主を待ち望め

詩編130編1〜8節

 今朝はルターが深く愛したと言われている詩編130編から神の御心を聞いていきたいと思います。この詩編は8節までの比較的短いものですが、豊かな感情表現が盛り込まれていて、人間の罪と神の恵みとの間の深い関係が示されている御言葉です。有名な讃美歌258番(日本基督教団出版局発行讃美歌)は、ルターが自分の気持ちをこの詩編の御言葉に託して作られたと言われています。この讃美歌1節の歌詞は、「貴きみかみよ、悩みの淵より 呼ばわるわが身を 顧みたまえや。み赦し受けずば きびしき審きに たれかは堪うべき。」というように、130編の御言葉がそのまま基になっています。

 この詩人は深い淵の底から神に呼ばわっています。「(1節)深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」ここでの詩人の悩みは、身体的な苦痛とか病気、あるいは、死を願うような苦しみが問題ではないようです。読んでいくと分かってきますが、この詩人の問題は、神から遠く離れている、神との間に越えがたい断絶があるという苦悩です。そしてここで叫んでいるのは、この詩人の個人的な問題であったかもしれませんが、神から捨てられたかのような苦難に満ちた歴史を歩んでいたイスラエルの民の叫びだとも考えることができるのではないでしょうか。唯一の真の神を離れて、神ならぬものに従ったりするイスラエル民族の罪と、その救いの歴史の狭間で、神に呼ばわっているイスラエル共同体の祈りとして読むこともできると思います。

 今、人間社会で起きている新型コロナウイルスとその変異株ウイルスの感染拡大という苦悩の中にあって、私たちもまた深い淵の底にいるかのように思える時があります。私たちは日々「主よ、いつまでこの苦しみが続くのですか、どうかあなたの救いの御手を伸ばして、速やかにこの世に平安に暮らせる社会を来たらせてください。」と祈り続けています。日々主の御名を呼び続けているのです。その思いはこの詩人の祈りにも重なります。

 さて、詩人は「深い淵の底から」神を呼んでいます。この淵とはいったいどこにあるのでしょうか。当時の世界観では、天があってその下に何層にもなる地があったようです。そしてそれらの下は深い水が覆っている混沌とした世界でした。天地創造以前の世界がまだそこにあったのです。今この詩人はその深い混沌とした世界、神の力も及ばないようなその深いところに自分はいるという認識なのです。何が問題であったのか具体的なことは何もわかりませんが、この詩人は人間が陥るあらゆる危機的状況の中でも、最も深く恐ろしい淵に投げ込まれていると言っているのです。

 その深い淵の底で詩人は何をしていたのでしょうか。すべてのことに絶望して、ただ沈黙して、死ぬことを願っていたのでしょうか。そうではないのです。この詩人は神の御名を呼んでいるのです。神に向かって叫んでいるのです。声の限りに神の御名を呼んでいるのです。ヘブライ語では「カーラー」という言葉ですが、「あなたを呼ぶ」という意味です。礼拝の中で主の名を呼ぶ時もこの言葉が使われます。先日の説教では預言者ヨナのことをお話ししましたが、神がヨナをニネベの町に遣わされた時に、「神の言葉を告げ知らせよ、神の言葉を語れ。」と言われたのもこの言葉です。大きな声で叫ばなくてはならない時に使う言葉なのです。

 叫ぶというのは、その人の心にある願いや祈り、または欲求や心の思い等すべてを爆発させて声に託していくことです。その人の全人格がその声に集約されるということです。人間が危機に陥った時には、その人の持っているすべてのもの、一切合切が奪われてしまって、なすすべがなくなってしまうことがありますし、努力したくてもその糸口さえ見つからず、どこから手をつけて良いのか、どこに進めばよいのか、何一つわからないというような状況に陥ってしまいます。その時そこになお残されているのが叫ぶということです。叫び求めることです。

 では誰に向かって叫ぶのでしょうか。それが「主なる神」です。「主よ、あなたです。あなたに向かって私は叫ぶのです。」と言っているのです。光が届かない深い淵の底で、詩人はただ神に向かって叫ぶことが赦されていたのです。そこから助け出すことのできるお方は、この詩人が全身全霊で信頼する神以外にはいないとわかったのです。そこで詩人は神に向かって声の限りに御名を呼んでいるのです。「(2節)主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」ここで「主よ」と訳されているのは「アドナイ」で、自分の主人に向かって呼びかける敬意をこめた呼びかけです。「ご主人様、どうか私の言うことを聞いてください。」と願っているのです。

 この詩人が置かれていたのは必ずしも何か絶望的な状況ではなかったでしょう。しかし詩人は自分の心をのぞき込んで、その奥にある虚無感、生きている虚しさを知ったのではないでしょうか。アウグスチヌスが語っているように、人間の心にある神にしか埋められない穴に気づいたのではないでしょうか。

 ところがここで「(3節)主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう。」ここには、人間の不義に目を留めて、これを裁く神が語られています。ここに出てくる神は、人間の不義に容赦なく対応する正義の神というイメージです。しかしながらここではそういうことを言いたいわけではないのです。この3節は「誰も耐え得ません。耐え得る人は誰もいません。」という答えが予想されている修辞的疑問文なのです。

