幸いと不幸

ルカによる福音書 6章20~26節

 本日は待降節の第三主日の礼拝です。この礼拝に共に招かれましたことを感謝いたします。

 早速、本日の説教箇所に入ります。参考までに、前回(11月14日)の説教箇所の大筋は、「主イエスさまが山に行き、徹夜の祈りをした後、朝になって弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒とされた後、一同は山を下り、平らのところにお立ちになった。」のでした。その流れで、本日の説教箇所へ入っています。また、本日箇所を含めまして、6章全体は、マタイ福音書(5~7章)の「山上の教え」に準え、“平地の教え”と呼ばれております。
 なお、本日箇所直前の段落は、イエスさまが平地に下り立ったとき、“大勢の弟子や民衆が各地から集まって来て、イエスの話を聞き、また癒しを乞うていた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとしていた”として、平地に下り立ってからの伝道の様子を、総括的に記していることから、6章全体の、いわばイントロ的部分であるとも言われています。

 早速、本日箇所に入っていきます。20節「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」から始まります。“目を上げて弟子たちを見て”とは、おもむろに、一人一人を見ながら、これから、大切なお話をしますよ、という、緊張感が溢れた瞬間でもあります。

 次は、イエスさまが言われたお言葉に注目です。「貧しい人々は、幸いである、」この言葉を初めてわたしたちが読んだとき、「えー、なぜ?」と、疑問が湧いてきます。それは、貧しい人々が幸いであるという、逆説的な、そして、世間の常識を覆す言葉だからです。しかし、この言葉に続いてイエスさまは「神の国はあなたがたのものである。」と仰いました。そうです。このような、逆説的宣言、それは、本日箇所全体が、“神の国に関わること”だからです。

 ここで、主イエスさまが、ガリラヤ伝道の始めに言われたお言葉に注目しましょう。マルコ福音書の、1章14節、15節です、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」と、御国の到来を告げ、悔い改めを説いておりました。
 この時の“御国の福音”に関するイエスさまの思いは、本日箇所にも通じています。
そして本日箇所(20節~26節)全体に目を通しますと、「〇〇の人々は、幸いである、」との、“幸い宣言”が四つ続き、その後には、「〇〇の人々、あなたがたは、不幸である。」と、全く逆の宣言が四つ続きます。これも、ルカ福音書ならではの特徴です。因みに、この“不幸宣言”は、マタイ福音書にはありません。

 20節b「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」
 この宣言の言葉は、文語訳聖書では「幸福(さいわい)なる哉、貧しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。」とあり、「幸福だ、これこれの人々は」と、いかにも“幸福宣言”と言うにふさわしい言葉となっています。また「貧しい人々」について、岩波版聖書では、「幸いだ、乞食たち、神の王国はそのあなたたちのものだ。」と記しています。「貧しい人々」は原語(ギリシア語の「ポトコイ」)で、「物乞いをして生きている人々」を表しているのです。

 主イエスさまがこの地上で宣教されたころ、また、その後々までも、イスラエルは、ローマの支配下にあって、人々生活は貧しく、飢え、悲しんでいる人々が多くいたのです。その故に、イエスさまは、特に社会で弱くされている人々のことを意識しながら、福音が伝えられたことを多く取り上げているのも、このルカ福音書の特徴です。たとえば、罪深い女性、重い皮膚病の人、金持ちとラザロの話、等々です。

 主イエスさまの平地での説教には、大勢の弟子たちや、民衆が、真剣にイエスの話を聞こうして、また癒しを受けようとして集まって来ていて、その中には、貧しくされている人、飢え渇きを覚え、そして、痛み、悲しみを抱えながら生きている人々が、沢山いたことでしょう。その人々に向かって、あなたがたは幸いである、なぜなら、神の国はあなたがたのものです。あなたがたの飢え渇きは、やがて満たされ、またさらに、あなたがたの悲しみは、やがて、喜び、笑いに代えられますよ、と「幸いの言葉」を告げているのです。

 ここで、皆さんに思い起こしていただきたい箇所があります。それは、イエスさまがガリラヤ伝道の初期の頃、ナザレの会堂で説教をされたときのことです。最初に手に取られた巻物、それはイザヤ書61章1節の次の言葉でした「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」このみ言葉は、預言者イザヤが伝えた、メシア到来の預言の言葉ですが、本日箇所の主イエスさまのお言葉ともなります。

