コリントの信徒への手紙一 4章6〜21節
お読みした聖書個所で、パウロは大胆に「わたしに倣う者になりなさい。」と勧めています。こういうことは普通の人間にはなかなか言えない言葉です。ところがパウロはそう断言できる自信を持っていました。コリント教会が陥っていた傲慢な態度や高ぶりを何とかしたいと考え、この箇所ではパウロが伝道者としての自分の姿を語りながら諭しているのです。
前回は「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけない(5節)。」ということを学びました。つまり自分で自分を評価せず、ただ神から賜ったものの忠実な管理者として生きていきなさいということでした。ところが人間という者は大変厄介な生き物で、自分が正当な人間として扱われないと不満を抱くものなのです。人間が持つそういう思いは、何か事が起きると表面化してきます。人間はいつも自分の正しさと自分の値打ちを主張しながら生きている者かもしれません。
コリント教会では「私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファに。」という争いがありましたが、それもまたこの問題に関わることです。パウロから見れば「私はパウロにつく、私はアポロにつく」と言っていること自体が、自分を目立たせようとし、自分を正当化しようとしていることに過ぎない、そういう党派心もまた自分を偉く見せようとしていることだというのです。そのリーダーが自分と親しい者だと言っていることだからです。ですから3章18節でパウロは「あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」と勧めています。言い換えれば、自分が正当な一人前の人間だと思っている人は、一人前の人間になるために愚かな者になりなさい、ということです。パウロは人間の評価や判断よりも神の思いを大事にしていました。それで4章の始めで、私を裁くお方は主である、人間を義とされるのは主なる神だけだ、ということを語っているのです。
そのことをここで明らかにしています。「(6節)兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」自分もアポロもただ神のみを恐れて生きている者である。自分が何か特別の人間でもあるかのように誇ることは愚かなことだと言っているのです。「書かれているもの以上に出ない」というのは、聖書に書かれていることを守って生きていくということなのだと思います。神の前に生きる私たち人間は、神を畏れて謙虚に生きていくことが求められているのです。
そこで「(7節)あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」と言っているのです。信仰生活というのは、何か道徳的に正しいことをするように思われがちです。信仰者らしくあるためにはこうあるべきであるとか、あれこれ考えるかもしれません。しかし信仰者の生活で最も大切なことは、何を基準に生きているのかわきまえることです。それは言うまでもなく神の御心です。神の前ではどんなごまかしも通用しません。ですからだれも自分で自分を義とすることはできません。自分が正しいと言えないのです。神の前ではすべての人が平等です。それは私たちが互いに違いがないというのではなく、違いや差のある人間を、神だけが同じように扱うことがおできになるということです。そのことをしっかり受け止めるなら、人は誰でも神の前に謙虚になることができます。
人間が自慢するものは何でしょう。あれを持っているこれも持っている、あれもできるこれもできると自分が持っているものを誇ります。しかしパウロは言います。「(7節)あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」私たちの命も身体も心もとても精巧に作られていて、それらは自分のものではありますが、自分で造り出したものではありません。すべていただいたものです。ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た、裸でそこに帰ろう(ヨブ記1:21)。」と言いました。この7節の言葉はすべての人間に悔い改めを迫るものではないでしょうか。
私たちが持っているものはすべていただいたものであること、自分が神によって造られた者であることを信じるなら、本当の自分を知ることができるのです。ところが人間はなかなかそのように考えることができません。自分中心にしか自分を見ることができないのです。それが罪の姿です。その罪から抜け出す解決方法がこの先の6章20節に書いてあります。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい。」私たちは、罪という主人からキリストという主人に買い取られた者なのです。従って今私たちが持っているものはすべて神のものであって、自分のものではないのです。
「すべてのものは神からいただいているものだ」と語った後、パウロは「(8節)あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。」と言います。あなたがたはすべてのものをいただいていて、いただいたものでないものは何一つないにも関わらず、実際にはどれも自分たちが得たもののように思って満足しきっている。そして既に大金持ちのような気分になっているとしか言いようがないではないか、とパウロは激しく追及しているのです。
信仰生活というのは、神により頼みながら生きる生活です。それなのに、コリント教会の人たちは神に祈り、神を求める気持ちが薄れていき、もうこれで良いと満足しているわけです。むしろ神が煩わしくなっているかのようです。従って王さまにでもなったかのような気持ちになっているのではないか、そういう状態ならば、そこに神の恵みが入る余地はないではないか、とパウロは言っているのです。「わたしたちを抜きにして」という言葉がそのことを雄弁に語っています。
