょう。人間が真の神を知らずに過ごしていた頃は、せいぜい神秘的な神を想像するくらいでした。哲学者がどんなに研究しても神を見出すのは困難でしたし、普通の人が神を理解するのはさらに困難で不可能なことでした。古代の人々は神や神々が存在していることを疑うというよりも、神は自分たちの知りえない存在だったのです。手紙の宛先である彼らが住んでいた異教世界では、神は確かに大きな力を持つ強い者であるというイメージはあっても決して愛ではありませんでした。人間が助けや希望を求めたくても、どこにその目を向けてよいのかわからなかったのです。

 ペトロたちがイエスの福音を携えて入って行った世界の有様をみるなら、その社会のあまりの肉欲的な有様に驚きます。その社会の最下層に置かれていた者の貧しさは人間とは言えないくらいの生活で、想像できないほど絶望的なものであり、最上層に至っては考えられないくらいの贅沢な暮らしでした。そこは不道徳な悪徳が横行し、情欲に支配された世界でした。人間の欲望や快楽を満足させるために、より残虐で野蛮な方法を見出すことに情熱を傾けるような世界だったのです。しかし、今がそうではないと誰が言えるできるでしょうか。現在の社会もまた同じように歪んでいます。

 そのような社会にある基本的問題は、人が生きていく目的を持っていないことでした。人生というのは、刹那的な快楽以外に何の楽しみもないものであり、生きているのは無為な業であり、最終的に来るのは永遠の虚無でした。イエスを知らない人生というのは、無知と欲望に引きずられた無意味の人生ということになります。それは神を知らない人々の間に、現在もなお続いています。

 そうではなく、神を父として知った者は、これまでの無知で自分勝手な思いで生きてきた生き方を捨てて、神の前に「従順な子となる」のです。神が聖であるように、信じる者もまた聖なる者となり、そして「聖なる者」としての生き方が始まるのだとペトロは語ります。この「聖なる者」と言う言葉は「聖人」という意味ではありません。もともとは「区別する」と言う意味です。神のものとしてきちっと分けられることです。聖なる神を信じる者は聖なる者となり、あらゆる行いやあらゆる生活態度が変わっていきます。これまでの古い言い伝えや先祖から教えられてきた空しい生活から、神の光のもとへと引き出されたからです。それは大いなる特権に与かるだけでなく、大いなる責任をも引き受けることです。ですからキリスト者はその生活が幾分なりとも神の聖さを反映するものとなり、その行為が幾分なりとも神の愛を表わすものでなければならないのです。

 ペトロがこのようなことを語るのは、おそらく当時の人々が抱えていた悩みや問題がわかっていたからだと思います。彼らはイエスの福音を信じ、信仰者として一所懸命生きていたことでしょう。しかし福音伝道が始まったばかりの当時の教会はとても小さな群れです。その中で必死に生きようとしても、勇気を失ったり望みを無くすようなことがたくさんあったのです。福音を信じたとはいえ、なお先祖からの言い伝えや習わしを引きずって悩んでいたのだと思われます。彼らはそういうものと闘いながら、毎日神にある聖さを求めて一歩一歩と歩み始めていたのです。ペトロはそれを思ってこのように励ましているのです。

「(17節)また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」ペトロは神のことを「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」だと表現します。公平にというのは、顔を見て区別しないという意味です。顔パスというのがありますが、神の前で顔は効かないのです。何年教会に来ていようが何年信仰生活をしていようが関係ありません。神はその心を御覧になり、公平に判断されるのです。「その公平に裁かれるお方を畏れて生活しなさい」とペトロは語ります。

 ここでは本来、神を恐れるべきなのは、まだ神を知らずに悪いことばかりしている人々なのでしょうが、神を信じている者に向かって神を畏れなさいと言うのです。当時、せっかく神を信じたのに迫害に遭って苦しい目に遭う人がいました。神を信じたばっかりにひどい目に遭うなんて、神様どうしてくれるのですかと文句を言っても良い状況にいます。そのような人々に向かって、神を畏れなさいというのです。ここでの畏れは神の偉大な力に降参し委ねることです。なぜなら神を畏れる心から迫害に耐えて生きるたくましい生活、神の恵みに溢れた生活が生まれてくるからです。

 救われるというのはただ神を信じる心から来ます。救いとは神の前に義とされる事です。その義というのは実は神に対する畏れの心です。私たちはむしろ救われてこそ、神の偉大さを知り、義なる真の神を畏れることを知っていくのです。恐れるべきは人間ではありません。畏敬の念という言葉がありますが、それは自分が神の前にある小さな存在であることを知り、この世では旅人であるを知っている人の心です。ペトロもそれを知り「この地上に仮住まいする間」と語っています。キリスト者は神に向かって生きているのです。

「(18〜19節)知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」「知っての通り」とありますから、この個所は彼らが良く知っていた言葉だったのでしょう。もしかしたら皆が集まった時、自分たちの信仰告白として語っていたのかも知れません。ここにはイザヤ書53章の苦難の僕の預言を思い出す「小羊のようなキリストの尊い血」という言葉が書かれていますが、イエスは真に「きずや汚れのない神の小羊」でした。そのイエスの死によって私たちは奴隷のような罪と死の束縛から解き放たれたのです。そしてさらにイエスが死から復活されたことによって、信じる私たちもまたイエスと同じように栄光ある命に与かる者とされたのです。

「(20節)キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」ここには人間には計り知れない大いなる思想が語られています。驚きますが、イエスは天地創造以前にそのわざをすることが予定されていたというのです。私たちは、神が世界の創造者であり、その後、人間が罪を犯したがゆえにイエスによってこの世界を救う道を見出されたのだと考えています。しかしここには、神が世界の創造者である前に、贖い主であるという驚くべき主張があります。神の贖いの計画とその愛と力は、やむを得ず取られたものではなく創造以前にさかのぼるのだというのです。神は創造者であると同時に贖い主であるという思想は、ヨハネの黙示録にも見られるものです(黙示13:8)。人間に対する神の愛と力は計り知れません。

「(21〜22節)あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」この真理とは「私は道であり、真理であり、命である」と言われたイエスの福音です。私たちはその真理を受け入れ、魂を清められました。それが救われたということです。この世で真理に従って生きようとすることは決して簡単で楽な道ではありませんが、ここでは真理は私たちに望みを与えるものだと励ましています。また真の神に従っている私たちは、神の聖さによって生きている者ですから、偽りのない愛によって兄弟を愛します。キリストに満ちた人生は兄弟愛、隣人愛の人生なのです。

「(23〜25節)あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」

 すべてのものは滅んでいき、何もかも過ぎ去っていきます。しかし、永遠に変わらないもの、私たちの中に住み続けて動かないものがあります。それは神の言葉です。私たちはその言葉を受け入れた時に新しく生まれ変わりました。神のものとして作り変えられました。ここには朽ちない種から生まれた神の命があります。ここでペトロはイザヤ書の40章6〜8節のみ言葉を引用しています。これは長いバビロン捕囚という祖国滅亡の民に向かって約束されたイスラエル回復の預言です。慰めに満ちた神の約束です。ペトロはそれを力強く語ります。神のみ言葉の約束に立ち帰ろう。人間はそこ以外にどこにも寄って立つ所はないのだと。「草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に変わることがない。」キリスト者はこの永遠に変わることのない生きたみ言葉を土台として人生を生きる者です。神の生きたみ言葉の中身は愛です。新型コロナウイルスのために人と人が不審のまなざしでギスギスしている今こそ、私たちの生活に愛があふれますようにと願っています。

(牧師 常廣澄子)