ガラテヤの信徒への手紙 2章15〜21節
今、全世界を覆っている新型コロナウイルス蔓延という災害の中で、私たちの社会はおよそ人間らしい生き方ができない状態になっています。人が近づくことや集まることを避け、会話することを避け、教会での礼拝は休止や動画配信になっていて、ご一緒に主を賛美する喜びも奪われています。このように昨年から今に至るまで、新型コロナウイルス蔓延防止のために自由な行動が制限され、私たちの生活はひたすら忍耐と我慢が強いられています。そして一年が過ぎた今では多くの方が疲れを覚えてきたように思います。人々の心にはいつこの事態が収まるのだろうか、一日も早く元の生活に戻りたい、との願望があふれています。
つい先日やっと日本にもコロナワクチンが到着し、ワクチン接種が始まりました。これで少しずつ事態は改善し落ち着いてくるとは思いますが、そういう厳しい状況にいる私たちをここまで支えてきたのは何だったのでしょうか。私たち主を信じる者にとってのそれは、御言葉の約束を信じて神に祈ること、そして神の守りを信じて生きる信仰ではなかったでしょうか。神への信仰に生きるということはいったいどういうことなのか、今朝は、パウロの語っている言葉から聞いていきたいと思います。
まず「(15節)わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」ここを読むと、キリストを信じたパウロが、今なおユダヤ人とか異邦人とかそのような区別をしているなんておかしいと思うでしょうが、これはその前に書かれている事柄と関係しているのです。その前の11〜14節には、パウロがペトロの行為を非難する言葉を語っています。福音を宣べ伝えていたペトロは、それまでは異邦人と一緒に食事をしていたのに、エルサレムからユダヤ人たちが来たと知るとつい世間の目を恐れて彼らから身を引こうとしたのです。それでパウロはペトロたちが真理に従って正しく行動していないということを指摘せざるを得なかったのです。
当時はユダヤ人の誰もが15節に書かれているように、生まれながらのユダヤ人であることを誇っていました。自分達は神に選ばれた民であり、滅びゆく異邦人のような罪人とは違うのだという意識を持っていたのです。ユダヤ人は神の律法を与えられていましたが、異邦人はその律法を持っていませんから、律法の教えを守らない罪人だと言われていました。少なくともユダヤ人は異邦人をそのように見ていたのです。またユダヤ人は、自分たちは律法を持っているだけでなくそれを行っているという自信がありました。パウロ自身もそうでした。しかしパウロはここで、確かに自分もかつてはそのような人間の一人であったけれども、今はそうした考え方やその行為は真の神の前ではいっさい空しいことであったと語り始めたのです。
「(16節)けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
ここには、人が義とされるのは律法の実行によるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのだということがはっきり語られています。ここで語られているパウロの言葉は、人間パウロの言葉ですけれども、福音の神髄を語る神の言葉といっても過言ではありません。
ここには「義」という言葉が何度も出てきます。この「義」という言葉は、私たちが「正しい」という評価を受けることです。しかし人が正しいということを、誰がどのように判断し評価するのでしょうか。また自分が正しいということなど、誰が確信をもって言うことができるでしょうか。現代のように多様な価値観があり、価値基準のあいまいな時代にあっては、その評価は大変困難なことです。
例えば、ある出来事があって非難されている人は、「今はどう思われていようと、自分が死んだ後に、きっと私が正しかったことが分かってもらえるだろう。」と思っているかもしれません。また「たとえ今は誤解されていても、自分の死後にはきっと誤解も解けて皆が分かってくれるはずだ。きっと正しい評価を受けるはずだ。」と思って自分を慰めている人がいるかもしれません。
しかし人間がつくる社会は、起こった事実をいつも正しく後世に語り伝えているというわけではないのです。歴史上の人物を考えてみてもその評価は様々です。誰の言っていることが一番正しいかは分からないわけです。次々と新しい資料が出てきてそれが読み解かれてくると、流布されていた歴史がいかに不確かなものであったかが判ったりします。
つまり、現在でも将来でも、人が自分のことを正しく理解し、正しく評価し、正しく受け入れてくれることなど遂に来ないかもしれないのです。そして人間は自分自身でさえも自分がどうしてそのようなことをしたのか分からなかったり、自分で自分を受け入れられない時さえあるのです。そういう人間に対してパウロがここで語るのです。自分をありのまま受け入れてくれるところがある、それは神のみ前であると。私たち人間が本当の意味で正しく生きるためには、私たちが神のみ前に立つことであり、そして神のみ前で正しく受け入れられ、正しく評価されること以外にはないのだと。それがイエス・キリストへの信仰によって「義」とされる道なのだと説いているのです。実際、人が義であるという評価の基準は、神との関係においてのことです。ですから義ということは私たちが命の根源である神と正しい関わりを持っているかどうかということに他ならないのです。