そこでパウロは、自分の伝道者としての立場や、今日までの使徒としての在り方を率直に語ることによって、神を信じて生きる人間のことを話します。「(9節)考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」パウロは自分たち伝道者の生活は、神によって見世物にされているようなものだと語っています。見世物とされた者には自分の考え、自分だけの生活はありません。見せる人の考えに従って動くだけです。伝道者である自分は、神がお望みのように動いて来たし今も動いている。パウロはそれを見世物だと言っているのです。ここで「まるで死刑囚のように最後に引き出される者」という表現がありますが、これはローマの闘技場で、行列の一番後から引き出される者のことで、最も惨めな立場の人です。興奮して少しぐらいの刺激では喜ばない群衆の前に最後に引きずり出され、飢えた猛獣との激しい戦いの相手として見世物となる人間のことなのです。パウロは自分たち神の使徒というのは、そういう苦難と恥辱を浴びせられている者であること、そして文字通りそのような歩みをしてきたのだと語っているのです。
パウロには、こういうパウロたち伝道者の苦労が少しもわかっていないコリント教会の人々への批判があるのかもしれません。「(10節)わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。」ここで「自分たちはキリストのために愚か者となり、コリント教会の人はその反対にキリストを信じて賢い者となっている」と言っていますが、それは文字通りのことではなく、人の目には、コリント教会の人が賢く見え、パウロたちが愚かに見えるだけです。人間は自分が賢いと思った時に愚かになっているのです。
同じように「わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。」とパウロは自分の弱さを誇っています。
コリントの信徒への手紙二12章10節に「わたしは弱い時にこそ強いからです。」とあるように、パウロはキリストの僕となってから今に至るまで、自分が窮地に陥って弱さを痛感している度に、神がその強さを発揮されたことを思い出しているのです。パウロはその都度、神への信頼を増していったのです。「(11〜13節)今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」ここに書かれているように、自分の命を神の前に捧げて生きてきたパウロは、コリント教会の人たちに心を尽くして語っています。「あなたがたはキリストを知り、福音に与ったことによって、上からの知恵を与えられました。それによって自信を得、雄弁となり、人々の信用を得て良き地位を得、富み栄え、お金持ちになってまるで王のようにふるまっています。しかし、それで良いのですか、そのような態度で生きてきた結果、今あなた方の中には、争いがあり、ねたみがあり、不品行や混乱に満ちているではないですか。」と神の前での悔い改めと、へりくだって今までの行いを反省するようにと迫っているのではないでしょうか。
「(14節)こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。」ここからは今までと全く異なった口調で、愛と権威を持ってコリント教会の人達を諭しています。コリント教会の人達を、「愛する自分の子ども」と言っています。「(15節)キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」当時は、子女の教育は奴隷の中から選ばれた養育係が担っていました。例えそのような者が一万人いたとしても、福音において彼らを生んだ父はパウロだけであると語っているのです。それはコリント教会の中にどのような不信と破れがあっても、この教会を起こしたお方は主イエスの父なる神であり、この教会は神の教会であるという確信がパウロにはあったからです。
「(16節)そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」とパウロは言うのです。私たちはよほどの自信過剰の人でない限り「自分に倣う者になりなさい」というような口幅ったいことはとても言えません。これは信仰によって生きているパウロが、自分が主を信じて生きているように、あなたがたもそうしなさいということです。そのためにパウロは愛する弟子を送ったのです。「(17節)テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」ここで大切なのは、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」という言葉です。初期のキリスト教は、単なる教えではなく「この道に従う者」(使徒言行録9章2節)とあるように、その人の生活のあり方であり人間の生き方でした。テモテはパウロの生活をしっかり見ていて、それを自分も見習っていました。
「(18〜19節)わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。」ここでもコリント教会の高ぶっている人たちに対して反省を促しています。言葉ではなく、力を見せてもらおうと言っています。
そして「(20節)神の国は言葉ではなく力にあるのですから。」と結んでいます。神の国は単なる言葉ではなく、様々な価値観に翻弄され、欲にまみれたこの世にあって、私たち人間が神の御心に添って生きる力、正しく生きる力にあるからです。このように、パウロは使徒としての権威を持ちながら、福音において生んだ子どもであるコリント教会の人たちに対して、父としての愛を持って優しく諭しているのです。信仰は主なる神を信じることによって救われることです。この救われるというのは、罪の赦しはもとより、福音の言葉によって人間全体が救われることです。コリント教会の人たちと同様に、私たちもこのみ言葉からしっかり教えられたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)