祝福を受け継ぐ者

ペトロの手紙一 3章8〜22節

 今朝の御言葉はペトロの手紙一の3章からですが、この最初の部分は「(8節)終わりに」という言葉から始まっています。著者ペトロはここまで書いてきて、そろそろ最後のまとめに入ろうとしているのです。「(8〜9節)終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

「(8節)皆心を一つに」ここの「皆」は、すべての者という意味で、単に自分の教会員だけでなく、あらゆる教会のすべての主を信じる信徒を指しています。ペトロの手紙が回覧されて、あちこちの教会に持ち運ばれて読まれたことから考えると、どこにいたとしても主の民として一つ思いでいてほしい、というペトロの気持ち伝わってきます。

「(9節)悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」これは「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典から出ている同害報復法を否定するものです。同害報復法というのは、「やられたらやりかえす」という際限のない報復を奨励するのではなく、反対にそれを阻止して、報復に制限を加える意図から生まれた規定です。しかし、たとえ制限されているとはいえ、報復を認めていることには変わりありません。それをイエスは山上の説教(マタイ5章参照)で批判されました。イエスの教えはよく誤解されますが、これは無抵抗主義ではなくて、非暴力抵抗の精神を教えられたのです。この精神はインドのガンジーやアメリカのキング牧師に受け継がれています。キング牧師は、信仰による勇気をもって行動し、悪に対して悪を返さず、不義に苦しむ者が受け継ぐ祝福を勝ち取ったのです。

 この「(9節)悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」はマタイによる福音書でイエスが語られた「悪人に手向かってはならない(マタイ5:37)。」と対応しています。その後の「(9節)かえって祝福を祈りなさい。」というのは、同じように「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)。」に対応し、「(9節)祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」は、「あなたがたの天の父の子となるためである(マタイ5:45)。」という教えと対応していることがわかります。このように、ここでペトロが勧めている内容は、マタイによる福音書にあるイエスの教えを、言葉を替えて語っています。ペトロがイエスの山上の教えをしっかり心に留めていたことがわかります。

 ペトロが語るそういう教えや勧めの根拠となるのが、続いて書かれている詩編(34:13〜17)からの引用です。「(10〜12節)命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
 この詩編34編は、ある人が「救われた者の感謝と教え」という題をつけたほどに、素晴らしい内容の詩です。神を信じて生きる者が、この世で正しく生きていくためにどのような心構えが大切であるのか、その生活についての教えです。ペトロはその教えを少し変えて引用し、神を信じる者の日々の生活での言葉と行為という振る舞いについて、実践的な知恵を教えています。

 ペトロがこの手紙を書いている時代というのは、キリスト教徒への迫害が始まり、身の危険を感じる厳しい時代でした。当時はローマ帝国という巨大な権力機構の支配下にあり、しかも周囲はすべて異教社会です。ペトロはそのような状況に置かれている小さな信仰者の群れに対して語っているのです。その状態の中にあって信仰を守って生きていくためには、知恵が必要でした。また彼らを勇気づけ、慰め、信仰に堅く立って忍耐をもって生きるようにと教え導いていくことが必要でした。ペトロは、この手紙を受けとる人たちに対して、殉教的精神をもって闇雲に世間に立ち向かっていくような方法ではなく、信仰者の知恵をもって生きることを勧めているのです。

 ではどのように生きるのでしょうか。それは現在でも私たち信仰者の課題ですが、8節に書かれていることがそうです。つまり、8節の言葉を少し変えて言うならば、「皆が一つ心となり、隣人や他者に共感し、また共に苦しみを分かち合い、またそのような感性を磨き、互いに愛しあい、憐み深く、慈しみの心をもって、謙遜に、また謙虚に生きること」が大切だと説いているのです。

 信仰はただ自分のためだけにあるのではありません。神の御言葉は、人間が神の御心に添って生きるように、つまり人間が隣人を愛し、世界の平和をつくり、世界を救うためにあるものです。ドイツでナチス政権への反対運動によって逮捕され、死刑に処せられた神学者のボンヘッファーは、獄中からの手紙で、「キリスト者であることは、祈ることと正義を行うことである」と語っています。ここでの「祈ること」というのはその人の信仰や霊性を指しており、その心をもって「人々の間で正義を行う」のがキリスト者であると語っているのです。

