ペトロの手紙一4章1〜11節
今、人間社会は、昨年から続く新型コロナウイルス感染症蔓延という危機的な状況の中にあります。感染した方の中には急速に病状が悪化して亡くなられる方もおられます。死は本当に残酷で限りなく悲しい出来事です。ご本人もご家族もどんなにか無念であり辛く悲しいことでしょうか。このウイルスの怖さと共に、私たちの命の終わりである死が、いつ誰に訪れるかわからないことを思います。今朝お読みした個所に「(2節)神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」というみ言葉があります。私たちは、若い方も年を重ねて来られた方も誰もが平等に一年一年歳を取っていきます。そしてそれがいつ終わりになるかは誰にもわかりません。歳をとるということは自分の残りの生涯を数えていることでもあるわけです。
このペトロの手紙は、手紙というよりも素晴らしい教えと勧めに満ちています。7節には「万物の終わりが迫っている」とあり、自分の人生の終わりのことだけでなく、世界の終わりを告げ知らされている者にふさわしく生きるようにと勧めています。
私たちは各々、その過程は様々でありますが、福音が告げ知らされたことによって神の御子イエスの贖いの御業を信じ、真の神を知ってバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンとなりました。おそらく誰もが、その時の喜びと感動を覚えておられると思います。そして聖書のみ言葉に支えられ、教会や礼拝を大事にして生きていこうと決心したと思います。その初めの思いが変わらずにずっと続いていけば良いのですが、私たちの生活はそんなに単純なものではありません。人生の浮き沈みのように、信仰生活にも波があるのです。
ペトロはそのような弱さを持つ私たちのことを良く知っています。ペトロ自身がイエスを否んだことがあり、自分の弱さを身をもって知っているからです。それで、信仰がふらつく私たちに向かって、苦しみを通って勝利を得られたイエスの姿を思い起こさせるのです。「(1節)キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」苦難を通って救いの御業を完成させてくださったキリストに倣って、神を信じる者もまた各々の苦しみや困難を通って、人間的な欲望や誘惑に打ち勝って生きることを勧めているのです。「武装しなさい」というのはまるで戦争をするかのような表現ですが、私たちを神から離そうとする悪の力との戦いに備えなさいという比喩的な表現です。
「(3節)かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」ここでの異邦人とは神を信じていない者のことです。神を信じない者が、神を無視して自分の欲望のままに生きている姿がここにあげられています。私たちも神を知る以前はそのように生きていたわけで、神の御心に従った生活ではありませんでした。そこで「(4節)あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。」神を信じた者は、今までの仲間と一緒に正気を失ったような、ただ浪費しているだけの行いをやらなくなったので、彼らの怒りを引き起こして悪口を言われたりいじわるされるというのです。
ここの「加わる」というのは「一緒に走る」という意味です。人間は欲望に囚われると、それを捨てきれずに仲間と一緒にその快感に身を委ねてしまい、止めることができなくなるのです。悪いと分かっていながら走り出したら止まらなくなることは、人間のよくある姿です。身近なところではアルコールに溺れることも、性的なことや暴飲暴食もあるでしょう。仕事においてもあるかもしれません。あらゆる事において、人間は自分の欲望や利得にかられて悪事を重ねて突っ走ってしまうのです。
そういう生き方がもたらす滅びの危機について、ペトロは、人間の欲望を神として生きる生活を捨てて、真の神の御心に従う生活へと方向転換を促そうとして語ります。「(5節)彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」これは人間の裁きについて語っています。パウロはローマの信徒への手紙5章12節で語っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入りこんだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」ですから罪が無かったら死もありませんでした。死は罪に対する罰、死そのものが裁きだったのです。私たちは人間を造られた真実の神に立ち帰って生きることが求められているのです。
そしてペトロは、イエス・キリストの救いは、イエスが来られる前に死を迎えた人々にも告げ知らされることを語ります。「(6節)死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」ここでペトロは、3章19節で語ったこと、つまり、キリストが死人の世界に降って行って、そこで福音を宣教したという驚くべき思想をもう一度語り、それに続けて、死によって裁かれた人でも、なおもう一度福音を受け入れ、神の御霊によって生きる機会があるということを語っています。そうであれば、これは聖書の中でも最も素晴らしい箇所かもしれません。
今、私たちの世界を新型コロナウイルス感染症の脅威が覆っていて、先行きが見通せない状況にありますが、少なくとも明らかなことは、この世にあるすべてのものには例外なく終わりがあるということではないでしょうか。ペトロは語ります。「(7節)万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」これはペトロがこの手紙を書いている時代の緊張した状況を反映しています。イエスが天にお帰りになってもう何年も経っていて、イエスを信じる者の群れ、キリスト教会は少しずつ力をつけてきましたが、教会に対する反発や迫害もまた強くなっていたのです。この後には恐ろしいネロの迫害が起ころうとしている時期です。世の中が緊張して混乱してくると、教会の中には動揺して希望を無くす者が現われますし、逆に世間の抑圧に反発して人々を扇動し熱狂的な行動をとる者もあらわれたことでしょう。そういう状況にある時、まず大切なことは何でしょうか。それは私たちに与えられている神の救いを信じ、真の神をしっかり見上げる信仰に立って生きるということです。
