婚宴に招かれる人

マタイによる福音書22章1〜14節

 今の季節は気候も良くて結婚式が多くなります。これから結婚式を予定している若い二人がおられましたら、人生で一番幸せな時が、どうか祝福に満ちたものでありますようにと心から願います。今朝はイエスが語られた婚宴のたとえ話を通して、神の言葉を聞いていきたいと思います。

 1節に「イエスは、また、たとえを用いて語られた。」とありますが、ここに「また」とあるのは、前の21章にある二つのたとえ話に加えて、という意味です。21章28〜32節には「二人の息子のたとえ」、33〜44節には「ぶどう園と農夫のたとえ」が書かれています。それらのたとえ話は、イエスが天の国について教えられたことに対して、ユダヤ教の指導者たちの取った態度について語られているのです。21章45節に「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとした。」と、はっきり書かれています。

 イエスがこのたとえを語られたのは、過越祭が始まろうとしているエルサレムの神殿の境内です。ローマ帝国に支配されていたユダヤの人たちは、毎年この時期になると愛国心が高まり、独立への希望が燃え上がっていました。その期待は、ロバに乗ってエルサレムに入場したイエスに向けられていましたが、みんながそれを喜んでいたわけではなかったのです。群衆の期待が高まれば高まるほど、ユダヤ教の指導者である祭司長や律法学者たちは、嫉妬と妬みでいらだち、怒りを感じて、イエスを殺そうとしていたのです。一方では歓喜の喜びがあり、その陰には殺意が潜んでいる状況の中で、イエスはこのたとえ話をなさったのです。分かる人には分かるけれども、ある意味では一種の謎のようなものですから、深い意味が分からない人もいたと思います。

 2節から7節までに書かれていることが、このたとえ話の第一幕です。もうおわかりのように、「王」とは神のことであり、「王子」とはイエス・キリストのこと、「婚宴」は天の国のことです。「婚宴に招いておいた人々」というのは、神に選ばれた民であるユダヤ人のことです。

 まずこのたとえ話は天の国が王子の「婚宴」という喜びの場にたとえられています。神の恵みが「ぶどう園と農夫のたとえ」より豊かで大きなものになっています。前のたとえでは天の国は「ぶどう園」にたとえられていましたから、ぶどう園を任された人は農夫として働かなくてはなりません。しかし今度は天の国が婚宴にたとえられています。招かれた人はごちそうを食べて楽しめばよいのです。また「ぶどう園と農夫のたとえ」は、ぶどうの収穫時期の話です。収穫の季節は毎年巡ってきますから、来年またやり直しの機会があります。しかし王子の婚宴はやり直しがきかない一度限りの時です。ですから神の招きははるかに熱心になっているわけです。

「(3節)王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせた。」神の婚宴に招きを受けていたのはユダヤ人でした。しかし「来ようとしなかった。」とあります。王から名指しで招待を受けたら何をさておいても参上するはずでしょうが、誰も来ようとしなかったというのです。そこで、もう一度、今度は別の家来たちを送ったわけです。〔(4節)そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』〕

 ところがどうでしょう。「(5〜6節)しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」そのような丁寧な招待を受けたにもかかわらず「人々はそれを無視した」のです。具体的には自分の畑に行ったり、自分の商売に出かけて行ったというのです。つまり、王のことよりも自分のことを優先的に考えて行動したのです。婚宴という人生で二度とない機会を、彼らはその日でなくてもいつでもできることに費やしたのです。さらには「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」これは王子の婚宴を喜ばずに、真っ向から敵対している態度ではないでしょうか。

 いったいこの人たちが誰なのでしょう。それはファリサイ派の人や律法学者に代表される偏狭なユダヤ主義者です。ユダヤ人は神様に特別に選ばれた民でした。先祖アブラハムに現れた神は、恵みの約束を与えてイスラエルの民を導かれました。しかし、ユダヤ人は生活が安定すると神の恵みを忘れて選民であることを誇り、真の神の御心から遠ざかるようになってしまったのです。この間、神は度々預言者を送って(たとえ話では、主人から送られた僕、王から遣わされた家来となっています。)反省を促したのですが、その言葉に耳を貸すことなく、逆に迫害して神の招きを拒み続けていたのです。(遂には最後に送られた神の子さえも殺してしまうことになりました。)

 王から遣わされた家来たちを捕まえて殺してしまうような、真っ向から神の招きを侮辱することも、自分の生活を大事にして神の招きを無視することも、どちらも婚宴の招きに応えないということで、王と王子への反逆心を表しています。ですから「(7節)王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」のです。

「ぶどう園と農夫のたとえ」では、イエスがぶどう園の持ち主である主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうかと尋ねると、たとえ話を聞いていた聴衆は「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(21章41節)と答えています。今までの農夫が悪くてだめなら、別の農夫を新たに雇わないといけないということは、常識的な答えかもしれません。