 次の21節は「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」、これは、今、“飢えている人々”そして今“泣いている人々”がそのまま、幸いである、と言っているのではありません。すべては、20節後半の言葉、「神の国はあなたがたのものである」に関連しています。主イエスに従い、神の国を求め、み言葉に従って生きている人は、やがて御国に招かれ、幸いな者とされる。そしてさらに、今すでに、この地上に展開されつつある御国の一員として、主なる神の祝福に与ることができるのです。と仰っています。

 12月8日は、第二次世界大戦で、日本がアメリカに対して、戦争を仕掛けて日です。このことに関連したテレビ番組も、いくつか目につきました。また今年は、昨年から延期された“オリ・パラ2020”が開催されましたが、さらに、2022年に予定されている冬季オリンピックを巡っても、心が痛むニュースが伝えられています。このように、人間の世界の出来事は、人の思惑や欲望、考え方、対立・抗争など、日常の生々しい出来事によって、色々と左右されており、その行き着くところを知りません。
 しかし、主なる神が支配したもう神の御国は、決して変わることがありません。そして、目標がはっきりしています。主イエスさまは繰り返し言われます。「〇〇の人々は、幸いである。」なぜなら、「神の国はあなたたちのものである。」とです。

 次は22節に入ります。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」とあります。(“人の子”とは、勿論、イエスさまご自身のこと)具体的な例として、イエスさまが伝道を始められた当時、ファリサイ派の人々や律法学者は、イエスさまや、また弟子たちに対して、対立の姿勢をとり、ことに触れて、クレームをつけてきました。断食のこと、或いは、安息日の癒しのこと等々です。そして、ときには、“怒り狂って、イエスを何とかしよう”とまで、荒れ狂ったときがありました(6章11節)。そしてやがて、イエスを信じるキリスト者は、ユダヤ教の会堂から追われることにもなりました。しかし、主イエスさまを信じ、イエスさまに従って生きるがゆえの、人々から受ける、憎しみ、ののしり、不条理な汚名、そして追放、などすべては、あなたがたが、神の国のご支配の中で生き続けるとき、それらはすべてが、「幸い」へと変えられます、と、福音を告げています。

 なお、この22節の前までは、「〇〇の人は幸いである」として、その状態に置かれたその人々は幸いである、との宣言でしたが、22節においては、「〇〇の状態に置かれているときは幸いである、として、その人が置かれている、いまのその時、その時に対し、きめ細やかに“幸い宣言”をされていることに気づかされます。

 このことを受けて、次の23節に入ります。「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」要するに、“歴史は繰り返す”、今、人を憎み、ののしったりしている人々の先祖も、当時の預言者に対して、同じことをしてきたのだ、と言っております。

 次は、24節に入ります。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」として、そのあと、“不幸についての宣言”が四つ続いています。しかし、ここで注目したいのは、ここから後の節にかけて「あなたがたは」と呼んでいる、その対象者は、前半の「幸い宣言」での対象者と違う人々を前提に、「あなたがた」と呼んでいるのです。
それは今まで、“幸い宣言”をしてきたその対象者の周りに、或いはいるであろう、別の人々に向けての言葉です。自分は富んでいる、自分はいま満腹している(物事に事欠くことはない)、或いはまた、自分には笑いだけで、憂い、悲しみなど一切ない、と、嘯(うそぶ)いている人たちのことです。では、そのような人たちはどうなるのでしょうか。

 先ず、24節「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」、やがて御国で受けるであろう、神からの慰めや喜びを、もうすでに受けてしまっている、とイエスさまは言っています。同様に25節、今満腹している人(前述)はやがて、飢えるようになり、また、今笑っている人々も、やがて、悲しみ泣くようになるのだ、と同様に言っています。
以上、主イエスさまの“平地の教え”を聞いて参りました。どうか、これからもわたしたちは、イエスさまに確りつながりながら、生きていくことができますように、そして、貧しさ、飢え、悲しみなど一切が、幸いへと変えられますように、と願っています。

(牧師 永田邦夫)