まず「万物の終わりが迫っている」万物は永遠ではありません。自分をも含めてこの世の中にあるすべてのものは神によって造られたもの、終わりあるものです。すべてのものは神の御手の中にあるという信仰を持って、今世界で起きていることを正しく見ていかなくてはなりません。そしてそのためには「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈る」ことが大切だと語ります。つまり分別を持って冷静に行動し、祈りを通して主の御心に聞いていく者となりなさいとペトロは勧めているのです。
この世界には、何か事件が起こるとそれを世の終わりだといって触れ回り、人々を不安に陥れる人達がいます。しかしそういう人はこの世が救われることよりも、ただ自分たちだけが救われることを求めています。しかしイエスにあって万物の終わりを知らされた者は冷静です。不安や深い闇が人々を覆って、人々がその暗さに絶望している時も、イエスにある者は目覚めて祈ることができます。神に祈る者はこの世に執着していません。分別を持って物事を冷静に見つめ、神がこの世を愛してくださっていること、この世を救うために御子をさえも送って十字架を負わされたことを思って、希望を持って生きることができるのです。
「万物の終わり」というのは、神の救いが完成する時であり、イエス・キリストが再びおいでになる時です。その終わりの時を知らされているのは世にある教会です。今この世にある教会は厳しい試練を体験しています。しかし希望があります。今は教会でご一緒に礼拝ができず、共に讃美歌も歌えませんが、教会の礼拝で歌う賛美は、神のみ業を感謝し、終わりの日に主が再び来られることを喜び祝う賛美です。神に背く力が世界を覆い、教会や信仰者の息の根を止めようと働いている中で、礼拝で神を賛美する歌が歌われている。それは礼拝の度に主イエスが私たちのところに来てくださっているからです。主イエスはこの暗い世に私たちを星のように輝かせ、希望を持って生きる群れとしてこの世に置いてくださったのです。ですから私たち万物の終わりを知らされた教会の群れは、さらなる福音宣教へと力強く立ちあがることができるのです。
今は、人々の愛が冷えている時代です。新型コロナウイルスが世界を覆ってから、それが極端になってきました。自己中心の生き方をする人が増え、愛が壊れ憎しみが世を支配しています。そのような世界にあって、私たちイエスを信じる群れは助け合って生きています。人間の愛が冷えていく時こそ、そこに神の愛が染み渡っていくことを知っているからです。実に神の御子イエスが人間の罪を贖ってくださったことにより、私たち一人ひとりに神の愛が無限に注がれています。神の愛によって赦された者は他者を赦すことができるようになります。神の愛を信じる者はこの世の人々を愛し、癒し、和解し、良き世界を造る者として立ちあがります。「(8節)何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」人間社会においてはこのことに勝る教えはないと思います。憎しみは相手の罪や咎を厳しく見つめ、それを暴露し、攻撃し、倒すことを願います。しかし、愛は相手の罪を覆うのです。イエスが私たちにしてくださった事がそれを表しています。私たちが隣人の罪を覆うために与えることができるのは、イエス・キリストによる罪の赦しという大きな愛です。私たち自身がキリストの愛と恵みに覆われているからです。
愛には様々な面がありますが、他国の旅人をもてなすことも、キリスト者の大きな愛の証しでした。「(9節)不平を言わずにもてなし合いなさい。」当時ローマ帝国には多くの旅人がいました。彼らを主にある兄弟として受け入れ、イエスに仕えるように仕えたのです。このようなもてなしの心がホスピタリティという言葉を生み、ホスピスという今に至る素晴らしい施設を生み出しました。
また、私たち一人ひとりには神から様々な賜物が与えられています。「(10節)あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」善い管理者(オイコノモス)は、それらの賜物があくまでも主人から預かったものであり、自分のものではないことを知っています。それらを主人の御心に添って使うことが自分に与えられた責任だとわきまえているからです。賜物を土の中に隠しておいてはいけませんし、私物化してもいけません。賜物は神に捧げ、他のために役立て、生かされるべきなのです。「互いに仕えなさい(ディアコネオー)。」というのは、僕として仕えることです。私たちが人々に与えることができるものはすべて神の恵みです。神の恵みを表すために私たちは皆それぞれに違った善き賜物をいただいているのです。私たちは神の恵みの善き管理者でありたいと願います。そしてそこに賜物を捧げて互いに仕えあう美しい共同体が生まれるのです。
そして「(11節)語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」語る者は人間の言葉ではなく神の言葉を語るにふさわしく語らなくてはなりません。その言葉の権威はその人ではなく神にあり、語る者は神に仕えているからです。奉仕もまた、自分の力で行っているのではなく、一切は神から与えられた力でできることです。ですから語る者も奉仕する者も「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。」とすべてのことで神にある栄光を賛美するのです。どんな時も神の愛と恵みが私たちを覆っていてくださるのですから、私たちは、肉における残りの生涯を、神の恵みの善き管理人として生きていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)