ユダヤ人は律法を実行することが義である、つまり正しいことであると信じていました。しかし、そうではない、神の前に義(正しい)とされるのは、イエス・キリストへの信仰によるのであるということがパウロがここで強く訴えていることなのです。これが福音です。そして「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる。」ということが福音の一番大事な中味です。パウロはユダヤ人として律法を守る生活をしていた時はそのように考えることができませんでした。ただイエスの福音に触れた時始めてそのことが分かったのです。また福音によって自分が罪人であることが分かったのです。私たち人間は自分が罪人であることが分からなければ、救いの恵みを受けとることはできません。そのためにはまず福音に接しなければならないのです。パウロは律法を実行しないことが罪だと考えていました。しかし福音を知り、救いということがどういうことかがわかった時始めて、自分たちユダヤ人も異邦人も全く変わりなく同じように神の前には罪人であると悟ったのです。人を悔い改めに至らせるのは福音です。
福音とはイエス・キリストを信じて救われる信仰です。「(16節)これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」人はキリストへの信仰によって義とされるのであって、自分の行為によって義とされるのではないということです。
「(17節)もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」この文章は少しわかりにくいかもしれません。これは、「もしキリストを信じて神に義とされたいと願っている人が、そのために律法を軽んじたとしたら、ユダヤ人からおまえは罪人だと非難されるかもしれない。そうだとすれば、律法を軽視させたかのように見えるキリストは、罪人を造った者、すなわち罪に仕える者だということになるのだろうか。断じてそうではない。」という意味です。
確かにイエスも律法を重んじられ、戒めという言葉を使っておられます。マルコによる福音書12章での律法学者との対話では、「第一の掟は、これである。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」と言われました。イエスによれば「律法は神を愛することである」というように集約することもできます。実際、律法を本当に守るためには神に対する愛がなければできないことです。しかし人が律法を守ろうとする時は、とかく神に対する愛を忘れてしまって、何かの法律を守るような感覚で命じられていることだけを行おうとしてしまうのです。しかし神が人間にお求めになるものは愛であって、規則を守ることではないのです。
そういう神の御心を忘れて、パウロも多くのユダヤ人と同じように律法に生きようとしたのです。そして律法を行うことを通して誇ったのは自分であって神ではありませんでした。パウロはユダヤ人である誇りを持ち、律法の元で律法を守って生きていく自分の力を過信していたのです。しかしある時それが幻に過ぎないことを示され、罪人である自分が分ったのです。その時、パウロを救ってくれたのが十字架のキリストでした。パウロは十字架のキリストによって律法に死ぬことができたのです。キリストの十字架はキリストが私たちの代わりに死んでくださったことです。ですから、それは私たち自身がキリストと共に十字架につけられたことです。パウロは、自分は神に対して生きるために律法に死んだ(19節)と言っています。
パウロが死んだというのであれば、では今生きているのは何者かということになりますが、死んだのはもちろん肉体を持ったパウロではありません。パウロの中にある古いものが死んだということです。パウロは「自分の肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです(ガラテヤ5:24)。」
パウロは「(20節)生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言い切っています。
キリストが自分の内に生きているというのは不思議なことです。しかしそれがキリストを信じる者の生き方なのです。それはその人のすべてがキリストの支配の中にあるということです。それは言い換えると自分が生きているのではなくて、キリストが自分を支えて生かしているということです。パウロはそのことをはっきり語っています。「(20節)わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」ここには神の愛が込められています。
キリストは私たち人間を愛しておられるのです。十字架はその証拠です。神が私たちを愛してくださったので私たちのためにご自身を捧げてくださったのです。さらに重要なのは、それを私たちが信仰をもって受け入れたということです。そしてその事実をもとにして生きるようになったということです。だからその信仰のゆえに、キリストは信じる者の内に在って生きておられるのです。
このようなパウロの信仰は「(21節)わたしは神の恵みを無にはしません。」という言葉に尽きると思います。神の恵みを無駄にしないというのが神を信じる者の生き方です。パウロは十字架の救いを語り、恵みによって救われるためになすべきことを必死で考えたことでしょう。少しでもそれを妨げるものがあってはならないと考えたわけです。そして「(21節)もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」と語るのです。もしも律法の実行によって義が与えられるのであれば、キリストは無駄に死なれたことになってしまうのだと。何より大切なことはキリストが何のために誰のために死なれたのかということをしっかり受け止めることです。
神は私たち人間との関係を正しくすることを願っておられます。人が私をどのように評価しようとも、どんなに私が自信を無くして落ち込んでいようとも、死にたいくらい辛い時でも、神は言われるのです。「私はあなたのすべてを知っている。」「私はあなたを受け入れている。」「私はあなたを愛している。」「私はあなたと共にいる。」と。イエス・キリストへの信仰を持つなら、私の内にキリストが生きていてくださいます。私たちが真実でなくても神は絶えず真実なお方です。コロナ禍の中で大変厳しい毎日ですが、インマヌエルの主と共に生きていけますようにと願っております。
(牧師 常廣澄子)