 神が人間の罪や不義に目を留めて、これを徹底的に裁くというのであれば、そういう神に見つめられた人間はとうていこれに耐えられず、神の前に立つことはできません。倒れてしまい滅びてしまいます。しかしこれでは人間を生かそうとする神の御心に添えないのです。確かに旧約聖書の神は義なる神であり、人間の罪を罰してやまない厳しさを持っていますが、それ以上に憐れみの神であり、赦しの神なのです。神の義は、神の愛に包まれています。

(4節)しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」神が人間の罪を問われるならば、人間は誰一人として神の前には立ち得ません。私たちすべての人間は皆罪あるものだからです。人間は自分の罪が神に裁かれる時、神を恐れます。それは確かにそうでしょう。しかし裁かれるべき人間が赦される時には、人は心から神を畏れるのではないでしょうか。ここで詩人ははっきり「赦しはあなたのもとにある」と神に赦しがあると語っているのです。裁きをなす神に赦しがあるから、人間は神を畏れ敬うのだと語っています。ここでの畏れるというのは、畏敬の念を持つことです。

 旧約聖書の時代は、神を信じるということは神を畏れるということでした。ただその存在を信じるだけではなく、見えざるお方の大いなる力と聖さを畏れたのです。詩人は言います。あなたに赦しがあるから、だから私たちはあなたを愛し、畏れ敬うのです、と。ここには、私たち罪ある人間としての共通の告白がなされ、同時にその赦しに対する確信が語られているのです。

 5節以降には詩人の今の心境が語られています。それは待つということです。「(5節)わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」「(6節)わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。」ここには「待つ」ということと、「待ち望む」ということが繰り返し、繰り返し語られています。

 ここの「待つ」(カーワー)には、身をねじったり伸ばしたりするという意味が入っています。身をよじるようにして、神よ、あなたを待ち望んでいます、と、神の赦しの言葉を待ち続けているのです。もう既にその言葉を受けとった、手に入れたというのではありません。神に望みをおき、神が与えてくださる言葉を待つこと、その言葉を信じて待っていることこそが信仰者の姿なのです。それは今、コロナ禍にある私たちの姿ではないでしょうか。

 そのように、神に望みをおいて神を待望する心が、6節に美しく歌われています。「(6節)わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。」神に望みをおいて神を待つ心が、町の城壁の上に立って寝ずの番をしている見張りが夜明けとともに自分の務めが終わるのを心待ちにしている心情にたとえられています。夜通し起きて番をしている見張りは、朝が来るのを切望しています。しかし、夜明けの前には夜の闇は一段と暗く厚くなるのです。見張りはいっそう睡魔に襲われます。だからその時、見張りは目を凝らして東の空を見つめるのです。そのように見張りがまだか、まだかと朝を待ち望んでいる心情を思いながら、それにも増して、詩人は神を待ち望んでいるのだと歌うのです。

 あるいはまた、ユダヤ教の伝統によると、レビ人が神殿で寝ずの番をする時は、暁とともに犠牲を捧げる習慣があったようですから、見張りが朝を待つように主を待ち望むということを、そのような行為の意味に解釈することもできるようです。いずれにしても、今、深い淵の底にいる詩人にとって、待たれてやまないのは、一条の光が差し込む朝です。夜の暗さが増すにつれて、夜明けが一層強く待ち望まれるのです。そして夜明けが近づいていることは、見張り(夜回り)が一番よく知っています。言葉を変えれば、罪の自覚が最も深まる時こそ、神の赦しの声を聞く時は近いのです。

 詩人が置かれている状況は、深い淵の底にたとえられているように厳しく暗い闇でした。しかし暁は近いのです。詩人が主を待ち望むと言っているのは、神の慈しみと贖いを信じているからです。そこには赦され難い不義の人間の罪さえも赦される根拠があり、救われる理由があるのです。そのためには人間側に何の保証も努力も必要ではありません。使徒パウロがローマの信徒への手紙9章15-16節で「神は『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」と語っていることに通じることです。

 さて、この詩編は約束の言葉で結ばれています。「(7節)イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。」「(8節)主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。」ここには慈しみが神のもとにあること、豊かな贖いが主のもとにあることが語られています。これは詩人の経験に基づく確信です。詩人はそのような自分の体験を、自分だけのものに終わらせるのでなく、自分の隣人に、また同じ礼拝を守っている会衆一同に向かって語り、神の御業を伝えているのです。詩人は人々にどんな時も「ひたすら主を待ち望め」と呼びかけているのです。神は約束に忠実なお方であられるのだから、信頼して主を待ち望んで生きるようにと勧めているのです。今朝、主なる神は私たちにもそう呼びかけておられます。

 最後になりましたが、この詩編の始めにもどって考えてみたいと思います。この詩編の1節には「都に上る歌」とありました。以前もお話ししましたように、詩編120編から134編までの15の詩編には、同じように「都に上る歌」という表題がつけられています。これらの詩編は、一般的には人々がエルサレムの神殿に巡礼として詣でる時に歌った歌だと考えられているのです。ですから、「都に上る歌」は、神の家に向かって上っていく歌です。そしてまたこの詩は、深き淵から出発して、救いの喜びへと上っていく信仰者の歩みを歌っている詩だと思います。絶望が希望に変えられていくのです。私たちは今、苦しく厳しい時を過ごしています。しかし「主を待ち望め」という約束に満ちた御言葉を信じて、夜明けの光を待ち望みながら歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)