 しかしこの婚宴のたとえでは事情が違います。王としては、自分の息子の婚宴なのです。招いておいた招待客が来てくれないとなると、宴会を中止せざるを得ません。あるいは内輪だけでやる以外になさそうです。しかしそこで王は考えたのです。準備した宴会がお流れになるくらいなら、むしろ見ず知らずの人でも良いから、通りがかりの人たちを呼んできて宴会場をいっぱいにして共に喜びたいと思ったのです。「(8〜10節)そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」この場面が第二幕です。

 王は王子の婚宴の席に一人でも多くの人に来て欲しい、一緒に喜んで欲しいのです。王である神の招きは、本当に神の誠実と真実に満ちた招きであって、神はすべての人を宴会に来てくれるようにと願って招いておられるのです。一生に一度の王子の婚宴ですから、王である神が熱心になるのは最もです。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」この招きは、道を通る人を選別しないで招いています。道にはいろいろな人が通ります。そこの市民だけでなく旅人も通ります。国籍もいろいろです。つまり誰であっても招かれているということです。

 イエスは「二人の息子のたとえ」で「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(21章31節)と言われました。ユダヤ人は、こういう職業の人達を「汚れた民、」「神から見捨てられた者」と言ってその存在すら認めようとしませんでした。またユダヤ人以外の異邦人が神の恵みを受けるなどということはあり得ないと考えていました。しかし、神の広く深い愛と招きは、人種や民族の壁を乗り越え、社会的身分や地位や職業に関係なく、すべての人に及んでいるのです。今もし、神の招きの声を聞いたのでしたら、通り過ぎないで足を止めて、どうぞその招きに応えてください。

 さてそのようにして集められた人たちが宴会を始めようとした時のことです。ここが第三幕です。ここには、厳しく恐ろしい出来事が書かれています。「(11〜13節)王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」「外の暗闇」というのは、宴会場の外の暗闇と理解することもできますが、ユダヤの婚宴は必ずしも夜に限って開かれていたわけではありません。婚宴は一週間ぶっ通しで行われましたし、まして王子の婚宴ですからさらに長い期間お祝いの行事が続いたことでしょう。ですから外の暗闇は、宴会場の外の暗闇という意味だけではなく、死後の裁きによる滅びの世界である闇をもイメージされていると思います。

 このところで教えられるのは、婚宴に列席した者の中から外に締め出される人がいる、ということです。神は確かにすべての人を熱心に招いておられますから、招かれる人は皆宴会の席につけるかというとそうではないようです。ここには礼服を着ないで入って来た人のことが書かれています。いったいこの礼服とはどういうものでしょうか。このたとえでは、礼服の必要性が強調されていますが、礼服の入手法については何も説明がありません。つまりこれは、当時の聴衆にはわかりきっていたことだったと考えられます。

 確かに神は人種も民族もなく、すべての人を招いておられます。善人も悪人も招いておられます。しかし招かれた人がもとの格好のままで天の国の座席に着けるかというとそうではなかったのです。町の中からまっすぐに王宮に連れてこられた人には、式場に着いてから礼服を貸し与えられたようです。王子の婚宴の祝いの席に普段着や汚れた労働服のままでは、王に申し訳ないからです。宴会はあくまでも王子の婚宴として王の威厳を保って開かれたので、招きに応えた人は王の婚宴にふさわしい礼服をつけて威儀を正して出席したのです。古来、王の宮殿に詣でる者の衣服を支給するという習慣は、広く行われていたようです。ですから、囚人ヨセフは急にエジプトの王の前に召し出された時には、衣服を着換えてファラオのもとに行くことができました(創世記41章14節)。

 この場面では婚宴直前の招待ですから、家来たちは大通りを歩いている通行人を、一刻の猶予もなく王宮へと直行させたと思われます。その限りでは出席者の誰もが礼服を持っていなかったことが想像できます。ですから、皆に礼服が貸し与えられたはずです。しかし不思議なことにそこには礼服を着ていない人が一人いたのです。王からそのことを指摘されると、彼は「黙っていた」とあります。これはもし、招かれた人たちが各自で礼服を持参すべきだったとしたら考えられないことです。自分は貧しくて礼服など持っていませんとか、家に帰って着替えるひまがありませんでしたと言って、いくらでも弁解できたはずです。彼が黙らざるを得なかったのは、明らかに、王宮で支給された礼服を彼が着ようとしなかったからでしょう。この人は王の栄光を傷つけないようにと貸し与えられた礼服を拒否したのです。王からの恵み、賜物をいらないと断ったのです。この人は王(聖なる神)に対する尊敬も畏敬の念も持っていなかったのかもしれません。体は汚れたままで、平然と座っていたのではないでしょうか。そのことが王の怒りをかったのです。

 王の前に出る時の礼服とは、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」(エフェソの信徒への手紙4章22〜24節)ことです。また、「洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(ガラテヤの信徒への手紙3章27節)。」礼服というのは、キリストを信じてキリストで覆われることです。

「(14節)招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」この言葉は、心して聞かなくてはならない言葉です。私たちはいまここに招かれています。しかし私たちの前に礼服が出されているのに、それを着ようとしない者になってはいないでしょうか。他人事ではないのです。私たちは弱い者です。自分の心さえも自分で制御できないものです。感謝をもって神を仰ぎ、神の尊い愛に応えて謙虚に生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)