 この「人々の間で正義を行う」ということは、隣人への関心と関与があってこそ生まれる思いであり行為です。主を畏れる信仰があるところには、必然的に隣人への愛が生まれて来るのです。信仰が精神的なもの、個人的なものに留まってしまうなら、他人との関係が失われ、自己に執着し、自分の考えに拘泥して、自己絶対化に陥ってしまいます。そして遂には他人を裁くようになってしまうのです。

「(13節)もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」この「害を加える」というのは、奴隷が虐待されるように、身体的、精神的な苦しみを言います。「(14節)しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」ここもまたマタイによる福音書の山上の説教でイエスが語られたことに対応している個所です。

 ここでは「義のために苦しむ者は、幸いという祝福を受ける」と語っています。だから、人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけないというのですが、当時のキリスト者たちは「皇帝」や「総督」の支配下で生きなければならなかったのです。今では考えられないくらい、立場や地位に格段の差があった社会です。権力者は簡単に人を殺すことができました。そのような中で、弱く小さな群れであるキリスト教徒たちに向かって、人々を恐れたり、心を乱してはいけないと言うなんて、いったい何をよりどころとして生きていったらよいのでしょう。それはただ自分たちが畏れるべき存在はキリスト・イエスの神だけであるという信仰をしっかり持ちなさいということです。もし何か他のものに力があるかのように思った時には、そこに恐れが生じて来るのです。そしてそこから偶像崇拝が生まれて来ます。
 ですから、「(15節)心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」と語っています。キリスト者にとっての希望がどこにあるのか、確信をもって生きられるように、眠ったままの信仰でなく、いつも目を覚ましていることが求められているのではないでしょうか。

 ペトロはこのところで、信仰者が体験する様々な試練について語っています。社会悪に対するもの、家庭内の不条理に対するもの等いろいろありますが、どんな問題に直面した時でも、動揺したり、取り乱さないように、つまり感情的にならないようにと勧めています。「(16節)それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」悪に対して、悪をもって報いず、善をもって悪に対していく。そのような生き方を勧めているのです。そのお手本がキリストの受難の出来事です。

「(17節)神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」ここでは、神の御心に忠実に生きようとする者が、正しいことや善を行って苦しむならば、それは神のみ手にある喜びへと引き上げてくださるのだといいます。「(18節)キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」ここは、罪人である私たちの不義のために苦しまれたキリストと、今、この世の不義のために苦しんでいるキリスト者を対応させています。どんな時にも私たちの生きていく道備えはイエスが歩まれた道にあります。御足の跡に従っていくようにと勧めるペトロの心には、いつも主イエスのお姿があったのだと思います。

「(19〜21節)そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」

 ここは、わかりにくい部分ですが、創世記6章のノアの洪水物語が背景にあります。当時、ノアの時代に人々を悪の道に導いた霊が獄中にいるというユダヤの伝承があったそうです。キリストがいつその霊に救いの福音を宣べ伝えたのかはわかりませんが、キリストが私たち人間の次元を超えた力で、その霊に神の福音を宣べ伝えられたということです。つまりキリストの復活と召天によって、キリストのみ業と言葉が悪の力に完全に勝利したことが語り伝えられているのです。

「(22節)キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」私たちの信仰は、受難と死と復活を通して勝ち取られたイエスのこの世に対する勝利を根拠としています。ここには救いの確かさが記されています。

 先週、私たちはイエスのご降誕を祝うクリスマスの恵みの時を過ごしました。また新型コロナウイルス感染症が猛威を振るう中、私たちはこの一年も主の豊かな憐みによって守られました。神が私たちに対してどんなに大きな愛を注ぎ、救いの御業を完成してくださったか、そして、神の豊かな祝福を受け継ぐ者としてくださったかを今一度覚えつつ、心からの感謝をささげて新しい年を迎えたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)